聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 22:21〜23

2017年9月10日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:21〜23(口語訳)

 

 最後の晩餐の最中に、イエスはこの場に自分を裏切る者がいることを告げます。

 なぜイエスを裏切る者がこの場にいるのでしょうか。それは、イエスが自分を裏切る者を招かれたからに他なりません。イエスの救いへの招きは、裏切る者にさえ与えられます。裏切るような罪を持っていても招かれるのです。始めから招かれていない者など一人もいません。問題は、招きに応えるかどうかなのです。
 ここでイエスが裏切る者がいることを話されたのは、イエスが裏切ることを知っておられるのに、なおその者をこの最後の晩餐に招かれたことに気づかせるためです。その者が裏切ることは、イエスだけが知っておられます。「弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた」(22:23)とあるように、弟子たちは誰が裏切るのか全く分かっていません。
 イエスは、神が定められたとおり命を罪人のためにお献げになります。しかしだからといって、イエスを裏切るのが正当化されるわけではありません。イエスを裏切るその人は災いなのです(22:22)。

 祈り会では今、詩編を読んでいます。詩編の前にはエゼキエル書を読みましたが、エゼキエル書33章にはこう書かれています。「人の子よ、イスラエルの家に言え、あなたがたはこう言った、『われわれのとがと、罪はわれわれの上にある。われわれはその中にあって衰えはてる。どうして生きることができようか』と。あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。」(33:10, 11)「わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼がその罪を離れ、公道と正義とを行うならば、すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、彼は必ず生きる。決して死なない。彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。彼は公道と正義とを行ったのであるから、必ず生きる。」(33:14~16)「悪人がその悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼はこれによって生きる。」(33:19)
 神は「悪人の死を喜ばない」と言われます。「悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ」と言われます。神が悪人に悔い改めを求めて「あなたは必ず死ぬ」と言っても、それは変えることのできない裁きの宣言ではなく、今の有り様が死に向かっていることを告げて、そこから悔い改めて神に立ち帰るように、神が迫っておられるのです。ですから悪人が悔い改めて、その罪を離れて公道と正義とを行うならば、「彼は必ず生きる。決して死なない」と神は自ら語られた「あなたは必ず死ぬ」という言葉を翻して、生きる道を開かれるのです。神が求めておられること、神が願っておられることは、悔い改めて神に立ち帰ることであり、神と共に生きることなのです。
 ですからこの最後の晩餐の席で、イエスが「裏切る者がいる、わたしはあなたが裏切ることを知っている」と言われ、しかしその者の名前を明らかにすることなく、それ以上責めることもなさらなかったのは、「わたしを裏切るあなたを、わたしは招いている」ということに気づかせるためでありました。

 聖書には、神の裁きについて書かれており、神が裁かれたことが書かれています。しかし、神の裁きはわたしたちを悔い改めへと導き、神と共に生きることへと招くためです。イエスは十字架で殺されましたが、霊においては生かされ、陰府に降り、獄に囚われている霊たちに宣べ伝えてくださいました(2ペテロ 3:18, 19)。生きている者にも、死んだ者にも神の招きが伝えられます。神は、ご自分が造られたすべての者が悔い改めて、神へと立ち帰ること、そして神と共に生きることを願っておられます。

 裏切るということは、卑劣な行為だと考えられています。裏切ることは、信頼を破壊する行為です。神がわたしたちに信じることをお求めになるのも、共に生きる関係において「信じる」ことはなくてならないことだからです。神とわたしたちの間においても、わたしたち人間同士の間でも、信じる関係が成り立たなくては、共に生きていくことができません。
 ここで裏切る者とは、第一にはユダを指しています。しかしユダだけが裏切ったわけではありません。他の弟子たちも、イエスを見捨てて逃げ去る者、イエスを知らないと言う者たちでした。だから皆、裏切る者に対する招きの言葉を聞かなくてはならなかったのです。自分の信仰の小ささ弱さが露わになったときに、なおその自分をイエスが招いていてくださることに気づくため、イエスのこの言葉を聞いておかなければならなかったのです。

 わたしはユダの一番の間違いは、自分が裏切ることを知っていてなお招いてくださったイエスの言葉を忘れて、自ら命を絶ったことだろうと思います。イエスは間違いなくユダの悔い改めを願っておられました。たとえ、ここでユダが悔い改めたとしても、イエスは何らかの仕方で祭司長や長老たちの手に渡され、神が定められたとおり、十字架を負われたことでしょう。イエスはこの時、そしてこの後でも、ユダが悔い改めることを願っておられました。しかしユダは事が起こった後、後悔して自ら命を絶ちます。
 けれど、まだ終わりではないのだと思います。イエスは陰府にまでも行って、宣べ伝えるお方です。
 果たしてユダが悔い改めてイエスを信じるかどうかは、わたしの知るところではありません。救いは神がお決めになることです。そして悔い改める時、信じる時も神の御心によるものです。わたしたちが知ることができるのは、神が聖書において啓示されていることです。そして、その神の言葉である聖書は、神の招きは裏切る者にさえ差し出されていることを教えています。

 わたしたちの弱く小さな信仰も、しばしば躓き、時に神を裏切るでしょう。自分で自分にがっかりし失望することもあるでしょう。しかしその時にも、わたしたちは招かれているのです。わたしたちのすべてを知っておられる神は、わたしたちが悔い改めて神へと立ち帰り、神と共に新しく生きることを願っておられます。そのことを信じることができるようにと、神はひとり子イエス キリストを救い主としてお遣わしくださいました。イエス キリストは最後失望して十字架にかかられたのではありません。裏切ることも、知らないと言われることも知っておられました。だからこそ、その罪人たちを救うために、この世に来られ、十字架の道を歩んでくださいました。わたしたち一人ひとりのために、わたしたちの罪深さも弱さも愚かさも知っておられる主が、十字架を負われ、命を献げてくださいました。それこそがわたしたちに対する神の御心であるということを、神は聖書を通して繰り返し何度でも語りかけてくださるのです。だからわたしたちは、罪の世にあって神の言葉である聖書から聞き続けるのです。
 神の言葉である聖書が、愛と憐れみに富みたもう真の神と出会わせてくださいます。そして神の許にこそ、わたしたちの救いがあり、命があり、未来があるのです。
 どうか今、神の招きの声を聞いて、救いに与っていかれますように。

 

ハレルヤ