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ルカによる福音書 20:9〜19

2016年10月23日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 20:9〜19(口語訳)

 

 イエスは民衆に対して譬えを語り出されます。この譬えは、アレゴリー(寓話)と呼ばれるタイプのものです。アレゴリーというのは、話の一つ一つが、これは誰をなぞらえている、これは何をたとえているというようになっている話です。19節に「律法学者たちや祭司長たちは・・いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟った」とあります。この譬え、アレゴリーの中で自分たちが何になぞらえられており、どういう人物であると言われているのか、よく分かったのです。
 ある人は、神さまです。この人が造ったぶどう園は、神の民イスラエルです。このぶどう園を預けられている農夫たちが、祭司長、律法学者、長老たちです。
 ある人がぶどう園を造って、農夫たちに貸して、長い旅に出ます。これを言い換えると、神さまがご自身の民イスラエルを召し出し、民の責任者である祭司長や律法学者、長老たちにお委ねになりました。

 当時、大地主の多くは大都会や外国に住んでいた、と言われています。そして、レビ19:23-25によれば、果樹は植えてから3年間はそっとしておかねばなりませんでした。4年目にはすべての実を主に献げなくてはなりません。5年目に初めて実を食べることが許されるのです。5年目に収穫を手にすることができるまで、持ち主が農夫たちの給料を始め、すべての費用を負担します。こういった当時の状況をこの譬え話を聞いていた人たちは思い浮かべます。

 収穫の時期が来たので、ぶどう園の持ち主は、僕を送って、収穫の分け前を出させようとしました。これを言い換えると、神さまはご自身の民イスラエルを神に献げるように、ご自身の僕である預言者をお遣わしになりました。
 ところが、農夫たちはその僕を袋だたきにし、から手で帰らせました。これは言い換えると、民の責任者である祭司長、律法学者、長老たちは、神が遣わされた預言者を拒絶し、預言者の言葉に従いませんでした。
 神は2回、3回と預言者を遣わしましたが、結果は同じでした。
 このことは旧約でも語られています。ネヘミヤ9:26では「彼らは不従順で、あなたにそむき、あなたの律法を後に投げ捨て、彼らを戒めて、あなたに立ち返らせようとした預言者たちを殺し、大いに汚し事を行いました。」と言われています。またエレミヤ7:25, 26では「わたしはわたしのしもべである預言者たちを日々彼らにつかわした。しかし彼らはわたしに聞かず、耳を傾けないで強情になり、先祖たちにもまさって悪を行った。」と書かれています。
 最後にぶどう園の持ち主は、自分の愛する子を遣わしたら敬ってくれるのではないか、と考え、愛する息子を遣わします。これは、神さまがひとり子イエス・キリストを世にお遣わしになったことを表します。
 ところが、農夫たちは主人の息子を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、彼をぶどう園の外に追い出して殺してしまいました。

 ユダヤ教の大切な聖書注解にミシュナーとタルムードというものがあります。この中に、農夫たちは、不在地主のために働いた土地の所有権を主張できる(タルムード)とあり、また、他に所有権を主張する者がいなければ、3年間土地を使用した者が所有権を持つと見なされた(ミシュナー)と書かれている規定を悪用する出来事です。
 これは、イエスご自身に対する祭司長、律法学者、長老たちの思いを表すものであり、これから起こる十字架の出来事を指し示すものです。

 そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。このルカによる福音書は、紀元80〜90年頃にまとめられたと考えられています。ですからルカがこの福音書をまとめているときには、既にエルサレムローマ帝国によって破壊され、ユダヤという国は滅びなくなっていました(紀元70年)。ルカは「主が言われたとおりだったなぁ」と思いながらこの譬えを書き記したのではないかと思います。
 この譬え話を聞いていた人々は、イエスに向かって「そんなことがあってはなりません」「農夫たちのような不義な行いがあってはならない」と抗議しました。
 するとイエスは、彼らを見つめて言われました。「それでは、『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。
 引用されているのは、詩篇118:22です。隅のかしら石というのは、石造りの家を支える要の石です。壁と壁が合わさる隅の土台となる石であり、上にあって壁が揺るがぬように重しをかける石です。日本建築で言えば、大黒柱です。
 この建築の要である隅のかしら石は、家造りらの捨てた石であったというのです。家造りの専門家、つまり祭司長や律法学者、長老たちが不要のものとして捨てようとしているイエス・キリストこそ、神によって隅のかしら石とされ、イエス・キリストによってすべての人は裁かれると言うのです。

 非常にあからさまなアレゴリー、寓話です。律法学者たちや祭司長たちが・・いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったのも当然のことと思われます。

 この場面で、ルカは17節の「見つめて」という言葉に「エムブレポー」という単語を使います。ルカはこの単語を22:61でも使います。「主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。」この「ペテロを見つめられた」の「見つめられた」が「エムブレポー」なのです。ある人(茂 洋)はこの「エムブレポー」は「慈しんで見る」と訳するのがよいのではないか、と言っています。
 自分の罪も弱さにも気づいていないペテロに対して、イエスは「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(22:34)と言われます。そして実際にそのことが起こったとき、イエスは慈しみをもってペテロを見るのです。
 ここでも、自分たちがイエスを捨てる、神の愛する子を捨てるのに気づかない人々に対して、そのことが起こった後で、ペテロのように気づけるようにこのアレゴリー、寓話を語り、慈しみをもって彼らを見つめられるのです。

 しかしこのとき、祭司長や律法学者たちは、あからさまに非難されたと思い、イエスを手にかけよう、イエスを殺そうと思いましたが、民衆を恐れました。そう、彼らは神を畏れるのではなく、民衆の評判、反応を恐れたのです。
 彼らはイエスの姿を見ました。肉声も聞きました。彼ら自身に向かって語られるイエスの教えを聞きました。しかし、彼らは悔い改めませんでした。肉の目や耳でイエスを知ることはできません。聖霊によって清められ、信仰の目、信仰の耳が開かれるのでなければ、イエスを知ることはできません。
 イエスは今も、慈しみをもってわたしたちを見つめていてくださいます。だからこそ、わたしたちは今でイエスに出会い、神へ立ち帰ることができるのです。イエスはわたしたちの救いを願っておられます。わたしたちの救いのために今も御言葉を通して語りかけてくださっています。「人は・・神の口から出る一つ一つの言で生きる」(マタイ4:4、申命記8:3)のです。

 

ハレルヤ