聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 22:19〜20

2017年8月27日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:19, 20(口語訳)

 

 最後の晩餐の中心となるイエスの言葉です。
 イエスが弟子たちと共にした最後の晩餐は、過越祭の中心となる「過越の食事」でした。
 過越祭というのは、出エジプト記に出てくる神の過越を記念する祭りです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出すため、神はエジプトのすべての人と家畜の初子を打たれましたが、イスラエルの家は過ぎ越されたことを記念する祭りです。
 過越の食事は、ニサンの月(現在の3〜4月)の14日の夕暮れ、ユダヤでは日没から新しい一日が始まると考えていたので、15日に変わってから夜明けまでに食べるものでした。
 ユダヤ教の記録によると、過越の食事の流れは次のとおりです。家族の長が食事の始まりに祈ります。その後、ぶどう酒の杯が回されます。詩篇113と114を歌います。次に苦菜を食べて、二度目の杯が回されます。一人が過越の意味について質問します。食卓の主が聖書によってエジプト脱出について手短に説き明かします。これに続いて、過越の子羊と種なしのパンを食べます。食事は、讃美と感謝の祈りで閉じられます。その後、3度目の杯が回されます。最後に詩篇115から118までが歌われます。そして4度目の杯が回され、過越の祝いは終了となります。(ミュルデル『ルカによる福音書II』教文館、p254)

 イエスはこの過越の食事で、これから起こる十字架の出来事の意味を明らかにされました。イエスは「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われ」ました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
 過越祭は、神の裁きが神の民を過ぎ越していくことを記念し、かつての出エジプト追体験するためのものです。神の救いの御業に思いを向ける中で、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂かれました。それは十字架の上で裂かれるキリストご自身の体です。イエスが十字架でなされた出来事がわたしたちのものとなるように、イエスは裂いたパンを差し出して「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われます。
 イエスの体は、罪に対する裁きが過ぎ越すために献げられました。わたしたちのために献げられるイエスの体、イエスの命は、イエスを主と信じるわたしたち一人ひとりに差し出されます。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」イエス キリストの救いの御業をわたしたちが決して忘れることがないように、過越祭のように繰り返し神の御業を追体験していけるように、イエスの記念としてこの最後の晩餐から聖晩餐が始まり、今に至るまで2千年守り続けられています。

 イエスはその後、杯も同じようにして言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
 杯のときには「契約」ということが言われます。神は罪を抱えて、絶えず神を信じられなくなるわたしたちのために契約を結んでくださいます。聖書ではノアの洪水のときから既に「契約」という言葉が使われています。聖書の中にある旧約・新約の「約」は契約の「約」です。
 神は誰かと契約を結ばなければならないお方ではありません。神が契約を結んでくださったのは、わたしたちのためです。わたしたちは罪故に絶えず神から離れていきます。わたしたち自身が絶えず神との約束を破ってしまいます。その約束を破ってしまうわたしたちが救いに不安を抱くときに、神はわたしたちのために「わたしはあなたと契約を結んだ」と言ってくださるのです。この契約は、神がわたしたちのために一方的に与えてくださる契約です。わたしたちの罪を知り、わたしたちのすべてを知り、なおかつわたしたちの救いを願っておられる神が、わたしたちのために結んでくださる契約、それが神の契約です。ですからこの契約をわたしたちは「主よ、感謝します。このわたしがあなたの救いに留まることができるように、あなたの救いへと何度でも立ち帰ってくることができるように、あなたはこのわたしと契約を結んでくださいました。あなたの約束によってわたしはわたしの救いを信じることができます。あなたの真実故に、この罪人が救われるということを信じることができます。主よ、感謝します」と言って、神が与えてくださる契約を受けるのです。イエス キリストがこのわたしのために遣わされた、イエス キリストがこのわたしのためにと言って、キリストの救いを表すパンと杯を差し出してくださいます。そしてわたしたちは、キリストの救いに与り、キリストの命に与るのです。

 既に旧約のエレミヤ 31:31では「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る」と言われています。その新しい契約こそ、イエス キリストの十字架です。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」わたしたちはイエス キリストが命をかけて結ばれた新しい契約の中に入れられているのです。イエス キリストの命によって結ばれた決して破られることのない真実な契約の中にわたしたちは入れられたのです。

 わたしたちはこのパンと杯に与るとき、2千年前のキリストの十字架の出来事を思い起こします。そして自分自身の前に差し出され、それを受けている今の出来事、今自分自身がキリストの救いの恵みに与っていることを覚えます。さらに終わりに日にすべての聖徒たちと共に与る主の祝宴を仰ぎ望みます。わたしたちの過去も現在も未来も、このキリストの十字架の恵み、聖晩餐の恵みに包まれています。
 この恵みは、イエス キリストによって定められ与えられました。弟子たちはまだ理解していません。ここには裏切る者もいます。この夜イエスは逮捕され、裁判にかけられ、夜が明けると十字架にかけられます。しかし罪がどれほど大きく立ち現れても、イエスの十字架の契約は、いささかたりとも揺るぎませんでした。その後の2千年の歩みを知るわたしたちがその証人です。

 救い、そして命は、イエス キリストから、神から来ます。聖書は「すべての人を救う神の恵みが現れた」(テトス 2:11)と語ります。すべての人がイエス キリストの前で、救いを望み見ることができるのです。神のひとり子イエス キリストの救いの御業は、決して揺るがない神の真実として世にあり続け、わたしたちを照らしているのです。

 

ハレルヤ