福音的キリスト教と聖書
J.I.パッカー『福音的キリスト教と聖書』(1963年、いのちのことば社、岡田稔 訳)読了。
一度アップしたのだが、書き直した。
原題は『" FUNDAMENTALISM " AND THE WORD OF GOD』(1958)。「ファンダメンタリズムと神の言葉」。
古い本である。翻訳でさえわたしが生まれる前に出版されていた。
わたしが大学生で、キリスト者学生会(KGK)に加わっていたときに、日本キリスト教会のある牧師から頂いたものである。
時代状況がそうだったのか、論争的な書き方である。50年以上経ってから読むからなのか、自分の論理に酔って書いている感じがした。
パッカーは、聖書が無謬であり無誤であることを主張する。
わたしは、聖書が無謬であり無誤であると主張することに意味を感じない。聖書は必ず解釈され、神の御心が聞き取られねばならないからである。
例えば奇跡が本当だったかどうか証明する必要をわたしは感じない。それが本当だとしても、そういう奇跡があったというだけであれば、今のわたしたちには関係ない。その奇跡を通して、神が今わたしたちに語りかけておられることを聞かねばならない。
聖書批評学に対しても同様である。第二パウロ書簡と呼ばれる文書があるが、パウロ自身が書いてなかったとしてそれがわたしたちの救いに何の関係があるのか。それを得々と聖書の文書の順番を変えて「これが最新の聖書理解です」とばかりに出版しているのは滑稽に思える。
聖書は「神の言(ことば)」である。神が今伝えようとしているメッセージを聞き取り、神と共に生きるのが肝心である。
もう一つ大切なことは、神は間違いを犯す人間を用いられる、ということである。一体誰が、欠けなく過ちなく説教できるだろうか。神の御心を完全に語れる人など一人もいないのである。それでも神は、不完全な罪人の説教を用いてキリスト者を起こし、救いの御業をなしてこられたのである。
聖書は神の言(ことば)として、聖書によってキリストに出会い、神を知り、神との交わりに生きることへと導かれることが大切である。聖書が第一なのではなく、神ご自身が第一なのである。アブラハムは聖書を持っていなかった。けれど彼も、神の声を聞き、神を知り、神に従い、過ちも犯したけれども神に用いられ、神を証しして歩んだ。そして彼は「祝福の源」とされたのである。
聖書は神の言葉であるから、無謬であり無誤であると主張するのは罪人の願望であり思い込みである、とわたしは思う。聖書は、神と共に生きる以外の証しを必要としてはいない。
「聖書は神の言(ことば)である」、わたしはこれ以上でも以下でもないと思っている。
次は、藤本満『聖書信仰 −その歴史と可能性−』(2015年、いのちのことば社)を読む。