聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 1:6〜8

2018年11月25日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:6〜8(口語訳)

 

 「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った」。
 このヨハネは、他の福音書ではバプテスマのヨハネと言われる人物です。この福音書では「バプテスマのヨハネ」という表現は出てきません。ただ「ヨハネ」とだけ言われています。この福音書は「ヨハネによる福音書」ですが、福音書の編者であるヨハネとここで登場したヨハネとは違う人物です。

 ヨハネは神から遣わされたのだと福音書は語ります。そしてその目的を「この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである」と語ります。
 光というのは、イエス キリストのことです。イエスご自身この福音書の中で「わたしは世の光である」(8:12)と言われ、「わたしは光としてこの世にきた」(12:46)と言われています。
 そしてヨハネは、光であるイエス キリストを証しするために神から遣わされました。ヨハネの証しによってイエス キリストをすべての人が信じるためです。

 福音書ヨハネの証しをいくつか記しています。1:15では「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」と記しています。また1:26では「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」と語ります。さらに「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」(1:32~34)。そして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)と言い、再び「見よ、神の小羊」(1:36)とイエスを指し示し、弟子たちにイエスがキリスト救い主であることを証ししたのです。

 「彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである」。
 ヨハネは、光であるイエス キリストを証ししました。
 わたしたちにもイエス キリストを証しする務めが与えられています。使徒 1:8でイエスは昇天を前にして「聖霊があなたがたに降るとき、あなたがたは力を受けて、・・地の果てまでわたしの証人となるであろう」と言われました。わたしたちはヨハネと同じくイエスを証しする務めが与えられています。

 証しをするというのは、イエスがキリスト救い主であると証言することです。ヨハネのように「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とイエスを指し示すことです。
 10:41に「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」とあります。立派な業、人々が感心する行為が必要なのではありません。イエスが救い主と信じる、イエスの御名によって祈り、イエスに依り頼むのです。イエスによって救われている、永遠の命に入れられている、神の愛がイエスを通してこのわたしに注がれている、このことを信じて生きるのです。それが証しです。

 パウロがローマ人への手紙でくどいくらいに語っているように、イエスを別の何か、割礼であったり、律法であったりと、救いの根拠をイエス以外の何かに変えたり、イエスにも依り頼むけれど、他の何かも誇りとするようなことがあってはなりません。
 イエス以外のものが自分の救いの中に混じり込んでくると、イエスから離れ、救いがぼんやりとしてしまいます。どんなに素晴らしい信仰の先輩でも、どんなに優れた神学者でも、どんなに益をもたらすこの世の知恵であっても、イエス以外のものを救いの中に混じり込ませてはなりません。
 ヨハネは光ではなく、ただ光であるイエス キリストを証しするために来たのです。福音書は、今なおヨハネの弟子として歩んでいる者たちに対して語りかけているのかもしれません。

 前回読んだ 1:4 に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」とあります。イエス キリストこそ神の言葉であり、死に勝利した命であり、わたしたちの歩みを照らし導く光であります。キリストに依らずして神の御心を正しく知ることはできません。キリスト以外にわたしたちを死から解き放つ命はありません。イエス キリスト以外に神の国への道を照らす光はありません。

 光なるイエス キリストを証しするには、キリストに照らされて生きた経験が必要です。光なるイエス キリストに照らされているとき、安心して救いの道を歩めるという経験をして、証しするのです。
 実際に使ってみてよかったものを人に勧めるように、実際に食べて美味しかったものを人に勧めるように、自分自身がキリストに従い、キリストの光に照らされて生きてその良さを経験するのです。その自分自身の経験に基づいてイエスはキリストであると信じて、証しをするのです。そしてキリストの光を経験するために、神は礼拝を備え、祈りを与えてくださいました。
 キリストの光を経験するのに、特別な修行・特別な経験が必要なのではありません。神が備えてくださった礼拝に・祈りに身を委ねていくのです。

 キリストの光を知らない世の人々にとって、占いは欠かせないものです。自分が何に向かって生きているのか分からない人には、占いは必要かもしれません。けれど、どんなに優れた占い師でも、死に勝利する救い、永遠の命の道を示すことはできません。
 ただイエス キリストだけが、わたしたちのために救いとなってくださいました。わたしたちの罪も弱さも愚かさも知っていてくださり、そのわたしたちを救うために罪の闇の中に来てくださいました。そしてその闇の中で輝き、わたしたちを照らしていてくださいます。

 「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ 8:12)。「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ 12:35, 36)。「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである」(ヨハネ 12:46)。

 わたしたちの信仰は、この光なるイエス キリストに照らされるところから始まります。礼拝の座へ、祈りの場へ進み出て、キリストの光に照らされましょう。キリストの光に照らされて、ひとり子を給うほどに世を愛しておられる神の愛から自分自身を見出し、隣人を理解し、世界を新しく知っていくのです。
 そして、光なるキリストと共に歩む中で、信仰は育まれ、すべてを新しく知って、キリストを証しして歩むようになるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 キリストを遣わし、わたしたちをキリストの光で照らしてくださることを感謝します。どうかキリストの恵みに満ちた光の中で、キリストの御顔を仰ぐことができますように。キリストの光の中で、信仰を育まれ、キリストを証ししていくことができますように。どうかわたしたちの教会の証しをお用いください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン