聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

神学入門 12

神学 聖書学09

正典02

 聖書について考えるとき、わたしは神の御業から考える。聖書に先立って、神の御業があるからである。
 例えば、アブラハムは、自分のことを書いた聖書を持っていない。神は、アブラハムに関する出来事を、後の民にも伝えようと願われた。神の御心があって、聖書は神の言としてできてくる。そして、神はご自分を啓示し、御心を示されるのに、人の言葉をお用いになられた。不完全な人の言葉をお用いになられた。
 聖書には、神を岩、盾、光などと比喩を使って表現している。どれ一つとして、完全に神を語ってはいない。だからこそ、様々な比喩を用いて、神を表現し伝えようと努めている。人の言葉は、神を正確に表現し尽くすことはできない。しかし、神は人の言葉をお用いになられる。
 イエス キリスト以外、誰一人として完璧な神の御心を理解し、語ることのできる者はいない。しかし、神は不完全な説教しかできない者を説教者としてお立てになる。そして、罪人の不完全な説教を用いて、ご自分の民を起こされる。
 パウロ自身、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」(1テモテ 1:15 新共同訳)と述べている。また、聖書となったフィリピの信徒への手紙を書いているときでさえ「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」(フィリピ 3:12)と記している。
 神はご自身の御旨と御業を伝えるのに、罪人の不完全な言葉を用いてくださり、証しし宣べ伝えるのを託してくださっている。それにも関わらず、救いの御業は少しも弱まることなく、神の愛と真実が、今に至るまで、そして救いの完成する日まで、貫かれ確立されている。

 この神の御業を前にするとき、わたしは逐語霊感説にも聖書無謬説にも立てないと思うのである。どちらも神の御業とは違う考え方に思える。丁度、ペトロが「そんなことがあってはなりません」(マタイ 16:22)とイエスをいさめたのと同じように思える。
 十字架がどれほど人にあざけられようとも、事実代々の聖徒たちを救ってきたように、聖書もまた誤りがあると指摘されようとも、聖書だけが人々をキリストへと導き、神と出会わせ、救いへと導くのである。その事実が、聖書は神の言葉であることを証ししている。

 わたしは大学生時代、キリスト者学生会(略称:KGK)に所属していた。そこでは確か、「聖書は原典において誤謬を含まず」と言われていた。そこには、祈り篤くまじめに信仰生活を送っている敬愛するキリスト者が大勢いた。その中で、わたしは「聖書は神の言である」とはどういうことか考え続けてきたし、今も考えている。
 その過程にあって、わたしは「聖書は原典において誤謬を含まず」というのは、神の御業そして聖書の証言と合わない考え方だと思うのである。

 一方で、わたしは日本キリスト教会にあって、かなり保守的な正典論に立っているのだと思う。日本キリスト教会は、神学を重んじるが故に、この世の学問としての神学に引きずられ、「聖書は神の言葉である」という信仰が少々希薄になってしまっているように感じる。

 日本キリスト教会信仰の告白は、「旧・新約聖書は神の言であり、そのなかで語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」と告白している。
 聖書を聖霊と切り離さないのが、改革派教会の神学の特徴だと先輩に聞いたことがある。
 わたしは「日本キリスト教会信仰の告白(口語文)」を毎週礼拝において告白している。告白の他の部分ももちろん大事だと思っているが、説教の務めを担う者として上記の部分は大切に告白している。
 そして、説教前の祈りでは「聖書朗読と説教とを祝福し、あなたご自身が語りかけてくださいますように。あなたと出会い、あなたを知る時としてください」と祈るのである。

主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)