聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマの信徒への手紙 5:12〜15

2020年1月15日(水) 祈り会
聖書:ローマ 5:12〜15(新共同訳)


 聖書は、救いについて語ります。どのような救いかというと、罪からの救いです。マタイ 1:21では、イエスの誕生を告げる天使が「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」と言っています。ですから、罪が分からないと、自分に救いが必要なのか、自分が救われているのか、よく分からなくなります。それでパウロは、罪をきちんと理解させ、イエス キリストが救い主である、イエス キリストによって救われているということを伝えようとしています。

 聖書はこう告げています。一人の人アダムによって罪がこの世に入ってきた。そして罪によって死が入ってきた。こうしてこの世は、死に支配される罪の世となってしまいました。
 聖書は、すべての人が罪を犯したと言います。罪とは、神と共に生きることのできない状態を言います。神と共に歩めない。神の御心に従えないことです。
 アダムとエバが、エデンの園において、禁じられていた善悪の知識の木の実を食べてしまいました。それによって、神の御心とは違う自分の善悪を持つようになり、神の御心に従うよりも自分の善悪に従うようになってしまいました。
 善悪の感覚は、人の思考の元にあるものです。「人は考える葦である」(パンセ)「我思う故に我あり」(デカルト)などと言われるように、思考はその人そのものでもあります。善悪の感覚もその人そのものです。それが神と相容れなくなってしまいました。様々な修行の中には、今までの自分から解放される、新しい自分へとなるためのものがありますが、神と一つになるのでなければ、新しい罪ある自分に変わるだけです。
 こうして人は、命の源である神から離れて、死に向かって生きるようになってしまいました。地を治めることを神から委ねられた(創世記 1:26, 28)人が罪を抱えてしまったため、世界全体が罪を抱えることになってしまいました。

 こうして世界全体が罪を抱えたため、この世に生まれてくるものは、すべて生まれながらに罪を抱え、罪を犯すようになってしまいました。幼子も、親の判断とは関係なく、自分にとってよいこと、心地いいことを求めます。親が危険だから触らないようにと言っても、子どもは興味を持ったら手を伸ばします。同じように、人も神の命令とは関係なく、自分が興味を持ったら、自分にとって楽しそう面白そう、自分がほしいと思ったら手を伸ばしてしまいます。
 ですから聖書は、生まれながらに悪を好むと言っているのではありません。聖書が言っているのは、生まれながらに神の御心とは違う自分の善悪で生きようとする罪を抱えている、と言っているのです。そして、神とは違う考えで、神から離れていくその先、命の源である神から離れていくその先には死と滅びがあると聖書は言っているのです。
 この罪と、罪がもたらした死と滅びを解決するには、罪からの救いが必要なのです。そして神は、わたしたちを罪から救う救い主としてご自身のひとり子イエス キリストを遣わしてくださったのです。

 神がアダムとエバに「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(創世記 2:17)と命じられたことによって、それを守れない従えない罪が露わになりました。律法の働きの一つが、罪を明らかにすることです。
 わたしたちは、アダムとエバのように善悪の知識の木の実を食べたことはありません。しかし律法を知るとき、神の御心を自分の思いとして生きることのできない自分の罪を知るのです。そして、すべての人が死に囚われているという事実が、どんなに素晴らしく見える人であっても罪を抱えており、すべての人が罪からの救いを必要としていることが分かります。

 アダムの物語は、一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入ってきたことを示しています。このアダムが犯した罪を、神学では原罪( Original Sin )と呼びます。アダムの出来事は、罪の本質を示す出来事でした。
 神は、この罪の根本を解決するため、アダムを来たるべき救い主イエス キリストの型とされました。つまり、一人の人によって罪がこの世に入り、それによってすべての人が罪を抱えることになったと同じく、一人の人イエス キリストの救いの業によって、すべての人が救われるようにされたのです。

 このことを聖書はこう語ります。「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」
 神はご自身のひとり子イエス キリストを救い主として遣わすことによって、罪を根本的に、徹底的に解決されたのです。しかも、罪と等しい大きさの恵みで解決されたのではなく、はるかに豊かな恵みで解決してくださったのです。
 例えば、わたしたちの罪がマイナス100点だとすると、神はプラス100点の恵みを与えて罪を相殺してゼロにしてくださるのではありません。神は遥かに大きな恵みを注ぎ、わたしたちを神の子としてくださるのです。アダムは、来たるべき救い主イエス キリストを指し示す型です。しかしイエス キリストによる恵みの賜物は、罪の場合とは異なり、はるかに豊かに多くの人々に満ちあふれるのです。わたしたちの罪をゼロにするだけでなく、豊かに満たす恵みなのです。

 その豊かさをエフェソの信徒への手紙はこう表現します。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ3:17~19)人の想像をはるかに超え、この世界、この宇宙を満たす豊かな恵みがイエス キリストを通して注がれているのです。

 わたしたちを罪から救えるのは、イエス キリストただお一人です。わたしたちを救うためにご自身を献げて十字架を負ってくださったのは、イエス キリストです。わたしたちを死から解放するために死を打ち破ってくださったのは、イエス キリストです。わたしたちはイエス キリストによって救われるのです。
 キリストの救いの恵みに満たされているとき、わたしたちは自分の罪を知ることができます。それは、キリストに救いによる希望があるからです。救いのないところで罪を見るならば、わたしたちには絶望しかありません。キルケゴールは絶望を死に至る病と言いました。望みのないところでわたしたちは生きることができません。しかし、キリストの救いに与るとき、わたしたちは罪ある自分に絶望するのではなく、キリストが罪ある自分を赦し、愛して、受け入れてくださるので、わたしたちも罪を抱えた自分自身を受け入れることができるのです。
 イエス キリストは、このわたしの過去も現在も未来も含めたわたしのすべてを救うただ一人の救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストの計り知ることのできない大きな恵みでわたしたちを満たしてくださることを感謝します。わたしたちは救いの恵みがあるところにおいてだけ罪を知ることができます。救いの希望のないところで、自分の滅びの原因である罪を見ることはできません。今、キリストの恵みにしっかりと支えられて自分の罪を知ることができますことを感謝します。どうかすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、わたしたちの思いを超えるこの愛を知り、ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン