聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

はじめてのカテキズム 問い6 その3

2020年5月24日(日)主日礼拝  
聖書:創世記 1:27〜28
   ローマの信徒への手紙 8:19〜23(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。つまり、聖書はどんなことを言っているのかをまとめたものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは先週に続き問い6に記されている内容「どのように愛するのか」について聖書に聞きたいと思います。

 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 カテキズムは、神の子とされるという恵みに対して、愛することがふさわしいと語ります。カテキズムでは、神を愛するのに三つのことを語ります。神を礼拝すること、人を愛すること、そして被造物を大切にすることです。きょうは三番目の神さまがお造りになったものを大切にすることに思いを向けていきましょう。

 この「神さまがお造りになったものを大切にする」ということを、教会では「被造物の保全」という言葉で言われます。一般の社会では「環境問題」という言葉で語られます。
 日本において環境問題の発端となったのは公害であろうかと思います。明治27年(1894年)の河川法には公害という言葉が出てくるそうです。広く意識されるようになったのは1950年代中頃に大きく問題となった水俣病からだろうと思います。これが1970年代に入りますと、オゾンホールによる皮膚癌の心配や温暖化による海面上昇など世界規模で環境問題が論じられるようになり、環境保護環境保全活動が活発になされるようになりました。

 こうした中、キリスト教界でも1970年代になると被造物の保全という言葉で教会の課題として環境問題が取り上げられるようになりました。
 教会がその際意識したのは、神が人を創造された後で言われた創世記 1:28「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」という言葉です。
 「支配する」は強い印象を与える言葉です。ですがこれは神の御心に従って治める・管理するという意味です。聖書に「神の国」という言葉が出てきます。この国という言葉は、支配するという動詞から派生した言葉です。ですから神の国というのは、神が治め給うところという意味です。神は世界をご自身にかたどって造られた人間に神の御心に従って治める務めを託されたのです。

 ですが、それに気づいたのは環境問題が起こってきてからだと思います。それまでは、自然は自分たちが支配していいもの、無限の財産と思ってきたように思います。
 被造物の保全は大切なことに気づかせてくれました。先程引用した創世記 1:28が最初に語られたとき、そして最初に文字として記されたとき、おそらく今日のような被造物の保全などということは意識にありませんでした。中世のアウグスティヌス宗教改革カルヴァンも今日わたしたちが考えるような意味で被造物の保全を考えてはいませんでした。環境問題がなかったからです。長い間意識もされず、神の御心に気づくことがないまま通り過ぎてきても、神の言葉は必要なときにちゃんと語りかけてくださるのです。今、理解できないからと言って神の言葉を「意味はない」と捨ててしまってはいけないのです。必ずその御言葉を必要する後の世代がいることを覚えておかなくてはいけません。

 被造物の保全を考える上で心に留めておきたいのは、ローマ 8:19以下です。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」これを書いたパウロも2000年前の人ですから、現代のような環境問題はありません。一体何を思ってこの言葉を書いたのか不思議ですし、パウロを用いて語られる神の御心の深さを思わずにはいられません。いずれにしても人間の罪のために被造物も苦しんでいるのです。罪は周りを巻き込み、影響を与えます。罪は自分一人の問題ではありません。時に被造物の苦しみは、災害となって現れてきます。被造物に責任があることを気づかされます。
 神は世界をお造りになったとき「良しとされた」と何度も記されています(創世記 1:4, 10, 12, 18, 21, 25, 31)。世界は神の喜びと共に造られました。人はこの神の喜びですべてのものが満たされるために治めるのです。古くからの教会の言い回しに倣えば「御名の栄光が現れるように」世界を治めるのです。

 また被造物の保全は、神が教会の外から問いかけられることを教えます。20世紀は教会の外から二つの大きな問いかけがなされました。一つは共産主義です。
 教会の関心が魂の救い、天国のことが主であった時代に共産主義は大きな衝撃を与えました。このことから解放の神学も生まれるようになり、世界的な教会会議では経済の公平の問題が取り上げられるようになりました。
 もう一つが被造物の保全、環境問題です。
 聖書でも、神がアッシリア新バビロニアを用いて裁きを行い、北イスラエルそして南ユダを滅ぼされたことが記されています。神は教会の外、神の民の外側からも問いかけ、悔い改めを求められるのです。

 被造物の保全については、自然科学との関わりで、教会は相反する二つの非難を受けてきました。一つは、キリスト教会のせいで、特に中世、自然科学の発達は大きく妨げられた。キリスト教会がなければ、今ある問題も100年前に解決していた問題かもしれない、といったような非難がされます。これと反対に自然保護に関わる人たちからは、キリスト教は近代自然科学の発達を後押しし、環境破壊に協力してきたと非難されます。
 ここでこれらの問題を深めることはできませんが、近代、特に20世紀以降、教会は魂の問題、精神の平安といった目に見えない心の問題だけでなく、肉体、経済的な生活、自然環境といった目に見える世界の問題に対しても責任ある態度が求められるようになってきました。そういった状況の中で、教会は神が教会の外の存在を用いて裁かれ、問いかけられたことに気づかされ、また福音が世界に宣べ伝えられていったときに、ローマの社会の中で、具体的な様々な課題を受け止めながら教会を形成し、福音宣教に仕えてきたことに改めて気づかされました。
 そして子どもたちに聖書の教えを伝えるためのカテキズムにも「神さまがお造りになったものを大切にすること」被造物の保全が今や書かれるようになったのです。

 神は創造のときの喜びが、世界に満ちていくように世を治めていってほしいと、人に務めを託されました。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」わたしたちは神が造られたすべてのものと主にある喜びを分かち合うのです。
 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは良かったと整えられた世界にアダムとエバを置いてくださいました。そしてわたしたちにその世界を治める務めを与えてくださいました。どうかこの世界があなたの喜びに満ちた世界へと進んでいけるようにわたしたちを導いてください。あなたがお造りになったすべてのものとあなたの祝福を分かち合うことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン