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ルカによる福音書 16:1〜13

2015年7月12日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 16章1~13節(口語訳)

 

 15章では、イエスはパリサイ人や律法学者たちに対して語りました。
 そしてこの16章では、「またイエスは弟子たちに言われた」(1節)とあるように、弟子たちに向かって譬えを語られます。これはキリストに従う者の心構えを示したものです。

 「ある金持のところにひとりの家令がいた」と言います。新共同訳聖書は、「家令」を「管理人」と訳しています。「家令」という言葉は、わたしも普段使わない言葉なので、「管理人」という言葉で説教させていただきます。
 この管理人は、弟子たち、そしてキリスト者たちを示すものです。ペテロの第1の手紙4章10節にはこうあります。「あなたたちは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである」。キリスト者は神から賜物を頂き、様々な恵みのよき管理者であることが求められているのです。ですから、きょうの譬え話においても、弟子たちそしてわたしたちは、神から与えられた命、賜物の管理人なのです。

 ところがこの管理人は主人から任されている財産を浪費していました。そしてそのことが主人に告げられ、主人は「会計報告を出しなさい」と命じます。この時、彼は解雇されることを覚悟しました。つまり自分が浪費をしているという自覚がありました。今言いましたように、この管理人は、弟子たちそしてわたしたちを表しています。実は、弟子たちもわたしたちも、神から与えられた賜物、命、人生を浪費しているのです。

 何故、イエスがこの譬えをお語りになったかと言うと、それは弟子たちが自分のことを分かっていないからです。弟子たちは、イエスがご自分の十字架について語られた後で、誰が一番偉いかということで言い争いをします(9:46、22:24)。それに対して、あなたたちは誰が一番偉いとか偉くないとか、そういう立場の者ではない、あなたたちはそれぞれ神から与えられた命を、そして時間、人生を浪費しているのだ、とイエスは言われるのです。あなたたちは罪を抱えており、神から与えられているものを、神の御心に従って正しく用いてはいない。そのことをまず、あなたたちは自覚しなければいけない、と言われるのです。

 この罪の世に生きている者は皆、神に対して負債を負っています。託されたものを充分に用いることができずにいます。人生の終わり、最後の審判において「会計報告を出しなさい」と神から問われたならば、「いや、それは困った。そんなものを出したりしたら大変なことになる」と言ってしまう者たちなのです。そのことに気づかなければ、イエスがこのわたしの罪のために十字架を負われた、命をささげられたということが理解できません。ですから、弟子たちに対して「あなたたちが、この不正な管理人なのだ」ということをイエスは伝えようとしておられるのです。

 主人から会計報告を出しなさいと言われたこの管理人は慌てます。『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。管理人は主人の負債者を一人ひとりを呼び出して、勝手にその負債を減額します。「油百樽」、新共同訳では「油百バトス」。1バトスというのは約23ℓ。23ℓ入りの樽が百です。「麦百石」というのは、新共同訳では「小麦百コロス」。1コロスというのは10バトス。約230ℓです。相当に大きな負債です。

 この管理人は恩を売るような形で、主人に負っている負債を減らします。このようにして自分が解雇された後、自分に恩を感じて自分を受け入れてくれる人が現れるようにと、勝手に主人の負債を減らしていきました。自分が浪費をして主人にマイナスを与えているだけでなく、他の人たちの負債も減らして、主人が本来受け取るべきものを減らしてしまうわけです。けれど、この主人は「不正な家令の利口なやり方をほめた」(8節)のです。

 「不正な家令」とありますが、ここでは「不正」という言葉の理解が大切です。この後にも「不正の富」(9, 11節)それから「小事に不忠実な人」(10節)というのがありますけれども、実は「不正」と訳された言葉は、「不忠実」という言葉から派生した言葉です。この不正というのは文字通り「正しくない」という意味の言葉ですが、聖書で「正しくない」と言われるときには、「神の正しさ」に対して「正しくない」という意味です。ですから「不正な管理人」と言われる時には、「神の賜物を御心にかなって正しく用いていない管理人」という意味なのです。そして、それは弟子たちであり、わたしたちなのです。

 では「利口なやり方」とは何でしょうか。この場合は自分の未来を拓くやり方です。解雇されて、もうどうしようもなくなるのではなく、そうなった時にも自分が生きていけるようになる仕方をしたという意味で利口なやり方と言っているのです。「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である」(8節)と出てきます。神の民を光の子ら、そして神を信じない人たちを「この世の子ら」と言っています。この言葉でもってイエスは、この世の子らが、この世で生きていくことに対して賢く一生懸命やるように、光の子らは神の国に迎え入れられ永遠の命に与ることに対して賢く一生懸命でなくてはならない。あなたたちはこれを得るために、自分に与えられた賜物を用いてこれを求めなければならない、と言われているのです。

 9節に「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」とありますが、この不正の富は、わたしたちが今この世で持っている賜物、財産のことです。そして、神から与えられたのにも関わらず、神のために正しく用いられていない賜物、財産のことです。
 そして「友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたたちを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」とあります。永遠の住まいに迎えてくれることのできる者は誰か。それは神ご自身です。
 ですから「友だちをつくる」というのは、神と友だちになれるようにあなたたちは生きなさい、と言われているのです。この世の者たちが自分を助けてくれる者に恩を売ったりして、人とのつながりを大事にしている。ならば、光の子であるあなたたちは、神が友となり、いざというときに神があなたたちを神の国に迎え入れてくださるように、あなたたちは賢く一生懸命にならなければならない。あなたたちも与えられた賜物を浪費している。賜物を正しく用いて、主人に利益をもたらしてはいない。けれども、自ら負債ある者であっても、今与えられているもの、今自分が持っているもの、それを用いて、終わりの時に神の国、永遠の住まいに迎え入れてもらえるように、用いていきなさい。神が友となって、最後あなたを救ってくださるように、あなたたちは、今自分の持っている賜物、財産を用いていくのだと言われているのです。

 では、どのようにして友だちをつくるのか。譬えによれば、神に負債のある人の負債を、減らしていくということです。
 このことは伝統的には「施しをする」と理解されてきました。けれど、施しをするとしてしまうと、少し意味が狭くなってしまうように思います。ここで言う、神に負債のある人の負債を減らすことは何かと言うと、それは「執り成しをする」ということです。
 神に対する負債、重荷が減るように、執り成しをするのです。イエスご自身についてこう言われています。「彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(ヘブル人への手紙7章24, 25節)。
 ヘブル人への手紙は、イエスが真の大祭司であることを伝えようとしています。祭司の務めは何かというと、罪ある人が赦されて、新たに神と共に歩み出せるように仕える、それが祭司の務めです。そしてイエス キリストは大祭司であり、いつも生きていて、罪人たちのために執り成しておられるので、キリストによって神に来る人々をいつも救うことがおできになる。わたしたちが神に罪赦されて救われるというとき、それはイエス キリストの執り成しがあってのことです。それは毎週告白する日本キリスト教会信仰の告白で言われているとおりです。「人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え、救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」。

 きょうの話は、わたしたちも執り成しの業に仕えるなさい、と勧めているのです。「どうかこの人の罪をお赦しください」「どうか憐れみをお注ぎください」と執り成し祈るのです。自分自身も執り成されなければならない者でありますが、他者のために執り成すのです。
 誰が一番偉いか、どっちが偉いかなどということを気にするのではなく、神が出会わせてくださった家族や友人たち、職場の仲間や地域の人々、ニュースで知る世界の人々のために、執り成しつつ生きる、それが神の御心にかなう利口な、賢いやり方なのだと、イエスは弟子たちに伝えようとしておられるのです。

 ローマ人への手紙 8章34節「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。キリストがわたしたちのために執り成してくださるので、わたしたちは罪に定められることがないのです。そして、キリストを信じて生きる者は、このキリストの御業に倣って、隣人の神への負債が減るように、神が憐れみをもってその人を赦してくださるように、執り成しをするのです。そして、それは自分の未来を拓く業なのです。

 執り成しのために、神はキリストの教会をお建てになりました。神に立ち帰る、神から赦されて、神と共に生き始める場所として、神は教会をお建てくださいました。そして、弟子たちは教会がそのような場所となって、キリストと出会い、キリストと共に新たに生きていく、キリストの命を受けて、新しく生きていくために、教会を建てていきました。そのためにそれぞれの賜物、それぞれの財産を用いて、教会を建てていきました。ここで言われている不正の富、今自分が持っている富を用いて、仕えていったのです。
 教会を建てていくというときには、このことが一番の要です。
 教会においてこそ、キリストの救いに与り、キリストの執り成しを受けて、人は命ある未来に向けて歩き出すのです。

 10節に「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」とあります。小さいことに不忠実であるというのは、つまり、日々の小さな出来事を、神の御心とは違うこの世的なやり方でやってしまうことです。そういう人は、大事な大きなことでも、神の御心を求めるのではなく、この世的なやり方をしてしまう。小さいことにも、神の御心に従って、神に喜ばれ、神を友とするためになしていく。使徒パウロは、「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(1コリント 10:31)と言いました。わたしたちの全生活、日々の生活、それが主の御心にかなってなされていくように、「御心にかなう業をなさせてください」と祈りつつ、そして、主の日ごとに神の言葉を聞きつつ、仕えていくのです。

 既に読みましたルカ 12:42~44こういう譬えが語られました。「そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。」
 この最後の全財産を管理させるでろうということが、きょうの譬えの中では11節「だれが真の富を任せるだろうか」という言い方で、不正な富ではなく真の富を神は任せようとしておられる、ということを告げています。真の富とは、神と共に生きる永遠の命です。神は、真の富の管理者として、わたしたちを招いておられるのです。

 13節には「あなたたちは、神と富とに兼ね仕えることはできない」という言葉が出てきます。富は神が与えてくださるものであって、神の栄光を表すために用いていくものです。決して富が主人ではないのです。真の主人こそ、真の富・永遠の命を与えてくださるお方です。イエスは、弟子たち、そしてわたしたちが、真の富・永遠の命を得ることができるようにと、この話をしてくださったのです。

 わたしたちに与えられた生きる基準は、神に喜ばれ、祝福されることです。終わりの日に、「あなたはよくやったと、あの小さな者の一人のために執り成しをしたこと、それはわたしにしたことなのだ(マタイ 25:40)。あなたはよく仕えてくれた。忠実なよい僕よ。よく帰ってきた」と言って、神はご自身の御国に迎え入れてくださるのです。

 罪の世にあってわたしたちの目は、効果があったか、成果が上がったか、そういうことを考えます。けれども、そうではなく、神がそれを祝し喜んでくださる、受け入れてくださることが大事なのです。小さき罪ある僕のなしたことを用いて、神が御業をなしてくださいます。救いが起こるのです。それを信じて、生きていけるように、イエスはお語りくださったのです。

ハレルヤ