聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 20:41〜44

2017年1月15日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 20:41~44(口語訳)

 

 イエスは今、エルサレムにおられます。十字架を負うためにエルサレムへ来られました。19章47節からエルサレムでの場面になりますが、その冒頭で「イエスは毎日、宮で教えておられた」と言われています。きょうの出来事も、宮すなわち神殿での出来事です。

 41節に「イエスは彼らに言われた」とあります。彼らというのは39節に出てくる律法学者たちことだと思われます。イエスは彼らに尋ねます。「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか」。キリストは救い主を表す言葉です。ですから「救い主をダビデの子だと言うのはなぜか」と聞かれているのです。

 旧約の預言でこう言われています。「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う」(エゼキエル 34:23, 24)。
 こういう預言を聞く中で、人々は「救い主はダビデの子」だと言うようになったのです。
 ルカによる福音書も、3章の終わりにイエスの系図を載せています。ルカの系図は、イエスから先祖へと遡る系図ですが、そこにはダビデの名が出てきます(3:31)。
 イエスはなぜ「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか」と問われたのでしょうか。
 それは、「ダビデの子」という言い方で人々が考えている救い主の姿が間違っているからです。

 ダビデイスラエル王国第2代の王でした。初代の王サウルにまさって国を確立した王でした。イエスの時代、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。人々は、ダビデのような王が立てられて、ユダヤの独立、そして神の民の誇りを救い主が取り戻してくれることを期待していました。
 人々は、自分にとって都合のいいところにだけ注目して、ダビデのような王を期待します。しかし、神がダビデの名をお用いになるのは戦いに優れ、他国に勝利したからではありません。
 ダビデの生涯については、サムエル記上16章から列王記上2章に書かれています。彼は王になるまで大変でした。彼の妻は、初代の王サウルの娘ですが、ダビデの評判が高まると、サウルにねたまれ命を狙われます。ダビデは国中を逃げ回り、隣の国にまで逃げることもありました。その中で、サウルの命を奪うチャンスもありましたが、ダビデはそれをせず、神に信頼しました。王になってからは、ダビデはバテシバのことで過ちを犯し、そのため子どもの命を失いました。さらに他の子どもが反乱を起こし、子どもに命を狙われることもありました。
 ダビデは人々が期待するようなかっこいい成功者ではありません。彼は、困難の中で、罪の中で、神に望みを置く人、神に依り頼む人でした。そしてその故に、神は彼の名を用いられたのだと思います。

 しかし、イエスはダビデにまさるお方です。聖書が告げているのは、イエスはダビデの子孫としてお生まれになりましたが、ダビデの子ではなく、「神の子」であるということです。

 イエスは、ダビデにまさる者であることを詩篇を引用して明らかにされました。42, 43節で引用されているのは、詩篇110:1です。
 110篇には「ダビデの歌」という表題が付いています。そしてイエスは、この詩篇がキリストを指し示すものとして引用されました。
 イエスがこのように110篇をキリストを指し示すものとして使われたので、聖霊降臨の出来事の後で、ペテロが人々に語りかけるところでも詩篇110:1を引用して(使徒 2:33, 34)イエスがキリスト=救い主であることを証ししています。
 イエスは、110篇の冒頭で「主はわが主に仰せになった」とダビデが言っているのは、ダビデがキリストを「わが主」と呼んでいるのだと言われます。だから、キリストはダビデにまさる者であり、ダビデの子と呼ぶのは正しくない、と言って、人々が「ダビデの子」という名前でイメージする救い主の姿を否定されたのです。

 罪人は、自分の望む偶像を作り出します。神に選び出された民であろうと、旧約の御言葉に養われてきた民であろうと、自分の望む偶像を作り出します。キリストをさえ自分好みの偶像にしてしまいます。イエスは、人々が自分の好み、自分の期待でキリストを思い描くのではなく、御言葉によって示されてキリストを知るようにと、詩篇を引用してお語りになったのです。
 わたしたちは、滝に打たれたり、断食したりして、ある日突然ひらめいて神を知ったのではありません。神がわたしたちに語りかけ、ご自身を啓示して教えてくださったので、わたしたちは真の神を知ることができたのです。ですから、自分勝手なイメージで神を思い描くのではなく、神の言葉に聞いて、教えられて、神を知ることが大事なのです。

 43節の部分を引用されたのは、これからの出来事を弟子たちが受け止めるためです。イエスは十字架を負うためにエルサレムに来られました。しかし、イエスの救いの御業は、十字架の死で終わるのではありません。キリストは、復活させられ、神の右の座に引き上げられ、敵がキリストの足台とされるときまで、神と共におられるのです。真の神であり真の人である救い主イエスは、復活し、天に昇り、神の国に入れられた最初の人となってくださいました。人が死を超えて、神の国に至る道を開いてくださいました。
 イエスがこれを明らかにされたので、使徒信条も「十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」と告白しているのです。イエスがここで教えてくださったことに導かれて、使徒信条も告白しているのです。

 イエス キリストは、救いの業を完全に成し遂げてくださいました。人々が勝手に作り上げたダビデの子としてではなく、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(3:22)と神ご自身が言われたとおりの「神の子」として救いの業を成し遂げてくださいました。

 当時のユダヤ人だけでなく、わたしたちも自分好みの救い主を思い描きます。こういう風に救ってほしい。こういう救い主だとわたしは心から喜べる。しかし、罪人の思いが救いを成し遂げたことはありません。神の御心がキリストを遣わし、神の御業が救いを成し遂げてくださったのです。わたしたちの命も、未来も、神が開き、与えてくださるのです。
 わたしたちの救いを願われる神は、だからこそ聖書を通して語り続けて、わたしたちに御心を、御業を、そしてご自身を示してくださるのです。キリストを、あなたの救い主を正しく知るようにと、神はきょうも語ってくださったのです。

ハレルヤ