聖書の言葉を聴きながら

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教理による黙想の手引き 07

教理による黙想の手引き 第7回
日本キリスト教会発行 福音時報 2015年7月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「十字架 - あがない」

「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」

                 (ペテロの第一の手紙 2章 24節 口語訳)

 

 聖書には、日常生活ではほとんど使わないけれど、よく出てくる言葉があります。「あがなう」「あがない」という言葉もその一つです。これは「買い戻す」「買い戻すために支払われるもの」という意味を持っています。
 聖書では、神が民を罪から解放し、ご自分の民とされるという意味でも使われます。ですから「あがなわれる」と「救われる」は同じ意味を持っています。

 旧約の民は、定められた祭儀によって、人があがなわれること、命があがなわれることを示されてきました。この経験により、神による救いが必要であることを知るようになりました。
 「神よ、イスラエルをあがない、すべての悩みから救いだしてください。」(詩篇 25:22)「まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。とこしえに生きながらえて、墓を見ないために、そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。」(詩篇 49:7~8)
 そして神の民は、神がご自身の真実をもって民を救い、救いの契約に入れてくださることを知っていきました。詩篇には、神にあがなわれたことを確信し告白する言葉が記されています。「わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。」(詩篇 31:5)「神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。」(詩篇 49:15)「主はその民にあがないを施し、その契約をとこしえに立てられた。」(詩篇 111:9)「イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。」(詩篇 130:7)

 神は祭儀によって示され、民が望み見た「あがない」を完成するために、御子イエス・キリストを救い主として世にお遣わしになりました。イエスは言われます。「人の子がきたのも、・・多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マルコ 10:45)これは一人ひとりだけでなく、神の民である教会もイエスによってあがなわれました。使徒パウロは言います。「神が御子の血であがない取られた神の教会」(使徒 20:28)
 神の民は「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ」ました。「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされ」(ローマ 3:24~25)たのです。「わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けて」(コロサイ 1:14)います。

 「キリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するため」(テトス 2:14)です。キリストがご自身をかけて、わたしたちをキリストのものとしてくださったのです。ハイデルベルク教理問答が言うように、わたしは「わたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのもの」(問1)なのです。

 わたしたちはキリストのあがないによって、キリストの救いに与るものとされました。キリストがなされた救いの業の一つ一つが、わたしのものなのです。パウロは言います。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ 2:19~20)

 キリストは「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架に」(1ペテロ 2:24)おかかりになりました。キリストの十字架に癒やされ、あがなわれて、わたしたちは今、キリスト者として生きているのです。

ハレルヤ