聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 13:1〜7

2021年1月31日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 13:1〜7(新共同訳)


 ローマの信徒への手紙は、教会の歴史にその名を留める人たちに大きな影響を与えてきました。アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ジョン ウェスレー、カール バルト。それぞれの回心であったり、救いの理解について影響を与えてきました。

 そんなローマの信徒への手紙ですが、きょう読みました箇所は、疑問が投げかけられるところです。紀元392年、ローマ帝国においてキリスト教が国教化されると、教会は政治権力と結びつくようになっていきます。そしてきょうの箇所、特に13:1は、教会が国家権力と結びつき、時に教会自体が政治権力となることの正当化のために用いられてきました(田川建三新約聖書 訳と註 4』p.305)。
 そのこともあって、きょうの箇所では抵抗権が語られ、政教分離について語られることも多く、解釈の歴史について書かれた本も出版されています(宮田光雄『国家と宗教 ローマ書十三章解釈史=影響史の研究』『権威と服従 近代日本におけるローマ書十三章』)。

 では1節から読んでいきましょう。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」
 元々聖書には章や節はありませんでした。きょうの箇所は前からの続きで書かれています。直前で語られたのは「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12:21)です。きょうの箇所でも3節「それなら、善を行いなさい」と言われます。ここは善を行うことの勧めの流れで語られています。ですから、この流れを無視して、この箇所だけを抜き出して論じるのは適当ではありません。ですから、善を行うことを勧めようとして「上に立つ権威に従うべきです」と語っているのです。だから4節「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」と言われています。
 この「善を行う」は、ここの流れにおいては「権威に従うべき」よりも上位にある勧めです。「善を行う」は「権威に従う」の前提です。善を行わないで権威に従うのではないのです。

 その上でもう一度見ていきたいと思います。「上に立つ権威」とあります。そしてわたしたちが知っているとおり、最も上に立つ権威は神ご自身です。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」です。
 神によって立てられたものには、託された務めがあります。ここでは「善を行わせる」と言われています。権威には、神から委託された務めがあります。
 日本キリスト教会信仰の告白でも「教会はキリストのからだ・・主の委託により正しく御言(みことば)を宣べ伝え・・」と、委託ということが言われています。
 権威を託されているもの自体、神の御心の下にあります。「権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」権威は神の定めを果たすことが前提とされています。神の定めが最優先事項であり、神の定め・神の御心を無視して権威ある者が好き勝手やることは許されません。

 1節に「従う」という言葉が出てきます。この「従う」という言葉、元の言葉は「ヒュポタッソー」(ギリシャ語)という言葉です。このヒュポタッソーという言葉はヒュポとタッソーからなっていまして、ヒュポが「下に」という意味で、タッソーが「定める」という意味です。ですからここでは特に「神の下に定める」という意味でヒュポタッソーという言葉が用いられています。その意を汲んで、ある人はこの1節をこう訳します。「あらゆる人は、上に立つ権威に従いなさい。もし、神の下になければ、それは権威ではなく、存在しているそれらのものは神の下に定められているからです。」(宮平 望『ローマ人への手紙 私訳と解説』)

 聖書の語る善は、神の善、神の御心です。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。・・善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」世の権威に対する神の御心ははっきりしています。世の始めに神が人に地を治める務めを託されたのは、神の御心に従い、神と共に世を治めるためです。神の御心により、創造の時に繰り返し言われた神の「よかった」が世界を満たしていくように仕えるのです。(参照:創世記 1章)

 世の権威は、喜び生きる命の秩序を保つために、剣も託されています。そして神の民は、世の権威の怒りを逃れるという消極的な理由ではなく、神の御心に従い委託に応えるという良心のために従います。

 そして世の権威を維持するために税も納めます。新共同訳では「貢」と「税」と訳していますが、新しい翻訳(聖書協会共同訳)では「税金」と「関税」というように訳しています。その細かい違いは、当時のローマの在り方に詳しくないわたしにはよく分かりません。
 「義務を果たしなさい」は、「負っているもの(負債)を納めなさい」というのが元の文の意味です。負っているものには税金、関税、畏れ敬うことが挙げられます。その一番の元にあるのは、神が世を治める務めを託されたことです。世を治める務めを維持していく責任がわたしたちに与えられています。

 イエス キリストの福音は、今も古びることなくわたしたちの意識を変え、世を新しくしていきます。けれど変わるには、時があります。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト 3:1)
 けれどその時を待ちきれなくなることもあります。もっと社会が変わるべきだという強い意見を抱く人もいたことでしょう。実際、教会では奴隷をどのようにするかという問題、女性の地位の問題などが議論されていました。しかしパウロは、自分の経験を踏まえて勧めます。彼はローマ帝国が整備した道を歩き、ローマが整備した港を利用して伝道しました。ローマの法律に守られて伝道しました。ローマは異邦人の国であり、神の言葉を受け容れてはいません。それでもパウロは、ローマが神によって建てられ、神の務めを果たしていると受け止めていました。

 そして時とともにこの箇所も何度も読まれ、解釈され、聞かれてきました。そして始めに言いましたように、抵抗権と共に語られ、政教分離と共に語られるようになりました。そしてこれからも、社会が変化する中で新しく聞かれることでしょう。
 しかしどのような時代になっても「(神の)善を行いなさい」「(最も)上に立つ(神の)権威に従いなさい」というメッセージは語られ、聞かれ続けていくだろうと思います。
 わたしたちは礼拝に連なり、神の言葉に聞く中で、神が世を造られ、導かれるその御心を聞き続け、神の御心がなるように、神の栄光が現されるように、信仰をもって、また良心をもって仕え歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの義が行われ、御心がなされていくようにと、あなたは務めを託され、権威をお与えになります。あなたが変わらずに義が行われることを願っておられることを覚えていくことができますように。わたしたち一人ひとりも、教会も、あなたの権威に従い、御国の栄光のために仕えていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン