聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 23:44〜49

2018年7月15日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 23:44〜49(口語訳)

 

 イエス キリストの地上の生涯が終わります。
 イエスが十字架にかけられたのが、朝の9時頃です(マルコ 15:25)。それが、昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。
 これは、わたしたちが知る日蝕という現象ではありません。イエスが十字架におかかりになったのは、過越の祭のときです。この時期は、満月になる時期で、日蝕が起こる月の位置ではありません。
 これは、神がしるしとして与えられたものです。神が裁きを行われたことを表す出来事です。アモス 8:9にこう書かれています。『主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗く」‭‭』すると。

 これが3時間続きました。一瞬の出来事ではなく、誰もがこのしるしの出来事が起こったことを確認し、思い巡らすことができるだけの時間続きました。

 続いて神殿の垂れ幕が真ん中から裂けました。
 これもしるしの出来事です。ヘブル人への手紙10章にはこう書かれています。
「すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、・・彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。」(ヘブル 10:11, 12, 14)「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる」(ヘブル 10:19, 20)

 ただ一度の完全な贖いがキリストの十字架によって成し遂げられたのです。このキリストの十字架によって、誰もが神に立ち返ることができるようになりました。
 十字架によって、わたしたちの前に道が開かれました。滅びに至る道ではなく、神の祝福に至る道が開かれたのです。

 そしてイエスは大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」

 ヨハネによる福音書10章で次のようにイエスは言われました。ここは、イエスが自分自身を「よい羊飼い」として語られたところです。
 「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ 10:11‬‭‬)
さらにこう言われました。
「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。」「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。」(ヨハネ 10:17, 18)

 イエスの命は奪われたのではありません。自分で捨てたもの、自ら委ねたものなのです。人としての命を神から与えられたことを知っているイエスは、自ら命を神に委ねたのです。

 命は自分のものではありません。神から与えられ、神の許へ帰るものです。
これが分からないと、最後あきらめる人生になります。命を手放したくない、死にたくないのに、奪い去られる、生きるのを諦めねばならない人生になります。
命は、命を与え、導いてくださった神に委ねるのです。
 キリストは、命を造り、命を救い、命を与えてくださる神を知っておられます。だからキリストは大きな声で、父に委ねるんだよと示してくださったのです。
 罪を超えて神に委ねていくとき、キリストと共に再び永遠の命を受けるのです。

 こうしてイエスは、救い主の業を成し遂げて、地上の生涯を終えられました。

 福音書は、キリストの十字架を見た証人を記します。
 一人は、百卒長です。新共同訳では百人隊長と訳されています。彼はこの十字架刑の責任者です。彼は多くの処刑された犯罪者たちを見てきたでしょう。その彼がキリストの十字架を最初から最後まで見て、「本当にこの人は正しい人だった」と告白します。
 彼は十字架上のキリストの言葉をすべて聞いていました。
 ルカによる福音書に記されている言葉に限定すると、2つです。
 一つは、23:34「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
 もう一つは、23:43「イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。」です。

‭‭ ペテロの第一の手紙‬ ‭2:22‬, 23にはこうあります。「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」

 百卒長は告白します。「本当にこの人は正しい人だった」

 見物に集まった群衆も、胸を打ちながら帰っていきます。ここにはユダヤ教の指導者たちに扇動されて集まった者もいるでしょう。騒ぎを聞きつけて集まった者たちもいるでしょう。イエスが十字架につけられ、太陽が暗くなって、人々は少し冷静さを取り戻します。彼らの心の内には問いが浮かんできます。この人はなぜ十字架にかけられねばならなかったのだろう。思い巡らす中で、彼らは胸を打ちながら帰っていきます。
 胸を打つというのは、悲しみを表す所作です。扇動された者たちにも、悲しみが満ちてきました。

 そして、イエスを知っていた人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たちは、遠くに立って見ていました。
 彼らはイエスに従ってきたのです。でも、イエスと共にあることはできませんでした。十字架を遠くから見ることしかできませんでした。
 彼らは、イエスただお一人が救い主であることを感じつつありました。
 どんなに慕っていても、どんなに尊敬していても、十字架の道を共に歩むことはできない。イエスただお一人が歩むことのできる道、イエスただお一人が担うことのできる十字架。イエス キリストが命をかけて成し遂げられたこの十字架を、彼らはまだ神の救いの御業だとは理解していませんが、この十字架を言葉もなく見つめていました。

 イエスキリストが人となられ、その生涯を全うされました。
 すべての人がイエスキリストの前に立たされています。
 ピラトは無罪だと知っていました。領主ヘロデもそう思いました。ユダヤ教の指導者たちは何としても殺さねばならないと考えました。扇動された群衆は、バラバが赦された方がいいと考えました。弟子たちや従ってきた人たちは声を上げることもできませんでした。
 神は、すべての人をイエスキリストの前に、立たせます。
 あなたは、このナザレのイエスを誰だと考えますか。イエスキリストというのは、イエスは救い主である、という信仰告白です。あなたは、この十字架で命をささげたイエスを誰だと考えますか。
 この十字架は何だったと考えますか。

 キリストはわたしたちの前におられます。

 

ハレルヤ