聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 8:19〜22

2019年6月2日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 8:19〜22(新共同訳)


 人は天地創造のときに、神から務めを与えられました。「神は・・祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。』」(創世記 1:28)これは「祝福して言われた」とあるように祝福の言葉です。この務めによって、神の祝福が地に広がるのです。「従わせよ」という言葉の強さに誤解されがちですが、神の御心によって治めるのです。人は、神にかたどって創られ、神と共に歩み、御心をなすように創られました。

 しかし、人は罪を犯してしまいました。その結果、神とは違う自分の善悪を持つようになってしましました。神の御心によって、地を治めることができなくなりました。これにより、地も人の罪のために苦しむようになりました。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。」(創世記 3:17)それで被造物は「すべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」のです。

 わたしたちはまず、罪は自分だけの問題ではなく、周囲を罪に巻き込んでしまうことを知らねばなりません。十戒に「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出エジプト 20:5)とあります。男であれ、女であれ、神に背く者が影響力を持っている家庭においては、一緒に暮らす孫、ひ孫まで影響を受けるのです。例えば、一国の総理なり大統領なりが戦争を始めたとき、平和主義者であっても、その国に暮らしている者は戦争に巻き込まれるのと同じです。
 ですから、罪に巻き込まれている被造物も、救いの完成、神の国の到来を待ち望み、「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」日を望み見ているのです。「神の子たちの現れるのを切に待ち望んで」いるのです。

 救いの完成、神の国の到来は、創造のときの「よかった」が回復されるときです。創世記1章の天地創造の出来事において、神は創造されたものを見て、「良しとされた」つまり「よかった」と6回言われました。そして6日目に人を創造された後で「極めて良かった」と7回目の「よかった」が言われました。
 7は完全数と言われています。1〜10までの基本的な数の中で最大の素数、割ることができない完全な数字だからだと考えられています。7日間の創造、7回の「よかった」、創世記は神の創造が完全なものであったことをこうした形で表現しています。
 それが人間の罪によって壊されてしまいました。そこで神は、救いの御業をなし、創造のときの「よかった」を回復しようとされました。

 イザヤ書は、その救いの完成をこのように描きます。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ 11:6~9)これは一言で言えば、神が創られたものすべてが、共にあることを喜べるということです。これが神の「よかった」なのです。罪は共に生きることを破壊していきます。神はその罪からわたしたちを救い出し、神の「よかった」に与らせてくださるのです。
 ですからイエスも、主の祈りにおいてわたしたちが日々祈るように教えてくださいました。「御国が来ますように。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。」

 きょうの箇所では一つ気になる箇所があります。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意思によるものではなく、服従させた方の意思によるものであり、同時に希望を持っています。」罪による虚無に服しているのが、被造物自身の意思ではないことは分かります。しかし、服従させた方、つまり神の意志によるものとはどういうことでしょうか。

 これと同じような表現が、この手紙の中に出てきます。11章のところにこう書かれています。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエル)の不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼ら(イスラエル)も、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(ローマ 11:30~33)この箇所を丁寧に読むのは、説教がこの箇所まで進んだときにすることにしまして、大事なのは「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだった」ということです。
 神がなさることで、理解しがたいことは、その時その時でたくさんあります。「なぜですか、神さま」と叫ばずにはいられないこともあります。わたしたちは神の御心を理解し尽くせませんが、聖書は、神がなさるすべては「すべての人を憐れむため」だと語ります。なぜならば、イエス キリストが来られたことによって「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ 3:16)ことが明らかになったからです。「神が御子を世に遣わされたのは・・御子によって世が救われるためである」(ヨハネ 3:17)ことが証しされたからです。
 ですからここでも「同時に希望も持っています」と語るのです。虚無に服従させた方の意思は、すべての人を憐れむことであり、イエス キリストによって世が救われることだからです。だから希望があるのです。

 先ほど、罪は周りを巻き込み、影響を与える、と言いましたが、罪に勝利した神の救いの御業は、それ以上です。先ほど引用した十戒では「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言われています。罪が3,4代なのに対して、神の慈しみは幾千代です。わたしは3代前までしか知りません。千代となったらどれくらい時を遡ればいいのでしょうか。ルカによる福音書の言い方に倣えば「そして神に至る」(ルカ 3:38)となるのでしょう。わたしたちは皆「そして神に至る」系図の中に生きています。

 またイエスは、マタイによる福音書でこう言われました。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ 10:42)
 わたしの両親も弟もその家族もキリスト者ではありません。けれど、わたしはその未信者の家族から冷たい水一杯以上のものを受けてきました。今は近くにいなくて、わたしが受けたことに報いることはできませんが、主イエスご自身がこのいと小さきわたしに代わって報いてくださるのです。
 わたしたちがイエス キリストを信じるとき、信じたわたし一人が恵みを受けるのではありません。神の恵みは、罪とは比べものにならないほどに大きな影響力を持ち、周囲を神の恵みに巻き込んでいくのです。

 だからわたしたちは、希望を持っています。神の御心に、神の御業に希望を持っています。救いの完成、神の国の到来に希望を持っています。このわたしがキリストと同じ姿に変えられるのです。罪から解放されて、愛することができるのです。赦すことができるのです。イザヤが預言したように、共にあることを喜び、神の「よかった」に満たされていくのです。
 聖書は語ります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒 16:31)だから愛する者も主に委ねて、安心して信じるのです。

 真理はわたしたちを自由にします(ヨハネ 8:32)。恐れから解放します。そしてイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ 14:6)と言われます。真理であるイエス キリストこそ、わたしたち、そして全被造物を「滅びへの隷属から解放」し、「神の子供たちの栄光に輝く自由」に与らせてくださるお方なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストを通してわたしたちに希望を与えてくださることを感謝します。わたしたちはこの罪の世に捕らわれがちで、あなたをしばしば忘れてしまいます。どうか聖霊を注ぎ、キリストの救い、恵み、希望でわたしたちを満たしてください。どうかキリストを通してあなたの御心を知り、救いの御業に仕えていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 1:5〜7

2019年5月29日(水)祈り会
聖書箇所:ローマ 1:5~7(新共同訳)


 パウロはローマの教会に手紙を書いています。彼はローマにまだ行ったことがありません。会ったことのない人たちへの手紙です。パウロは、まだ会ったことのないローマの人たちに対して、自分たちに共通することを書きます。

 1節でパウロは「召されて使徒となった」と書き、7節で「召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」と書きます。6節でも「イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです」と書いています。自分たちに共通する大切なこととして、パウロは「召し」を語ります。

 召しはパウロにとって信仰の第一歩でした。使徒言行録9章に彼の召しの原体験が書かれています。彼は熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教徒を神を冒涜する滅ぼすべき者たちと考えていました。このときはサウロと名乗っていましたが、その彼が復活のキリストに出会う場面です。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(使徒 9:3~6)。彼は熱心な信仰者、神を信じる者でした。しかしこの体験は、信仰はキリストに召されることによって生まれるものである、ということを知らされた決定的な出来事でした。主は、迫害者であるパウロを選び、救いの中に招き入れてくださったのです。

 近代に入って個人の権利が重んじられるようになる中で、キリスト者の信仰も自分の好きなように信じてよいと考える人が増えてきました。自分が好きなように信じるということは、自分好みの偶像を作り上げることに他なりません。キリスト教の信仰の基本は、真の神に立ち帰ることですから、自分の信仰だから自分の好きなように信じてよいというのではありません。そこで、神の言葉である聖書が語られ、イエス キリストが証しされるのです。わたしたちの社会は民主主義の社会ですが、1節で言われているようにわたしたちは僕であり、4節に言われているとおり主はイエス キリストなのです。わたしたちは罪人である自分自身から解放される必要がありますが、現代は人権を語りながら、個人一人ひとりを自分の願望・欲望の奴隷としてしまっています。

 しかし聖書は、わたしたちが本当に自分らしく喜びと希望をもって生きるには、神に立ち帰ることが必要である、と告げます。わたしたちは、神にかたどって造られ、神に愛され、神と共に生きるものとして造られた。罪に導かれて生きるのではなく、神に導かれて神と共に生きるように召された、ということを聖書は告げています。

 「イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがた」(6節)とパウロは語ります。この「あなたがた」には、すべてのキリスト者が含まれます。パウロはわたしたちを知りません。わたしたちに会ったことがありません。けれども、わたしたちには共通点があります。共に「神に愛され、召されて聖なる者となった」(7節)のであり、「イエス・キリストのものとなるように召された」(6節)者たちなのです。

 キリストのものとされたことによって、わたしたちはキリストご自身に与る者とされました。イエス キリストは真に神であり、真に人であるお方です。主にして僕となられたお方です。わたしたちは、自分の賜物、自分の人生を自分で判断して用いています。しかし主の僕として、御心にかなうように自分の賜物も時間も用いていくのです。例えば、わたしたちは何でも語ることができます。しかし、何を語ってもいいのではなく、主イエスの愛と恵みを分かち合う言葉を語るのです。
 聖書は語ります。「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。・・あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(1コリント 6:12,19,20)

 さらにわたしたちはイエス キリストを証しし、宣べ伝える務めを与えられました。「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」(5節)。
 わたしたちは、神と共に歩み、神の救いの御業に仕える者、キリストの御業に仕える者とされたのです。このキリストによって与えられた恵みと務めを、教会は2000年担い続けてきました。「あなた方も神によって召されている神に愛されている者なのだ」ということを宣べ伝えてきました。この恵みと務めにわたしたちも今、与っているのです。
 パウロもキリストから託され、教会が代々に担ってきた務めによって、わたしたちもキリストへと導かれ、救いへと招き入れられました。わたしたちは、代々のキリスト者たちと共にキリストのものとされ、今救いのただ中にあり、神の祝福を受けています。

 そしてキリスト者は、すべての人、すべての被造物が神の祝福に与ることを祈ります。
 この手紙の挨拶も、祝福の祈りで閉じられます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(7節)毎週の礼拝も祝福で終わります。神が祝福していてくださり、祝福に与ることを願っていてくださるからです。
 わたしたちが誰かを訪ねたり見舞ったり、いろいろな機会にわたしたちが願うことは、神がその人と共にいてくださり、神が祝福してくださることです。そして、そのことを祈り願うことのできる確かな根拠は、神ご自身の御心であり、救いの御業です。キリストはその十字架と復活によって、それが確かであることをわたしたちに証ししてくださいました。例えわたしたちがそれぞれにどんなに欠け多く弱さを負っていたとしても、そのわたしたちを知って、愛して、召してくださった主が「祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召された(1ペテロ 3:9)」と語りかけてくださいます。だからパウロは、まだ会ったことのない主にある兄弟姉妹たちへの祝福を願うのです。
 皆さんも是非、家族のために、子どものために、孫のために、神が出会いを与えてくださった隣人たちのために祝福を祈って頂きたいと思います。

 そしてこの手紙を読んでいく皆さんが、代々の聖徒たちと同じように、キリストと新たに出会い、その信仰が祝福され、深められ、育まれ、主にある喜びに満たされていくように心から願います。


ハレルヤ


父なる神さま
 いと小さきわたしたちを顧み、あなたの民へと召してくださいましたことを感謝します。あなたの召しにより、わたしたちは聖書からあなたの御心を知る者とされました。あなたの御心によって、自分が何物であるのか、わたしたちが召された意味を知りました。偶然に支配されているように見えるこの世界にあって、あなたが与えてくださる意味を証ししつつ歩んでいくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 3:1〜7

2019年5月26日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 3:1〜7(新共同訳)

 ある晩、ニコデモという人がイエスを訪ねてきました。彼はファリサイ派と呼ばれる律法を厳格に守るグループに所属していました。さらに彼はサンヘドリンと言われるユダヤ最高法院の議員の一人でもありました。
 その彼が、ある晩イエスのもとに来て言います。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
 彼はイエスに「ラビ」と呼びかけます。ラビというのは、ユダヤ教の教師に対する敬称です。ニコデモはイエスに敬意を表します。さらに「わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と言います。彼はイエスに敬意を抱いているのが自分だけではないことを示します。ただしそのことを公にするのははばかられました。12:42にはこう記されています。「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」。だから彼は、夜密かにイエスを訪ねたのです。
 ニコデモはイエスに関心を持っていました。イエスの言動に注目していました。だからこう言います。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」。ニコデモはイエスを見てきました。そして彼は確信します。「神がイエスと共におられる」。イエスがなしたしるしは、神が共におられる証しだとニコデモは思いました。だから彼は、イエスは「神のもとから来られた教師である」と言うのです。

 福音書もニコデモの判断が正しいことを証しします。5:36でイエスはこう言われます。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。また10:37,38にはこうあります。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」。そして14:11ではこう言っています。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」。つまり福音書自身、父なる神が御子イエス キリストと共にあり、一つであられることを明らかにし、そのことはイエスの業が証ししていると繰り返し述べています。

 しかし、イエスはニコデモが示す敬意には関心を見せず、おそらくニコデモにとって最も必要なことをはっきりとお語りになります。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。

 これはニコデモには衝撃でした。自分のこれまでの信仰を否定されたも同然だったからです。彼はファリサイ派の一員として律法を忠実に守ってきました。それが神に喜ばれることだと信じてきました。それなのにイエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言うのです。ファリサイ派のやり方をしていても神の国を見ることはできない、神の国には入れないと言われたも同然です。
 彼は向きになってイエスに言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。彼は勘違いしたのではありません。自分のこれまでの信仰が否定されたと思って、カッとしたのです。

 イエスは冷静にお答えになります。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

 イエスは最初の答えでも次の答えでも、初めに「はっきり言っておく」と言われます。この「はっきり」と訳された言葉は「アーメン、アーメン」という言葉です。聖書協会共同訳・フランシスコ会訳は「よくよく」と訳し、新改訳は「まことにまことに」と訳しています。岩波版はそのまま「アーメンアーメン」としています。
 皆さんもよく知っているこの「アーメン」という言葉は「まことに」とか「確かに」という意味で、わたしたちが祈りで使う場合は「この祈りは真実です」という意味、「わたしはこの祈りに同意します」という意味で使います。それに対して、イエスのこの言い方は、神の国の奥義を語る場合に使われます。
 つまり、敬意は持っていても、周りの目が気になって、人目を忍んで夜やってくる者に対しても、イエスに自分の信仰を否定されたと思って向きになってくってかかる者にも、イエス神の国の奥義を明らかにしてくださいます。

 そしてイエスが明らかにされた奥義は、新しく生まれるということでした。これは聖書が繰り返し語る、救いの核心の一つです。
 ヨハネ 1:13では、神の民、キリスト者は「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」と言われます。1ペトロ 1:3,23では「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ・・神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」と言い、2コリ 5:17では「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と言われています。

 では、この新しく生まれるということがどのようにして起こるのかというと、水と霊によって生まれるのだと言われます。
 旧約はこのことについてこう預言しています。エゼキエル 36:25,26にはこう記されています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。・・わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」。
 新約ではテトス 3:5で「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」と書かれています。
 水は洗礼の水を指しています。そして単に洗礼という儀式だけでなく、洗礼を救いのしるしたらしめる聖霊の働きが伴って、水と霊によって新しく生まれるのです。聖霊なる神が働いてくださるからこそ神から生まれるのです。

 もしかしたら、皆さんの中にはここで疑問を持たれる方がいらっしゃるかもしれません。わたしは新しく生まれたのだろうか。聖霊なる神がわたしに働いてくださったのだろうか。
 聖霊に関しては、なぜか多くの人が実感を求めます。しかし、神はわたしたち被造物を超えるお方、わたしたちの感覚で捉えることのできないお方です。だから、神はご自身を御言葉によって啓示してくださるのです。わたしたちは父なる神についても、御子イエス キリストも、聖霊なる神も御言葉、聖書によって知るのです。三位一体というわたしたちの理性を超える事柄も、聖書がそのように語っているので、わたしたちは神が唯一でありながら父・子・聖霊という位格・ペルソナ・パーソナリティを持つお方であることを知るのです。ですから、神ご自身に関しては、わたしたちの感性・実感ではなく、御言葉に導かれることが大切です。

 そこで、聖霊が働いてくださって新しく生まれたかどうかについてですが、聖書はこう言っています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(1コリント 12:3)。
 皆さんは「イエス キリストはわたしの主、救い主である」と信仰を告白して、洗礼を受けました。その皆さんの信仰はどこから来たのでしょうか。皆さんが信じることにしたから、信じているのでしょうか。そうではありません。信仰は神が与えてくださった恵みです。

 わたしは皆さんと同じく、イエスがわたしの主だと信じています。しかし、わたしはイエスを見たことがありません。声を聞いたこともありません。握手したこともありません。2000年も前の、遠く離れた国に生きた人をなぜ救い主と信じ、毎週説教しているのでしょうか。疑いを捨てた訳ではありません。素直に御言葉を聞けるようになったということもありません。かつては信仰を、神を信じるということを侮っていました。それがなぜ信じるようになったのか。聖霊がこのわたしにキリストを知らせてくださり、信仰を創り出す奇跡をなしてくださったからです。ある人は、罪人の内に信仰が起こされるということは、天地創造に匹敵する奇跡だと言っているそうですが、わたしもそう思います。

 わたしたちの教会はその信仰の告白において「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」と告白しています。これは、神が信仰を与えてくださり、イエス キリストが誰かを知ったことへの感謝の応答です。わたしたちの教会は、この信仰の告白において、神によって新しく生まれ、神の国に入れられている恵みを覚えています。

 わたしたちは間違いなく水と霊によって新しく生まれたのです。霊なる神によって神の子として新しく生まれさせて頂いたのです。
 そしてこの恵みは、さらに続きます。聖書は語ります。「わたしたちは・・主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによること」(2コリント 3:18)だと。

 イエスは「驚いてはならない」と言われましたが、驚かずにはいられません。何度考えても、何年経っても、わたしの想像を超える言葉、出来事です。この世の現実から導き出せる未来ではありません。しかし、この神の約束が真実であることを、イエス キリストが、その十字架と復活が証ししています。どんな時であっても証ししています。だからわたしたちは、イエス キリストを仰ぎ見つつ歩むのです。イエス キリストこそ、神が与えてくださった確かなしるし、わたしたちの救いが確かであることを証しするただ一つのしるしなのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはいと小さきわたしたちを顧み、関わってくださいます。聖霊は、わたしたちに信仰を与えてくださり、神の子として新しく生まれさせてくださいました。この恵みの中をあなたは歩ませてくださり、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえてくださいます。わたしたちはあなたが与えてくださる未来に希望を持ちます。どうか、いよいよ深くあなたを知り、あなたとの交わりに生きるあなたの子としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 1:1〜4

2019年5月22日(水)祈り会
聖書箇所:ローマ 1:1~4(新共同訳)

 

 主日礼拝で、ローマの信徒への手紙を前の教会からの続きで、8:18から始めましたが、祈り会で 1:1〜8:17 までを話してほしいとの要望がありましたので、きょうからローマの信徒への手紙の話をさせて頂きたいと思います。

 

 さて、このローマの信徒への手紙は、パウロの自己紹介から始まります。パウロはまだローマに行ったことはありません。しかし彼は、地の果てまで福音を伝えたいと願っていました。1:15では「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」と語り、15:28では「あなたがたのところを経てイスパニア(スペイン)に行きます」と述べています。
 ローマの教会は、ローマに住むユダヤ人たちを核として始まりました。ですから、どうしても律法を重んじるユダヤ教の影響が残ります。パウロはそのようなローマの教会の様子を耳にして、律法の遵守によって義とされるのではなく、キリストの救いの御業によって義とされるキリストの福音を伝えることを願い、この手紙を書きました。

 パウロはこの手紙をこのように書き出します。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」(1節)
 自己紹介は、相手に自分を知ってもらうためにします。まだ見ぬ教会の人たちに自己紹介をするのに、パウロは「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と書いています。

 まずパウロは自分がイエス・キリストの僕であることを明らかにします。僕という単語は普通「奴隷」と訳されます。奴隷は主人の意思をなすために働きます。ですから、パウロは自分の主人であるイエス キリストの御心をなすために仕えていることを「僕」という言葉で表しています。
 パウロがキリストの僕とされたことについて「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と述べています。「福音」という言葉が出てきます。福音とは「よい知らせ」という意味です。「神の福音」とは、神がわたしたちのために用意してくださったよい知らせ、という意味です。ですからここは、「わたしパウロは、神がわたしたちのために用意してくださったよい知らせを伝える務めのために選ばれ、キリストに召し出されてこの務めを果たしている」ということを述べています。「使徒」という言葉は、遣わされた者という意味です。

 そして「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」(2節)と福音について語り始めます。この神が用意してくださったよい知らせは、昔から預言者たちによって語られ、旧約の中に記されているもの、神によって約束されていたものだ、と語ります。つまり、今、自分が勝手に語るのではなく、遙か以前から神が約束していてくださるものである、と言っています。

 そしてこの福音は「御子に関するもの」で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」(3, 4節)とパウロは語ります。
 「肉によれば」の部分は、「聖書の中で、あらかじめ約束されたもの」として語られています。歴代誌上 17:11〜13で、神はダビデにこう約束されました。「あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしはあなたに先立つ者から取り去ったように、彼から慈しみを取り去りはしない。」この約束のとおり、神はダビデの子孫から救い主を生まれさせてくださいました。マタイによる福音書ルカによる福音書は、イエス キリストの系図を載せて、それを証ししています。
 そして「聖なる霊によれば」の部分は、神が救いの御業を成就してくださったことを語っています。復活というあり得ない出来事において、イエス キリストが「力ある神の子」であることを確証してくださったのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の言葉(マルコ 1:11、マタイ 3:17、ルカ 3:22)を復活という出来事を通して神ご自身が証しされたのです。十字架では、弟子たちは躓き逃げてしまいました。しかし復活の主に出会って、イエスは救い主であることを、改めて信じることができました。パウロはそれを受けて、聖なる霊によればこのイエス キリストは、死人からの復活により、力ある神の御子であると確定され、明らかにされた、と述べています。
 この神の御子イエス キリストこそ、神の福音、神がわたしたちのためにもたらしてくださったよき知らせそのものなのです。
 パウロはローマの教会の人々、まだ会ったことのないローマの人々に、神の福音であるキリストのよき知らせを正しく伝えるためにこの手紙を書いたのです。

 最後に「主」について触れておきます。4節に「この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と書かれています。パウロがこの手紙を書いた時代、主がいるということは当たり前のことでした。奴隷がいて、主人がいる。領主がいて、国王がいる。この手紙の宛先であるローマにおいて、主と言えば、ローマ皇帝でした。その当たり前の世界に向かって、わたしの主はイエス キリストであって、わたしはキリストの僕、奴隷である、と宣言しているのです。これは迫害のきっかけにもなりかねない危険な言葉です。
 神の福音には、罪を抱えたわたしたちを揺さぶり、罪の世を揺さぶり変えていく力があります。ですから、神の福音は抵抗を受け、ときに迫害されます。
 ところで、現代の日本は主人をほとんど意識することのない社会です。ですが、罪は自分自身を主とします。多くの人が、自分の人生の主人は、自分自身だと思っています。わたしの人生をどう生きるかはわたしの自由だと思っています。そのような中で、キリストを主とする神の福音は敬遠され、拒否されがちです。
 いつの時代も、罪の世は神の御業に敵対します。しかし、どのような時代、どのような社会であっても、神の言葉が空しくなることはありません。神の約束がイエス キリストにおいて成就したように、神の言葉は出来事となり、実現していきます。神の国が到来するその日まで、神の福音はわたしたちを、そしてこの世界を変えていきます。わたしたちの教会は、神の福音に従う信仰を込めて「御言葉によって改革され続ける」という言葉を旗印にしてきました。

 日本キリスト教会信仰の告白が最初に告白するのも「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」です。パウロと同じように、わたしたちも「わたしたちの主はイエス キリストである」と告白しています。時代が穏やかなときには、お題目のように唱えているだけのように思われるかもしれません。しかし、この言葉は罪にとっては危険な言葉、わたしたちを神の子と変えていく力ある言葉です。

 今、わたしたちもパウロと同じようにキリストに従うキリストの僕です。わたしたちも神の選びを受け、神に召し出されて、今ここに集っています。そして、キリストの僕パウロが書いた手紙を、わたしたちも聞き始めました。ローマの教会の人々と同じように、今わたしたちもこの手紙を通して、イエス キリストが誰なのか、イエス キリストの御業はいったい何だったのか、を聞いていきます。2000年の時を超えて、神が自らの言葉として選び用いられたこの手紙を通して、神ご自身がわたしたちに語りかけておられます。そしてわたしたちは、今もわたしたちの救いのために語りかけてくださる生ける真の神を知るのです。

 

ハレルヤ

 

父なる神さま
 この手紙を通して神の福音であるイエス キリストを知ることができますように。この教会において、キリストに出会い、あなたが与えてくださる救いに与ることができますように。どうかあなたから来る喜びと希望に満たされて、神の国への道を歩み行くことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

再び祈り会でローマの信徒への手紙を

 主日礼拝で、ローマの信徒への手紙を前の教会からの続きで、8:18から始めたが、祈り会で 1:1〜8:17 までを話してほしいとの要望があったので、話をすることになった。
 ブログを見たら、ローマの信徒への手紙の説教を始めたのは、2016年10月30日、2年半も前だった。読み直してみたら、くどいところを修正するなど変更もあったので、ブログの原稿に手を入れて、祈り会で話したものを新たにブログに載せていこうと思う。