聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマの信徒への手紙 1:12〜15

2019年6月19日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:12~15(新共同訳)


 パウロは11節で「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」と語りました。パウロが言う「霊の賜物」とは、6:23で言われている「キリストの永遠の命」です。そこにはこう書かれています。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命です」。この永遠の命を分かち合い、力づけるために、「互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」とパウロは語ります。

 パウロは、共に励まし合う信仰を語ります。共に励まし合う信仰とは、どういう信仰でしょうか。それは、共通する信仰です。共にイエス キリストを救い主と信じている。共にキリストに従って生きようとしている。共に礼拝し、共に祈り、共に讃美を献げ、共に福音を宣べ伝える。そのような信仰を共有しているとき、互いの信仰によって励まし合うことができるのです。キリスト教の信仰は、共有する信仰です。

 現代は、様々な人権が重んじられる時代です。個人の自由が尊重される時代です。そのような中で、信仰の自由も語られます。しかし、わたしたちキリスト者は自分の好き勝手な信仰を持つのではありません。「どう信じようとわたしの自由でしょ」というのは自分好みの偶像礼拝をすることであって、キリスト教の信仰ではありません。
 わたしたちの信仰は、真の神へと立ち帰り、神に従って生きる信仰です。神の御業によって、宣べ伝えられてきた神の言葉を聴いて、わたしたちは神に出会い、神を知ったのです。
 わたしたちが告白する日本キリスト教会信仰の告白では、最後に使徒信条が告白されます。この使徒信条は、2世紀後半のローマ信条に遡るものだと言われています。わたしたちの信仰は、2千年にわたるキリスト教会の信仰に連なるものです。わたしたちの信仰は、時を超え、世界を包む、神が与えてくださった信仰です。

 ですから、今わたしたちがローマ人への手紙を読んでいくとき、パウロの信仰がわたしたちの信仰を励ますのです。そして聖書に依れば、わたしたちがパウロの信仰によって励まされるとき、わたしたちの信仰はパウロを励ますのです。聖書は「あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」と書いています。パウロの信仰によってわたしたちが励まされるならば、わたしたちの信仰によってパウロも励まされるのです。

 これは一体どういうことだろうか、と思い巡らす中で一つの幻を示されました。神の国にいるであろうパウロが、神から歴史を貫く救いの御業を見せられるとき、「わたし(パウロ)はイスパニアまで(今日のスペイン)福音を伝えに行きたいと考えていました。しかし、神よ、世界はわたしが知るよりも遙かに広く、あなたは日本にまでわたしの手紙を伝えてくださったのですか。あなたは、迫害者であったわたしをこうまでお用いくださるのですか」と時を超えてパウロの手紙を読み、信仰を励まされるわたしたちを見て、パウロも励まされるのです。神がわたしたちに与えてくださった信仰は、わたし個人に収めてしまえるような小さなものではないのです。
 パウロは「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント 10:31)と言っています。飲むこと食べることも含めて、わたしたちの全生活、全人生が信仰と関わるのです。たとえ欠け多き信仰であっても、信仰を個人的な事柄、小さな事柄と考えるのは誤りです。神がわたしたちに与えてくださった信仰は、代々の聖徒たちと共有し、共に励まし合うことのできる信仰なのです。

 パウロは、この信仰を共有すべく、ローマへ行くことを企ててきました。けれど、パウロが述べているように「何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられて」きたのです。
 救いの御業は、神ご自身がなし給うものです。「何事にも時があり」(コヘレト 3:1)と言われているとおり、神のご計画があり、神の時があるのです。もし、パウロがローマに行くことができていれば、この手紙は書かれなかったかもしれません。パウロの企てが妨げられ、このローマの信徒への手紙が書かれたことにも、神の御心、神のご計画があります。
 わたしたち自身も、自分の思いを超える神の導きよって、定められた時に救いに入れられたことを思い、主の御手に委ね、祈っていかねばなりません。

 パウロは「ギリシャ人にもギリシャ語を話さない人(未開の人)にも、知恵のある人にもない人にも、果すべき責任がある」と語ります。つまり、すべての人に対して果たすべき責任があると言っています。それでパウロは、「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」と語るのです。
 パウロならそう願うだろうと思います。わたしも、この教会に来ることのできるすべての人に福音を伝えたいと願っています。そしてこの教会に来るすべての人が、神と出会い、神を信じることができるようにと祈っています。(聖書朗読と説教との前に)「聖書朗読と説教を祝福して、神ご自身が語りかけてくださり、出会ってください」と祈るのは「切なる願い」なのです。

 皆さんは、この信仰を共有してくださるでしょうか。パウロと共に、そして何よりも神と共にこの信仰を共有してくださるでしょうか。神の願いは「すべての人が救われて、真理を悟るに至ること」(1テモテ 2:4)です。

 時に神は教会の企てを妨げ、試練を与えられることもあります。わたしたちには、神のご計画を知り尽くすことはできません。それでも代々の聖徒たちは、共に御言葉に聴き、祈りを合わせ、讃美を共にしつつ、互いの信仰によって励まし合いながら救いの御業に仕えてきました。神がひとり子を救い主としてお遣わしくださり、その御心を疑い得ない形でお示しくださいました。イエスも十字架を負い抜いてくださり、救いが確かであることを明らかにしてくださいました。この神の救いの御業、神の真実に支えられ導かれて、代々の聖徒たちは互いの信仰により励まし合いながら仕えてきました。

 皆さんご存じの十戒にはこうあります。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト20:6、申命記 5:10)。千代とはどれほどの時間でしょう。老舗のご主人が15代目とか18代目というのを耳にしますが、千代とはどれほどの時間でしょう。パウロの手紙は2千年の時を超えてわたしたちに語りかけ、わたしたちの信仰を励まします。わたしたちに与えられた信仰とは、一体どれほどのものなのだろう、と思います。
 わたしたちも、代々の聖徒たちを結び合わせる信仰に共に与り、共有し、励まし合いつつ救いの御業に仕えていきたい。わたしは、そう願っているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 代々の聖徒たちと共有する信仰に入れられたことを感謝します。時を超えて互いに励ますことのできる信仰の大きさに驚き、感謝します。与えられた信仰の喜びを味わい、御名を讃美しつつ、救いの道を雄々しく歩むことができますように。願わくは、この信仰をさらに多くの人たちと、次の世代の人たちと分かち合わせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

愛されて生きる、赦されて生きる

2019年6月16日(日) オープンチャーチ(特別伝道礼拝)
聖書:ローマの信徒への手紙5:6~11


 きょうは、聖書における大切なテーマ「愛」と「赦し」について話しをさせていただきます。

 聖書には、「愛」と「赦し」という言葉が何度も出てきます。しかし、それがどういう意味かと聞かれたなら、悩んでしまいます。

 聖書が告げる「愛」とは「共に生きようと願う思い」です。「あなたと共に生きていきたい」という思いです。ですから「愛する」というのは、「共に生きるために、相手を大切にする」ということです。

 「好き」というのは感情ですが、「愛」には意思があります。
 例えば、募金のことを考えてみましょう。遠く離れた国で飢餓のために多くの人々が苦しんでいる。その人たちのことが好きかと聞かれても、顔も知らないし、言葉を交わしたこともないので分かりません。しかしその人たちが苦しんでいていいとは思わない。小さな事でも自分にできることがあれば、協力したいと思う。ここには愛があるのだと思います。

 ところで、神はなぜ愛しなさいと言われるのでしょうか。
 それは、人が、愛である神にかたどられて、愛する者・愛される者として造られているからです。「神は愛」(1ヨハネ 4:16)であり、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記 1:27)と聖書は告げています。これは、わたしたちの根幹にある事柄です。だから人は、信仰のあるなしに関わらず皆愛さずにはいられないし、愛されることを求めているのです。
 夫婦には夫婦の愛があります。親子には親子の愛があります。友達との間の愛もあれば、共に働く仲間との愛もあり、広くは郷土に対する愛、国に対する愛、世界に対する愛、人類に対する愛があります。人は「愛」である「神にかたどられて」「愛する者」「愛される者」として命を与えられているのです。

 しかし、罪が愛を妨げています。すべての人は、罪を抱えており、愛することができずに苦しんでいます。
 聖書に、人が初めて罪を犯してしまう場面が出てきます。人が最初に犯した罪とは、食べることを禁じられていた木の実を食べてしまうことでした(創世記 2章)。その禁じられた木の実は「善悪の知識の木の実」でした。とんでもない悪いことをしたのではなく、食べるなと言われていた木の実を食べただけなのです。
 ですが、善悪の知識の木の実を食べたことで、人は自分自身の善悪を持つようになりました。善悪の知識を持つことの何が悪いのかと思われるかもしれません。しかし、人は「自分の」善悪の知識を持つようになってしまったのです。
 それは、神の御心とは違う善悪です。神の御心とは違う善悪を持つようになった人は、神から自由になって、自分の思うままに生きていきたいと思うようになりました。一々神にこうしなさい、こうしてはいけないと言われるのが煩わしくなりました。自分は善悪をちゃんと知っている、困ったときには呼ぶからその時助けてくれればいい、そんな困ったときにだけ助けてくれる都合のいい神、自分の願い事を聞いてくれる神を求めるようになりました。
 さらに、善悪の知識が違ってしまったのは、神と人との間だけではありません。人と人との間も違ってしまいました。一人ひとりが自分の善悪の知識を持ってしまったのです。その結果、どうしたいのか、どうすべきなのかといったことが、違ってしまい、理解し合えない現実、対立し争う現実が生じてきました。
 これは、個人から世界まで覆っています。夫婦であれ、親子であれ、善悪の知識が同じで考えや判断に違いがないなどということはありません。日本の政治がどうあるべきか、世界の平和のためにどうしたらいいのか、皆意見が違います。自分の善悪を通すために、様々な力を使うようになりました。暴力から経済的圧力、社会的地位による圧力など様々な力を使うようになりました。それが時には殺人や戦争という悲劇を引き起こしてしまうことになってしまったのです。

 罪は、愛が求める共に生きる関係、絆を破壊します。
 そこから新たに生きていくために必要なのが「赦し」です。赦しがなければ、関係は壊れていくばかりです。
 赦すことが目指しているのは、新たに共に生きること、和解です。赦しは、新たに生き始めるためのものなのです。重荷となり、わたしを苦しめる過去から自由になって、新しく生きるためのものです。

 神が、愛すること、赦すことをお命じになるのは、生きることに喜びと希望が伴うためなのです。ですから、愛と赦しは、生きることを支えるなくてはならぬものなのです。

 しかし、大きな問題が残っています。わたしは愛せないし、赦せないのです。そして、おそらくこれは、わたし一人の問題ではなく、多くの人に関わる問題ではないかと思います。

 神は、罪ゆえに愛せない悲しみ、赦せない苦しみからわたしたちを救うためにひとり子イエス キリストを救い主として遣わしてくださいました。聖書は告げます。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)

 罪によって壊れ傷ついている関係を回復し、愛によって関係を結び直すためにイエス キリストは世に来られました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」くださいました。そして、わたしたちが神の愛を受けて生きられるように「罪を償ういけにえとして、御子(キリスト)をお遣わしに」なったのです。(1ヨハネ 4:10)「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ 1:14)

 きょうの聖書の言葉をもう一度お聞きください。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。…わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ 5:6~10)

 実に神の方が、わたしたちとの関係を大切に思っていてくださったのです。わたしたちが不信心で、罪人で、敵であったときに、神はわたしたちと和解し、共に生きようとしてくださっていたのです。このためにまさしく命を懸けてくださいました。神はわたしたちと和解し、関係を新たに築き、共に生きようとしてくださっているのです。神はわたしたちを愛するが故にひとり子を遣わしてくださいました。
 ですから、わたしたちはイエス キリストを知るとき、安心して神の愛を受けられるのです。イエス キリストは、自分を裏切る者を弟子として受け入れてくださる方です。自分を殺そうとしている者たちに神の国の奥義を語られるお方です。十字架の上でまで、自分を嘲る者たちを執り成すお方です。この方がわたしたちを知っていてくださるのです。この方が、わたしは救われないのではないか、という不安から救い出してくださいます。わたしたちはイエス キリストによって、神の愛を知り、赦しを知って、新しく生きることができるのです。親の愛に包まれて生きる子どものように、神の子とされて、神の愛と赦しを受けて生きていけるのです。

 神はひとり子イエス キリストによって、わたしたちとの確かな関係を築いてくださいました。例えて言うなら、神とわたしたちとの関係は十字架の縦の棒です。天と地を結ぶ縦の関係です。それに対して人と人との関係は十字架の横の棒です。そして、神との縦の関係が定まると、それに基づいて隣り人との横の関係も定まります。イエス キリストの十字架はまさに神との縦の関係、隣り人との横の関係を新しくするためのものでした。その二つの関係が命と愛に満ちたものとなるためにキリストは十字架を負われたのです。

 愛すること、赦すことは、愛される経験、赦される経験をしていく中で覚えていく事柄です。愛された経験の少ない人は、どうしたら愛せるのか分かりません。赦された経験が少ない人は、赦されることの大切さに気づけません。人が生まれてから大人になるまでに長い時間がかかります。それには、神の深いご配慮があるのだろうと思います。自分の力で生きていくことはできず、多くの愛を注がれ、与えられ、たくさん赦されて人は育つのです。
 そしてわたしたちは生涯、神の大きな愛と赦しの中で、常に新しく、愛されて生きる喜び、赦されて生きる慰めを味わい、知っていくのです。これはもう十分経験した、もう必要ないという事柄ではなく、生きている限りいつも必要なことなのです。

 神は、わたしたち一人ひとりが愛せるように、赦せるように、尽きることのない愛を注ぎ、限りない赦しを与えていてくださるのです。
 神が、わたしの愛となり、赦しとなってくださいました。

 今や、家庭から世界に至るまで、個人個人から国家間に至るまで、あらゆる関係がきしみ悲鳴を上げています。関係が新しくされることをすべての人が必要としています。
 神は、人が人として生きるために欠かせない、愛されて生きる関係、赦されて生きる関係をキリストによって与えてくださっています。
 この愛と赦しに満ちた関係の中で新しく生き始めることへと、神は今招いてくださいます。是非、この神の恵みを受けて、愛の喜び、赦しの慰めによる新しい人生を歩み始めて頂きたいと願います。


ハレルヤ


父なる神様
 あなたは、わたしたちと共に生きることを願い、愛をもってわたしたちを創り、罪に苦しむわたしたちに赦しと更なる愛を注いでいてくださいます。
 どうか今、あなたの愛と赦しの中で、わたしたちを新しく生きる者とし、わたしたちに与えられている一つひとつの関係を祝福してください。あなたにあって、共にある日々を、喜ぶことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

ローマの信徒への手紙 1:9〜11

2019年6月12日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:9~11(新共同訳)


 パウロは、まだ行ったことのないローマの教会、まだ会ったことのない人々に手紙を書いています。
 ローマでご自身の民を起こし、教会を建ててくださった神に感謝した後、パウロは「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」と語ります。
 パウロは「異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒と」(1:5)されました。ですから、この手紙の終わりの方では「あなたがたのところを経てイスパニアに行きます」(15:28)とも述べています。パウロは本当に当時の全世界、地中海世界全部にイエス キリストを伝えることを願っていました。
 ですから、パウロは本気で「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」と語るのです。

 これは、パウロの信仰の思いです。だからパウロは「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださる」と、自分の思いの証人は神ご自身であると述べるのです。
 この9節の「心から」は、以前の口語訳では「霊により」と訳されています。口語訳は直訳で「霊により」と訳したのを、新共同訳はそれは「心から」という意味だと考えたようです。ちなみに最新の『聖書協会共同訳』でも「心から」と訳しています。
 パウロは、神に仕えるというとき、キリストの福音を伝えることを通して神の御業に仕えている、と言っています。それで、神に仕えているわたしの願いは、ローマへ行って、ローマの教会の人々に会いたい。そのために祈っている、そしてこの祈りが真実であることは神が証ししてくださる、と言っているのです。
 これは、自分の信仰を証しして、この手紙をちゃんと読んでほしいというパウロの願いが表れているように思います。

 そして、神を引き合いに出してまで、パウロが「何とかして・・あなたがたのところへ行ける機会があるように」と願っているのは、「“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい」からです。

 この「霊の賜物」とは何でしょうか。賜物という言葉は、「カリスマ」(ギリシャ語)という言葉が使われています。このカリスマという言葉は、日本語になりつつある言葉です。「カリスマ美容師、カリスマシェフ、カリスマモデル」などという言い方をよく耳にするようになりました。日本では「第一人者」「その世界でも優れた能力を持つ人」というような意味で使われているようです。では、聖書において「カリスマ」という言葉はどういう意味でしょうか。ギリシャ語の辞書を見てみますと、「カリス」というのは「恵み」という意味で、「カリスマ」には「賜物、授かり物」とあります。

 パウロが「霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいから」というとき、自分の持っている力でローマの人たちを力づけてあげよう、と考えているのではありません。パウロはこの後、「カリスマ、賜物」を「恵みの賜物」「神の賜物」という言い方をしますが、「カリスマ、賜物」が何かが一番分かる表現を 6:23 でしています。パウロは言います。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物(カリスマ)は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。パウロは、ローマの人々と共に永遠の命というカリスマ、賜物に共に与りたいと願っているのです。
 もちろん、永遠の命はパウロの自由になるものではありません。けれど神は、永遠の命を与えるため、パウロ使徒とされました。ヨハネによる福音書 17:3 でイエスご自身がこう言われています。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。ここで言う「知る」とは、自分との関係において「知る」ことです。つまり、イエス キリストがわたしの救い主であることを知って、イエス キリストの救い、恵みに与るということです。そして、イエスご自身が「すべての異邦人」にキリストを伝え、真の神を知らせるために、パウロ使徒に召されました。
 「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられ」ます(1テモテ 2:4)。そして神がお遣わしくださった救い主イエス キリストは「わたしたちの罪のための、あがないの供え物で」あり「わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のため」の供え物です(1ヨハネ 2:2)。ですからパウロは、すべての人とこの恵みを分かち合いたい、共に与りたいと願っているのです。

 このすべての人が救われてほしいという神の思いに導かれて、パウロは生涯福音を宣べ伝えました。そして、パウロに続いて教会も、2,000年イエス キリストを宣べ伝えてきたのです。それは、ついにわたしたちのところにまで至りました。パウロの手紙を通して、今、神がわたしたちに語りかけておられます。神ご自身が、わたしたちに出会うことを願っておられ、霊の賜物すなわち永遠の命を分け与えて、力づけたいと願っていてくださるのです。

 ただし、時と計画は、神さまの領分です。パウロはそれを知っています。だからパウロは「いつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように」と祈り願います。そしてご存じのとおり、パウロはローマに行きます。しかしそれは、予想を超えて、皇帝の裁判を受けるために護送されてローマへと行きます。
 聖書にはこう言います。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言 19:21)。救いは、神の御業であり、神のご計画です。イエス キリストが救い主として来られたのも、十字架にかかられたのも、そして復活されたのも、わたしたちの計画ではありません。永遠の命も、わたしたちの所有物ではありません。すべては、神の愛と真実のうちにあるのです。
 だから、わたしたちは祈ります。神が救いの御業をなしていてくださるので、委ねて、祈りつつ信仰の道を歩んでいくのです。

 このときわたしたちは、救いの完成という大きな幻を与えられます。
パウロの手紙を、神がお用いになるとき、2,000年の時を超えて、神の変わることのない御心を伝えてくださいます。
 アブラハムの信仰は空しくなりませんでした。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。・・あなたの子孫はこのようになる。」(創世記 15:5)神がアブラハムに言われた言葉は真実でした。アブラハムはイサクとイシュマエルという二人の息子しか見ませんでしたが、わたしたちは神の言葉が真実であったことを知っています。わたしたち自身がアブラハムの信仰の子孫です。
 旧約の詩人たちの祈りも空しくなりませんでした。イエス キリストが来られて、救いの御業を成し遂げてくださったからです。
 だから、わたしたちの信仰も決して空しくなることはありません。

 わたしたちは今、神の愛と真実に支えられ守られて、大きな希望の中を生きる者とされているのです。その神の愛と真実を知って、霊の賜物、永遠の命に与れるようにと、神は礼拝へと招き、神を知るように導いていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかわたしたちにも霊の賜物を豊かにお与えください。恵みの賜物に満たされて、あなたを証しして歩むことができますように。いよいよあなたご自身を知って、あなたの希望に満たされていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨエル書 3章1〜5節

2019年6月9日(日) 聖霊降臨節 主日礼拝
ヨエル書 3:1〜5(新共同訳)

 きょうは聖霊降臨節です。イエスの弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まったことを記念する日です。
 聖霊降臨節ペンテコステと言いますが、これはギリシャ語で50番目を表す言葉で、50日目を表します。イエスが復活された日から50日目に、弟子たちに聖霊が降ったと聖書は記しています。(使徒1~2章)ですから、聖霊降臨節は復活節から50日目、7週間後に祝われます。

 聖霊降臨の時、弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに他の国々の言葉で福音を語り始めました。それを聞いた人々はとても驚きましたが、中には「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って嘲る者もいました。その人に対して「そうではない」とペトロが語り出しました。その時、ペトロが引用した聖書の箇所がきょう読みましたヨエル書3章の御言葉でした。
 ペトロはこの時、聖霊降臨の出来事がヨエル書に記された御言葉の成就であることを知ったのです。
 「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」
 その後というのは、ヨエル 2:18以下に記されている、主が民を愛し憐れんで、救いのための偉大な業をなしてくださった後のことです。救いの出来事の後で、主はすべての人にご自身の霊を注がれると約束されたのです。
 つまり、ヨエル 2:18以下はイエス キリストのことを指し示していて、イエスの地上での業が全うされ、天に昇られた後、3:1以下に記されているように、神が聖霊を注がれることが預言されていたのです。

 霊という言葉は神秘的な響きを持っています。霊とは一体何でしょうか。この霊と訳されるヘブライ語ルーアハは、風とか息とか空気のように目に見えないものの動き・働きを表す言葉です。
 霊の働きと、風や息には共通するところがあります。霊は神の御心のままに働きますから風のように自由です。そして息をすることによって命あるものが生きているように、霊はわたしたちを神の命で満たし、神と共に生きるものとするのです。
 わたしたちは目に見える体と目に見えない心とが息をすることによって、一人の命ある存在として一体となって生きています。同じように神の霊は、目に見えるわたしたちと目に見えない神とを一つに結び合わせ、神の命に生きる者とするのです。この目に見えるものと目に見えないものとを結び合わせる、というのが霊の働きです。そして聖霊は、神と結び合わせ、神の命に生きる者としてくださるのです。
 神は、わたしたちを罪から救った後に、神と共に生きていくように、ご自分の霊を注ぎ、わたしたちをご自分と一つに結び合わせてくださいます。

 「あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」
 神の霊は区別なく注がれます。子どもたち、老人、若者、奴隷。男女の区別なく、年齢の区別なく、身分の区別なく、救いに与る者には皆、注がれます。神が愛しておられるすべての者が、霊によって神と一つに結び合わされるのです。
 霊が注がれると預言をし、夢や幻を見ると言われています。預言は、言葉を預かると書きます。一般に使われる未来をあらかじめ語る予言とは違い、神の言葉を語るのです。神を知るのに年齢や人生経験は関係ありません。子どもであっても救いの恵みの中で神を知る者は、神を証しします。そして、社会的な地位や能力も関係ありません。奴隷だから神を知ることができないなどということはありません。
 これはかつて出エジプトを指揮したモーセが願ったことでした。モーセは言います。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(民数記 11:29)

 人は、罪により神の御心が分からなくなってしまいました。そして、人は自分の思いに囚われてしまい、自分の思いが実現し、自分の願いがかなえば幸せになれるという幻想に捕らえられてしまいました。
 わたしたちが罪の悲しみから救われるには、再び神の思いを知るようにならなければなりません。そして、神の思いを知らせ、神と結び合わせてくださるのが聖霊です。聖書は「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(1コリント 12:3)と言っています。わたしたちは聖霊の働きにより、イエス キリストを知り、神の御心を知り、神ご自身を知るのです。

 夢や幻を、神はこれからどのような歩むべきか示すのに用いられました。老人も夢を見ます。人生が終わりに近いからもう見る夢なんてない、というのではありません。神の国で新しい命に生まれ変わるまで、わたしたちは神に導かれ、進み行くのです。思いをはせるべき神の国に至る道が目の前に開き示されています。
 若者は幻を見ます。箴言では「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」(29:18)と言われています。どのように生きるかという幻がなければ、聖書の言うとおり人は堕落していってしまいます。「今さえよければ」では滅びに向かっていってしまいます。何にでも挑戦でき、いろいろな可能性が広がっているように思える若者にも、神の導きが必要です。
 神は救いを必要とするすべての者に霊を注ぎ、ご自分と共に生きる者としてくださいます。

 それと共にこう言われます。「天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。」
 救い主が再び来られる終わりの日に、最後の審判が行われます。その日に向けて、人間の罪はいよいよあらわになり、この世に望みを置く者には、この世がいかに危うく頼りにならないかが示されます。ここで描かれているのは、戦争と天変地異だと言われています。地の支配者になろうとする人間の罪があらわになっていく中で、支配しようと思っていた地が揺らぎ、崩れだすのです。そしてわたしたちは今、そういう時代に生きているのです。

 人は、命も、賜物も、そしてすべてのものが与えられたものであることに気づかねばなりません。与えられているものなのに自分で思い通りに支配できると思うとき、人は大切なものを失ってしまいます。

 「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」
 しかし、罪があらわになり、頼りにしていたものが危うくなっても、なお救いの道は備えられています。最初に出てくる「しかし」が大事です。慌てふためくような事態の中にあっても、もうダメだと思えるようなときでも、「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」のです。わたしたちの救いはどこにあるのか。神ご自身こそ、わたしたちの救いです。わたしたちを愛し、どのような罪の中にあるときにも諦めることなく呼び求めくださる神ご自身こそ、わたしたちの救いなのです。

 そして神は、罪の世に逃れ場を用意してくださいます。エルサレムは、神の民イスラエルの都であり、シオンはエルサレムが立つ丘の名前です。エルサレムという名前は、平和の町という意味です。イスラエルに神との平和に与る町エルサレムを用意してくださったように、今わたしたちには神のもとに立ち帰り、神の平和に与る場所として、教会が用意されています。教会は、神の霊を受け、神の平和に与る場です。霊に導かれて神の言葉が語られ、聞かれる場です。共に神の御名を呼び求める場であります。

 パウロもローマの信徒への手紙の中でヨエル書を引用してこう語っています。「聖書にも『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。・・すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」(ローマ 10:11~13)
 主を信じる者は誰も失望しないのです。主を呼び求めるすべての人を、神は豊かに恵まれます。誰一人として「わたしは無理だ。救われない」と諦める必要はありません。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」(ヨハネ 3:17)なのです。「神は・・独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ 3:16)にイエス キリストをお遣わしくださったのです。

 今、自分自身、そしてこの世に向けられている目を、神へと向けましょう。神を知ることができるように聖霊を祈り求めましょう。神は聖霊を注ぎ、代々の聖徒たちを導いてこられました。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ 11:13)のです。

 聖霊は、キリストの命の恵みでわたしたちを満たしてくださいます。そして聖霊に導かれ神の許に立ち返っていくとき、神が愛しておられる兄弟姉妹たちに出会っていくでしょう。その時、イザヤが預言した霊の注がれる日が現れてきます。「ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。/そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。/正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。/わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。」(イザヤ 32:15−18)


ハレルヤ


父なる神さま
 今年も、あなたが聖霊を与えてくださることを心新たに覚える聖霊降臨節へと導いてくださり、感謝します。聖霊により、あなたと結ばれ、あなたの命に新しく生きるあなたの民、あなたの子としてください。どうか救いの恵みの中で、あなたの平和に生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 1:8

2019年6月5日(水)祈り会
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 1:8(新共同訳)


 1~7節は、ローマの教会への挨拶でした。
 この手紙以外でローマの教会について分かることはそう多くはありません。使徒 2:10には、聖霊使徒たちに下り、いろいろな国の言葉で福音を語り出したとき、そこにローマから旅に来ている人がいたことが書かれています。帰国してから、この人がエルサレムでの体験を話したかもしれません。使徒 18章では、パウロギリシャのコリントに行ったとき、ローマ皇帝ユダヤ人をローマから追放したため、アクラとプリスキラという夫婦がコリントに移り住んでいて、彼らの家にパウロが滞在して伝道したことが書かれています。そしてローマ 16:3を見ると、パウロがこの手紙を書いたときには、アクラとプリスキラ(16:3ではプリスカ)はローマに戻っていたことが分かります。

 そして、パウロが挨拶の次に書くのは感謝です。
 「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」
 この手紙はとても長い手紙です。ローマの教会の様子を伝え聞いて、伝えたいことがたくさんあったことが分かります。書きたいこと、伝えたいことはたくさんある。しかしパウロは、「まず初めに」「わたしは・・神に感謝する」と記します。

 何について神に感謝するのか。それは「(ローマの教会の人々の)信仰が全世界に言い伝えられている」ことだと言います。
 このローマ教会の信仰がどのような信仰であったのか、はっきりはしません。普通は、感謝するとあるのだから、素晴らしい信仰だったのだろうと考えます。しかし注解書によっては、この手紙に書かれている内容を見ると、ローマの教会の信仰は非常に律法主義的だったのではないか、と書いてあるものもあります(例えば、マシュー・ブラック、ニューセンチュリー聖書注解)。
 思うに、欠けのない完全な信仰など、イエス キリスト以外にはありませんし、問題のない教会もありません。ですから、パウロがここで「まず初めに」「わたしは・・神に感謝する」というのは、信仰の善し悪しに関わらず、イエス キリストを主と信じる民が起こされ、教会が建てられている(建物ではなく)という事実に対して感謝しているのだと思います。

 これは、パウロ自身の信仰から来るものでしょう。ご存じのように、彼はキリスト教の迫害者でした。彼が迫害者からキリストの使徒へと変えられたことについては、使徒 9章に書かれています。さらに使徒 22章、26章と計3回、パウロ自ら迫害者であったこと、復活のキリストに捉えられ回心したことが述べられています。けれどもパウロは、自分の召しについて「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになった」(ガラテヤ 1:15)と言っています。回心し、キリスト者となったから召されたのではないのです。彼は迫害者でした。それにも関わらず、神は母の胎内にあるときからパウロを聖別し、恵みをもって召されたのだと告白しています。
 ですから彼は、ローマにキリスト者がいる、ローマにキリスト者の群れがあり、教会が建てられている、という事実に対して、神が救いの御業をなしてくださっている、と確信し、神に感謝しているのです。

 16章で、ローマ教会の多くの人の名前を挙げて「よろしく」と書いています。パウロはローマに行ったことはありませんが、パウロと関わりのある人たちが、今ローマに住みローマ教会に集っています。信仰による教会のつながりがあり、ローマにキリスト者がいる、教会があるということは、当時の地中海世界、当時の全世界に知られていたのです。

 感謝を伝える「ありがとう」は、新約が書かれているギリシャ語では「エウカリステオー」という言葉が使われています。この言葉は「カリス」(恵み)という言葉からできています。神から「よい恵み」を賜ったことに対する感謝を表しています。
 神から賜った「よい恵み」とは、イエス キリストに他なりません。パウロは自分の経験から言っても、イエス キリストと出会うことによって信仰へと導かれると信じています。皇帝礼拝の中心地であるローマに、キリスト者がいるということは、神が福音宣教を通して、キリスト者となった一人ひとりにキリストとの出会いを与えてくださったということです。

 イエス キリストこそ、神がすべての人に賜ったよい恵みです。イエス キリストは「わたしたちの罪・・を償ういけにえ」です。「いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(1ヨハネ 2:2)
 罪はわたしたちをばらばらに引き離しますが、イエス キリストはご自身を通してわたしたちを一つに結び合わせてくださいます。聖書は語ります。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」のです。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ 3:27, 28)

 イエス キリストは、神が与え給う「絆」です。罪によっても消え去ることのない「絆」、あらゆる違いを貫いてわたしたちを結び合わせる「絆」です。
 だから、パウロは「イエス・キリストを通して」神に感謝するのです。キリストの救いに与り、その救いを信じている「あなたがた一同について」神に感謝するのです。
 そして、まだ行ったことのない土地に建つ教会とつながりを与え、その教会のために今手紙を通して仕える機会を与えてくださった「わたしの神」、このわたしを母の胎内にあるときから選び、神の福音のために召してくださった「わたしの神」に感謝するのです。

 罪のためにわたしたちは神が分からなくなっていました。しかし、キリストの救いに与るとき、わたしたちは神を知るのです。このわたしを造り、このわたしを愛し、このわたしを罪から救う生ける真の神を知るのです。
 近代以降、人は人間を中心にして考えるようになりました。それを表す言葉が「我思う、故に我在り」(デカルト)です。そして今や、以前にも増して人間を、わたしを中心にして生きるようになりました。そして、自分を支えてくれる神以外のものを探し求め、自分の誇りとなる成功や富を求めるようになりました。それが「勝ち組・負け組」という言葉に表れているように思います。

 しかしキリストと出会い、神を知るとき、わたしは神に愛されている者、神が共に生きたいと願っていてくださる者、神に救われている者だと知るのです。光なるキリストのもとで、神とわたし、わたしとあなた、わたしと世界の新たな関係が現れてくるのです。わたしが中心なのではなく、神が中心であってくださり、神の愛からすべてが始まっていく新しい世界が現れてくるのです。

 そして、今もなされている救いの御業を知るとき、わたしたちはパウロと同じように、キリストによって神に感謝する者へと変えられていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに聖霊を注ぎ、信仰の目を開いて、あなたの御業を知る者としてください。あなたが今も生きて働いておられることを知って、感謝と希望で満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン