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教理による黙想の手引き 10

教理による黙想の手引き 第10回
日本キリスト教会発行 福音時報 2015年10月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「義認」

「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」(ローマ人への手紙 4章 25節 口語訳)

 

 上掲の聖句では、イエスの復活の目的は「わたしたちが義とされるため」と言われています。「義とされる」とは、どういうことでしょうか。

 「義」とは「正しさ」あるいは「正しいこと」を意味します。正しさにもいろいろあります。法律的、科学的、倫理的、いろいろな正しさがあります。聖書においては、神との関係における正しさを表します。
 わたしたちは様々な関係の中で生きています。夫婦、親子、友人、仲間、隣人、いろいろな関係があります。それぞれの関係が正しい良い関係にあるとき、わたしたちはその関係から慰めや喜び、希望を与えられます。そして、生きることにおける最も根源的な関係が、命の源である造り主なる神との関係です。
 この神との関係が罪のため壊れてしまいました。神を知ることができない。信じられない。愛せない。従えない。神との関係が正しくなくなったのです。

 神との関係を正しくするのが「義とする」ということです。口語訳聖書では「義とされる」「義と認められる」「義となる」と言われています。
 聖書はこう言っています。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ 3:23, 24)。わたしたちを神との正しい関係に導き入れるのは「キリストによるあがない」です。(あがないについては7月号参照)
 こうも言っています。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(2コリント 5:21)
 イエス・キリストが、わたしたちを罪からあがない出し、義へと導き入れてくださるのです。まさしくイエス・キリストがわたしたちの救い主なのです。

 さて、キリストのあがないによって義とされたわたしたちが、どのような神との正しい関係に入れられたかと言うと、神を信じる者とされたのです。神を信じるという関係に入れられたのです。
 神はイエス・キリストにおいてわたしたちに対する愛を現し、ご自身の真実を明らかにして、神を信じられなくなっていたわたしたちを、信じる者へと導き、信じること(信仰)を自ら造り出してくださいました。そしてその信仰によってわたしたちをキリストの恵みに与らせてくださいました。「信じる者はもれなく、イエスによって義とされる」のです(使徒 13:39)。

 これは、神が「信じたら神の子にする」という取り引きを持ち掛けているのではありません。神を信じられない罪を抱えたわたしたちが、神を信じる恵みの中に入れられるのです。キリストがわたしたちのあがないとなり、義となってくださった。だから、神の愛と真実を信じられる。キリストの救いの確かさを信じられる。神ご自身を信じられるという神との正しい関係に入れられるということなのです。「わたしたちは・・彼(キリスト)により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」のです(ローマ 5:2)。「神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされる」のです(同 3:26)。

 「今や、神の義が・・現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである」(ローマ 3:21, 22)。

 イエス・キリストご自身がわたしたちのあがないとなり、義となってくださいました。イエス・キリストの内にわたしたちの救いがあります。わたしたちはその恵みを信じて、キリストご自身を受けるのです。「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるため」なのです(ピリピ 3:9)。

ハレルヤ