聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 22:54〜62

2018年1月21日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:54~62(口語訳)

 

 過越の食事が行われた日の夜中、イエスは祭司長、宮守がしら(神殿守衛長)、長老たちの手の者によって捕らえられました。そして大祭司の邸宅に連れて行かれます。

 ペテロは気づかれないように遠くからついて行きました。大祭司の邸宅の中庭では、火がたかれており、人々が火を囲んで座っていたので、ペテロも人々に紛れて座りました。
 すると、ある女中がペテロをじっと見つめて「この人もイエスと一緒にいました」と告発します。ペテロはそれを打ち消して「わたしはその人を知らない」弁明します。しばらくして、他の人がペテロを見て「あなたもあの仲間の一人だ」と言います。ペテロは「いや、それは違う」とここでも否定します。一時間ほどしてから、また他の者が主張します。「確かにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから。」おそらくペテロがガリラヤの方言を話しているのに気づいたのでしょう。するとペテロは「あなたの言っていることは、わたしに分からない」と否定します。

 3度繰り返すのは、本当にそうだということを強調する表現です。イザヤ 6:3では「聖なるかな聖なるかな聖なるかな、万軍の主」とあり、詩篇 113:1では「主をほめたたえよ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。主のみ名をほめたたえよ」という表現があります。
 ここでは、3度の否認によって、イエスを心から尊敬し慕っていても、イエスの十字架に従うことはできないことを明らかにしています。

 すると、ペテロがまだ言い終わらぬうちに、鶏が鳴きました。そのとき、イエスは振り向いてペテロを見つめられました。
 ペテロはその瞬間、「きょう鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出します。
 さらにペテロは、イエスがそう言われたときに自分が言った言葉も思い出します。「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です。」(22:33)あのとき、ペテロは本気でした。自分が躓き倒れて、イエスと共に歩めないなんてあり得ないと思っていました。事実、危険を顧みず、大祭司の中庭まで付いてきたのです。「イエスの仲間だ」と言われても、逃げ出しませんでした。しかし、ペテロは「わたしはイエス様の弟子だ」とは言えませんでした。「わたしはイエスを知らない」と関係を否定してしまいました。
 イエスは、自分でも気づいていない信仰の弱さ、もろさを知っておられました。そしてその自分のために、イエスは祈っていてくださいました(22:32)。
 ペテロは気づきました。主はこのわたしのために、命を献げてくださるのだ。ペテロは、イエスがご自身の死について3度語られたこと(9:21以下、9:43以下、18:31以下)、自分はそれを理解できなかったことに気づきました。そしてペテロは、外へ出て、激しく泣きました。

 ペテロがイエスを3度否認したことは、四つの福音書全部に記されています。マタイとマルコには、ペテロが泣いたことも書かれています。イエスの十字架を語るとき、福音書はペテロの否認は記しておかねばならない出来事と考えたのです。
 わたしたちは、主イエスが十字架を負われ、命を献げられたのは、このわたしのためであったと気づいたとき、主イエスを救い主として信じるのです。ただ素晴らしい人、尊敬できる人としてではなく、自分の救い主として信じるのです。
 そのとき、自分の信仰は、自分が思っているよりもはるかに弱くもろいものだけれども、イエスはその自分、本当の自分を知っていてくださり、命をかけて愛してくださるお方であることを知るのです。そして自分の救いも、自分の未来もイエス キリストのもとにあることを知るのです。

 これは、信仰の最初に一度起きることではなく、信仰生活の中で、繰り返し示されるものです。礼拝を献げる中で、御言葉を聞く中で、わたしたちが信仰から信仰へと、キリストを深く知るようにと神に導かれて経験していくのです。三度イエスを否んだペテロが、神に導かれて、使徒としての務めを全うしたように、わたしたち一人ひとりに、神がふさわしい導きを備えていてくださいます。自分に失望して、激しく泣いたその先に、神が道を開いてくださいます。わたしたちの救いも、希望も、イエス キリストのもとにあるのです。

ハレルヤ