聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 1:24〜28

2019年1月6日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:24〜28(新共同訳)

 

 エルサレムの宗教指導者たちは、洗礼運動で話題になっていた洗礼者ヨハネのもとに人を遣わし、ヨハネが誰なのかを確認しようとしました。
 ヨハネは、メシア=救い主ではなく、エリヤでもあの預言者でもないと答えます。「では一体誰なのか」と問われると、ヨハネは「わたしは、『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声」だと答えます。

 「遣わされた人たちはファリサイ派に属して」いました。ファリサイというのは「分離」を意味する言葉から来ていると言われています。彼らは、律法を日常生活において厳格に守ろうとした人々です。律法を守らない者と自分たちは違う、と自らを「分離」した者たちだと言われています。
 ですから、彼らの関心は、その行動が御言葉、律法に適っているかどうかなのです。だから「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と尋ねるのです。神が遣わすと聖書で約束されている人物なら洗礼をするなら分かるが、その誰でもないあなたがなぜ洗礼を授けるのか、と問うているのです。つまり、ヨハネが洗礼を授けているのは御言葉のどこに根拠があるのか、それを彼らは知りたいのです。

 ヨハネは答えます。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」。

 聞いてお分かりのとおり、ヨハネは聞かれたことに答えていません。彼は、自分を正当化することに関心がありません。彼がするのは「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶことです。
 主の道とは、救い主を自分に迎え入れる道のことです。救い主を迎え入れる準備をせよ、とヨハネは叫ぶのです。それこそが、神から託された務め、預言者イザヤが預言した事柄だと、ヨハネは言っているのです。

 教会はヨハネに倣わなくてはなりません。教会は自らの弁明をし、正当化することに思いを向けるのではなく、世からどれほど軽んじられ、嘲られようとも、キリストを指し示し、キリストの福音を常に宣べ伝えていくのです。

 ヨハネは言います。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」。
 確かに彼らはイエス キリストを知りません。しかし、これは顔を知らない、名前を知らない、まだその存在を知らないという意味での知らないではありません。それこそイエス キリストが何者なのかを知らない。つまり救い主を知らないということです。

 救いとは何なのか、自分に何が必要なのか、それを知らないのです。ファリサイ派の人々は、どんな律法があるか、それをどう守るかは知っています。しかし彼らの最大の弱点は、律法に込められた神の御心を知らない、それに関心がないということです。
 彼らの関心は「自分が律法を正しく守っている、自分は神の御心に適う存在である、神に喜ばれる存在である」そういうふうに自己満足することです。彼らの関心は自分なのです。神が一つひとつの律法にどんな思いを込められたのか、わたしたちにどんな風に神と共に歩んでほしいのか、そこに関心が向きません。自分が律法を守っているか、人が守っているか、人の行動をチェックするだけで、神へと思いが向かないのです。
 これはファリサイ派の人々だけでなく、わたしたちの周りにいる多くの日本人も同じです。イエス キリストという名前を知っている人は多いでしょう。キリスト教会の存在を知っている人も多いでしょう。しかし、神が与えてくださる救いとはどういうものなのか、神と共に生きるとはどういうことなのか、救い主は何をしてくださったのかを知っている人はほとんどいないのではないでしょうか。

 しかし、教会は知っています。わたしたちは、イエス キリストを知っているので、救いを遣わされた神の御心、律法に込められた神の御心を知っています。
 だから、教会は伝えなくてはなりません。ヨハネと同じく、務めを託されたのです。神が遣わしてくださった救い主を迎え入れられるように、救い主とは誰なのか、イエス キリストとは誰なのかを宣べ伝えるのです。復活されたイエスは弟子たちに言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ 28:19)。

 ヨハネは言います。「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」。ヨハネは、自分がイエスに関わることのできる資格などないと言います。ヨハネは知っているのです、自分が救われるに値する何も持っていないことを。パウロも語ります。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ 7:24)「わたしは、その罪人の中で最たる者です」(1テモテ 1:15)。
 自分の罪を知る者は知っています、自分が救いにふさわしくないということを、そしてその自分を神はなお顧み愛していてくださることを。だから「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝」(ローマ 7:25)するのです。「この人を見よ」とキリストを指し示し、証しするのです。

 このヨハネの証しは、聖書に記録され、2,000年の時を超えて、わたしたちに語りかけ、わたしたちの務めを思い起こさせます。
 これは、今ではどこにあったのか分からないヨルダン川の東側にあったベタニアでの出来事です。このベタニアは、11章に出てくるエルサレム近くのベタニアではありません。今ではどこにあったのか分からなくなってしまった町での出来事です。
 時の流れの中で、いろいろなことが消え去り、忘れ去られていきます。しかし、神の救いの御業に仕え、救い主を証ししたヨハネのことは、神の国が到来するまで語り継がれ、神の民をその務めへと導いていきます。
 キリストを証しすることは、神の思いから消え去ることはなく、神の祝福から漏れることもありません。神はわたしたちを知っていてくださいます。わたしたちがなすほんの小さな業をも、忘れずに心に留めて祝してくださいます。イエスは言われました。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ 10:42)。きっと本人も覚えていないであろう冷たい水一杯、それをさえ主は忘れることなく報いてくださるのです。ですからわたしたちは神に従い神に献げている業を空しく思う必要はないのです。この世的な手応え、成果はないかもしれない。けれども神は知っておられるのです。神は忘れずに報いを、祝福を与えてくださいます。主に結ばれているならば、苦労は無駄になることはありません(コリント一 15:58)。ですからわたしたちは失望しないのです。神にあって、希望があるのです。
 だから、わたしたちはこの年も、代々の神の民と共に、キリストと共に歩み、救いの御業に仕えていくのです。

 

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちが自分を満足させるのではなく、キリストを指し示し、あなたの救いの御業に仕えていくことができますように。どうかわたしたちを、キリストにある喜びと祝福とで満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン