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ローマの信徒への手紙 1:8

2019年6月5日(水)祈り会
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 1:8(新共同訳)


 1~7節は、ローマの教会への挨拶でした。
 この手紙以外でローマの教会について分かることはそう多くはありません。使徒 2:10には、聖霊使徒たちに下り、いろいろな国の言葉で福音を語り出したとき、そこにローマから旅に来ている人がいたことが書かれています。帰国してから、この人がエルサレムでの体験を話したかもしれません。使徒 18章では、パウロギリシャのコリントに行ったとき、ローマ皇帝ユダヤ人をローマから追放したため、アクラとプリスキラという夫婦がコリントに移り住んでいて、彼らの家にパウロが滞在して伝道したことが書かれています。そしてローマ 16:3を見ると、パウロがこの手紙を書いたときには、アクラとプリスキラ(16:3ではプリスカ)はローマに戻っていたことが分かります。

 そして、パウロが挨拶の次に書くのは感謝です。
 「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」
 この手紙はとても長い手紙です。ローマの教会の様子を伝え聞いて、伝えたいことがたくさんあったことが分かります。書きたいこと、伝えたいことはたくさんある。しかしパウロは、「まず初めに」「わたしは・・神に感謝する」と記します。

 何について神に感謝するのか。それは「(ローマの教会の人々の)信仰が全世界に言い伝えられている」ことだと言います。
 このローマ教会の信仰がどのような信仰であったのか、はっきりはしません。普通は、感謝するとあるのだから、素晴らしい信仰だったのだろうと考えます。しかし注解書によっては、この手紙に書かれている内容を見ると、ローマの教会の信仰は非常に律法主義的だったのではないか、と書いてあるものもあります(例えば、マシュー・ブラック、ニューセンチュリー聖書注解)。
 思うに、欠けのない完全な信仰など、イエス キリスト以外にはありませんし、問題のない教会もありません。ですから、パウロがここで「まず初めに」「わたしは・・神に感謝する」というのは、信仰の善し悪しに関わらず、イエス キリストを主と信じる民が起こされ、教会が建てられている(建物ではなく)という事実に対して感謝しているのだと思います。

 これは、パウロ自身の信仰から来るものでしょう。ご存じのように、彼はキリスト教の迫害者でした。彼が迫害者からキリストの使徒へと変えられたことについては、使徒 9章に書かれています。さらに使徒 22章、26章と計3回、パウロ自ら迫害者であったこと、復活のキリストに捉えられ回心したことが述べられています。けれどもパウロは、自分の召しについて「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになった」(ガラテヤ 1:15)と言っています。回心し、キリスト者となったから召されたのではないのです。彼は迫害者でした。それにも関わらず、神は母の胎内にあるときからパウロを聖別し、恵みをもって召されたのだと告白しています。
 ですから彼は、ローマにキリスト者がいる、ローマにキリスト者の群れがあり、教会が建てられている、という事実に対して、神が救いの御業をなしてくださっている、と確信し、神に感謝しているのです。

 16章で、ローマ教会の多くの人の名前を挙げて「よろしく」と書いています。パウロはローマに行ったことはありませんが、パウロと関わりのある人たちが、今ローマに住みローマ教会に集っています。信仰による教会のつながりがあり、ローマにキリスト者がいる、教会があるということは、当時の地中海世界、当時の全世界に知られていたのです。

 感謝を伝える「ありがとう」は、新約が書かれているギリシャ語では「エウカリステオー」という言葉が使われています。この言葉は「カリス」(恵み)という言葉からできています。神から「よい恵み」を賜ったことに対する感謝を表しています。
 神から賜った「よい恵み」とは、イエス キリストに他なりません。パウロは自分の経験から言っても、イエス キリストと出会うことによって信仰へと導かれると信じています。皇帝礼拝の中心地であるローマに、キリスト者がいるということは、神が福音宣教を通して、キリスト者となった一人ひとりにキリストとの出会いを与えてくださったということです。

 イエス キリストこそ、神がすべての人に賜ったよい恵みです。イエス キリストは「わたしたちの罪・・を償ういけにえ」です。「いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(1ヨハネ 2:2)
 罪はわたしたちをばらばらに引き離しますが、イエス キリストはご自身を通してわたしたちを一つに結び合わせてくださいます。聖書は語ります。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」のです。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ 3:27, 28)

 イエス キリストは、神が与え給う「絆」です。罪によっても消え去ることのない「絆」、あらゆる違いを貫いてわたしたちを結び合わせる「絆」です。
 だから、パウロは「イエス・キリストを通して」神に感謝するのです。キリストの救いに与り、その救いを信じている「あなたがた一同について」神に感謝するのです。
 そして、まだ行ったことのない土地に建つ教会とつながりを与え、その教会のために今手紙を通して仕える機会を与えてくださった「わたしの神」、このわたしを母の胎内にあるときから選び、神の福音のために召してくださった「わたしの神」に感謝するのです。

 罪のためにわたしたちは神が分からなくなっていました。しかし、キリストの救いに与るとき、わたしたちは神を知るのです。このわたしを造り、このわたしを愛し、このわたしを罪から救う生ける真の神を知るのです。
 近代以降、人は人間を中心にして考えるようになりました。それを表す言葉が「我思う、故に我在り」(デカルト)です。そして今や、以前にも増して人間を、わたしを中心にして生きるようになりました。そして、自分を支えてくれる神以外のものを探し求め、自分の誇りとなる成功や富を求めるようになりました。それが「勝ち組・負け組」という言葉に表れているように思います。

 しかしキリストと出会い、神を知るとき、わたしは神に愛されている者、神が共に生きたいと願っていてくださる者、神に救われている者だと知るのです。光なるキリストのもとで、神とわたし、わたしとあなた、わたしと世界の新たな関係が現れてくるのです。わたしが中心なのではなく、神が中心であってくださり、神の愛からすべてが始まっていく新しい世界が現れてくるのです。

 そして、今もなされている救いの御業を知るとき、わたしたちはパウロと同じように、キリストによって神に感謝する者へと変えられていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに聖霊を注ぎ、信仰の目を開いて、あなたの御業を知る者としてください。あなたが今も生きて働いておられることを知って、感謝と希望で満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン