聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネの黙示録 7:9〜17

2020年11月8日(日)主日礼拝  逝去者記念礼拝
聖書:ヨハネの黙示録 7:9〜17(新共同訳)


 わたしたちは家族を始めとして多くの人々に囲まれ、支えられて生きています。そして、愛する者、親しく交わりを与えられた者たちを神の御許へと送ってきました。
 人はこの世において、必ず死を迎えます。長い人生を終えて死を迎える者、若くして、あるいは幼くして天に召される者、不慮の事故によってこの世の生を終える者、大きな病と戦い安息に入る者、様々な死があります。人生が一人ひとり違っているように、死もまた一人ひとりがそれぞれに与えられた死を受け入れていかねばなりません。
 そして、この世に残される者たちは、死という厳然とした事実の前に立たされます。わたしたちは死を前にして、誰もが厳粛な思いにさせられます。

 聖書は死について何と言っているのでしょうか。聖書は、死は罪の結果起こったことであると言います。そして、聖書が繰り返し語る救いとは、罪からの救いであり、罪の結果である死から永遠の命へと救い出すことです。
 わたしたちは、本来神の姿に似せて造られ、神と共に、神の愛の内に生きることを喜ぶものとして生きていました。しかし、人は神の戒めを自ら破ることにより、命の源である神を離れ、死へと向かって歩みだしました。神の愛の内に生きることを止め、孤独な世界へと踏み込んでしまいました。
 神は、わたしたちを孤独と死から救い出し、永遠の命と神の愛の内に生きることができるようにとイエス キリストによる救いの御業をなしてくださいました。

 神は、キリストを、死を打ち破るものとしてお遣わしくださいました。キリストは人としてこの世にお生まれになり、わたしたちが受けなければならない神の審きをすべてその身に負ってくださいました。そして、十字架の上で命を献げ、葬られ、三日目に死を打ち破り、甦られたのです。キリストは、わたしたちが受けるべき審きはご自身で負われ、ご自身が勝ち取られた復活の命はわたしたちに分け与えようとしておられます。今やわたしたちはキリストを信じ、受け入れることにおいて死から救い出され、永遠の命へと移し換えられているのです。

 さてヨハネは、救いが完成する終わりの日の神の国の幻を見ました。そこでは、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」がいました。神の救いの業が全世界、全人類を包むものであることが示されました。
 彼らは、「白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って」いました。小羊というのは、キリストのことです。そしてなつめやしは勝利のしるし、神の祝福のしるしです。神の民は、死の先に勝利が待っているのです。死を打ち破る神の救いの勝利を祝うのです。
 彼らは大声でこう叫びました。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。そして、それに応えて天使たちが神を礼拝してこう言います。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」

 わたしたちは愛の内に生きる、ここに生きる意味を見いだします。誰からも愛されない、誰も愛することができない人は、生きる喜びも、希望も見いだすことができません。救いとは、わたしたちを真実に愛してくださる神と共に生きることです。
 聖書はこう語ります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:9~10)
 救いは、神の揺るぎなき愛にかかっています。この神の愛を受け、神を愛し人を愛して生きる、ここにわたしたちの救いがあるのです。

 そして、神の愛の内に生きる人生がどこへ行くのかが明らかにされます。長老の一人がヨハネに問いかけます。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネが「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はこう言いました。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」
 罪の世で生きることは大変なことです。そこには喜びや楽しみもありますが、様々な苦難があります。傷つき破れることもしばしばあります。その一人ひとりを救い主キリストは、自らの血をもって清められるのです。傷つき、破れ、ついには倒れてしまう人生で終わるのではなく、神の国に入れられ、神の愛の内に生きていくことができるように、キリストが自らの命をもってわたしたちを罪の世から救い出してくださるのです。

 「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。」
 キリストによって神の国に入れられた者は、常に神と共にあり、神と共に生きるのです。
 「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。」
 神が一人ひとりと共に住んでくださいます。神の家族としてくださり、共にあってくださいます。だから「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない」のです。
 神が共におられるからです。すべての苦難は過ぎ去りました。もはや何の恐れもありません。神のみもとにある者を何ものも傷つけることはできません。
 「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」

 救い主としてこの世に来られたキリストは、最後までわたしたちを導かれます。
 ヨハネは、神の国でキリストの言葉が成就しているその様を見たのです。神の国では、神の愛に満たされ、キリストの恵みに満たされ、渇くことがなくなるのです。そして、神ご自身が涙をことごとくぬぐってくださるのです。わたしたちの痛みも苦しみも神はご存じです。涙を抱えて生きてきたことを神は知っておられます。「わたしの与えた命を全うし、よく帰ってきた。」と言って、神は涙をぬぐってくださるのです。わたしたちのすべてを知り、わたしたちのすべてを受け止めてくださる神が、この世の生の最後にもわたしたちを受け止め、神の国へと迎えてくださるのです。

 初めて日本にキリスト教を伝えたフランシスコ ザビエルが海の見える高台にある寺を訪ねたときのこと、その寺の住職に「あなたは若い日と老いた日といずれを望まれますか」と尋ねました。住職は「それは、活力に満ち、何でもできる若い日に優るものはありません」と答えました。皆さんはいかがでしょうか。
 するとザビエルは、折しも大漁の旗をなびかせながら、黄昏迫る港に戻ってきた漁船を指さして「あの舟の人たちは、荒波にもまれ働いているときと、仕事を終え、愛する者の待つ港にたどり着こうとしているときと、いずれが幸せですか」と尋ねました。皆さんはどちらが幸せだと思われるでしょうか。

 わたしたちは、どうなるか分からない宛てのない旅をしているのではありません。わたしたちの命は、神の祝福によって創られ、キリストが命を懸けて救ってくださいました。そしてキリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)と言われました。わたしたちの人生はいつもキリストが共にいてくださり、導いてくださいます。
 わたしたちは、わたしたちを愛していてくださる神と共に永遠の命の道を歩みます。そしてこの世の生涯が終わると、神の国に招き入れられるのです。神に喜び迎えられ、涙を拭われるのです。
 既に召された兄弟姉妹たちが、神の国で平安の中にあることを思いつつ、わたしたちも主と共に、命の道を、神の国を目指して歩んで行くのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 今生きるわたしたちに対しても、既に召された者たちに対しても、救いの希望を与えてくださることを感謝します。どうかあなたの御言葉を通して、あなたの愛と真実、神の国と永遠の命を仰ぎ見させてください。どうかわたしたちを、あなたが与えてくださる信仰と希望と愛によって歩ませてください。わたしたちを救いの恵みで満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン