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ローマの信徒への手紙 6:12〜14

2020年2月19日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:12〜14(新共同訳)


 パウロは、「キリストを信じることを通して与えられる神の義によって救われる」(3:21~)ということを丁寧に語ってきました。キリスト以外のものに望みを置かず、自分を誇ることがないように、救いについて語ってきました。

 ところが、パウロが「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(5:20)と語るに至って、では「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)という批判が投げかけられました。「あなたが言っていることはおかしいだろう」と言うのです。

 それに対してパウロは「決してそうではない」(6:2)と、さらに洗礼が示す救いの恵みを明らかにします。
 救いは、キリストと一つにされることです。特に、その十字架の死と復活に結び合わされることです。つまり、キリストと共に死んで罪から解放され、キリストと共に神に生きるという神の奇跡なのだとパウロは言います。
 パウロはガラテヤの信徒への手紙でこう言います。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ 2:20)
 この「キリストと一つに結び合わされて神と共に生きる」というのが聖書が伝える救いです。イエスも言われます。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ 28:20 口語訳)

 パウロが今語っている内容は、神学では「聖化」と呼ばれます。聖化とは、神のものとされる、この世から分けられる、清められることを意味します。これはパウロが批判した律法で生きるのとは何が違うのでしょうか。

 律法で生きるのは、自分に生きるのです。救われた者が神に生きると言われるのとは反対です。律法で生きる者は、自分を誇りとします。キリスト者の場合、神を讃え、感謝しつつ、自分の信仰を誇ります。わたしは罪人ですと言いつつ誇ります。さりげなくですが、誇ります。自分が信じていること、自分が奉仕していること、自分に目を向けています。やっかいなことに自分に目を向けていることにも気づかず自分を誇ることがしばしばあります。
 一方聖化は、神の恵みによって神に生きるのです。自分でこういうことをしようではなく、神が自分に何を願っておられるのか、神の御心は何かを祈り求め、思い巡らしていくのです。そのとき、神の救いの出来事、神の恵みの事実を基準に考えます。ここでパウロは、キリストの十字架と復活、それを指し示す洗礼に基づいて考えていきます。そして、神の救いの御業、神の恵みにふさわしい在り方を求めていくのです。きょうの聖書の箇所は、パウロが救いの出来事、イエス キリストに思いを向けて、神の御心を聞いていった箇所です。

 わたしたちは、自分で立つことはできません。大地に支えられているから立てるのです。支えるものが何もない空中で立つことはできません。またわたしたちは、自分で泳ぐことはできません。水に支えられて浮かせてもらうから泳げるのです。同じようにわたしたちは、神の救いの御業、神の恵みに支えられて神の民として立つことができ、歩むことができるのです。聖化も、自分でやる、自分の願い通りにするなどと力を入れるのではなく、恵みに支えてもらい、そして神の御心を祈り求めつつ、従っていくのです。

 キリスト者は、キリストの十字架と復活に結び合わせられるため、洗礼を受けました。洗礼により、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活しましたことを覚えさせられます(6:5)。キリストと共に死んで、キリストと共に生きる(6:8)のです。キリスト者は、罪に対して死んだ者であり、神に生きている者です(6:11)。これが神の救いの御業です。神がなしてくださった事実です。だから「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げ」る(6:13)のです。

 ここで注意点が一つあります。この自分を献げるとき、できたできないの自己評価はしないのです。ただひたすら神の御心に思いを向けるのです。自己評価を止めるのです。自己評価は、神の恵みを忘れて、自分で立とう泳ごうすることです。既にイエス キリストが十字架を負って罪を贖ってくださいました。わたしたちはキリストによって救われているのです。評価は神がなさるものであり、神はわたしたちを義としてくださいました。わたしたちは救いの恵みの中で、安心して神に委ねて生きるのです。思いを向けるのはイエス キリストであり、神の言葉です。繰り返して言いますが、自己評価はしないのです。思いは神に向けるのです。

 その際にパウロが繰り返ししているように、神の恵みの事実を確認します。きょうの箇所の最後に出てくる「あなたがたは・・恵みの下にいる」もそれです。この神の救いの御業の中にある事実を確認することが、罪を抱えて生きるわたしたちには大切です。
 わたしたちは罪を赦されました。罪の支配から解放されました。しかし罪がなくなった訳ではありません。日々罪を重ねています。救いが完成するのは、神の国に復活するときです。しかし、神の国を目指してキリストと共に歩むことが大切です。神と共に生きること、それが救いだからです。わたしたちはその恵みの下にあるのです。だから、その事実を知って、確認することが大事なのです。わたしたちは、キリストに救われ、キリストと一つにされ、今恵みの下にいるのです。

 自分自身を神に献げることは、時間かけて行うリハビリや体質改善に似ています。本来持っている命の力を回復させるために、日々行います。体が忘れてしまっている動き・働きを回復するため、毎日行います。
 わたしたちが神に従うときもこれと同じです。本来、神にかたどって造られ、愛され、祝福されています。けれど罪のギブスをはめていたため、動かなくなっています。また罪による曲がった姿勢・生き方で歪んでしまったものを整え直していくことになります。急には治りません。日々行っていくのです。それも自己流で行うのではありません。神の御心によって導かれていくのです。

 使徒言行録16章に、パウロたち一行がアジアで御言葉を語ることを聖霊に禁じられたと書かれています。信仰を持ってキリストの福音を宣べ伝えるために仕えていても、神が道を閉ざし神の計画は違うことを示されました。わたしたちも信仰を持って仕えようとしていても道を閉ざされることがあります。信仰から出た思いであっても、神は「それは違う」と示されて、わたしたちが神の御心を求めるように神は訓練をし、導かれます。自分の思いではなく、神の御心に委ねて歩むように、神が訓練されるのです。

 到達点ははっきりしています。イエス キリストです。「わたしたちは皆・・栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント 3:18)とはっきり語られています。
 神の国で復活するとき、わたしたちは復活のイエス キリストと同じ姿に変えられます。そして今は、その途上にあって日々「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」のです。

 これは律法によって自分を高め、自分を誇り、自分を喜ぶのとは、全く違います。恵みを受け、恵みに満たされ、恵みを味わって生きるのです。そして神に支え導かれ、神を喜び讃えて、神の国に至るのです。これが聖書が語っている聖化なのです。

 義認も聖化も、救いの一面を表すものです。義認は神がなしてくださるけれども、聖化はわたしたちの努力目標だ、などということはありません。義認も聖化も神の御業です。イエスはこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように・・わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ 15:16)
 イエス キリストがわたしたちを選び、任命してくださいました。だからパウロはフィリピの信徒への手紙でこう言います。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ 1:6)

 わたしたちは、信仰から信仰へ、恵みから恵みへと救いの道を導かれているのです。ですから恵みの下にあるわたしたちは、自分自身を神に献げ、委ねて生きるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの人生を、イエス キリストへ、神の国へと導いていてくださることを感謝します。どうかあなたの恵みを味わい、喜びつつ、あなたが愛していてくださるわたしたち自身を献げていくことができますように。御国の到来を待ち望みつつ、日々栄光から栄光へとキリストの姿に変えられていきますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン