聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

創世記 3:1〜24

2019年12月15日(日) 主日礼拝  待降節 第3主日
聖書:創世記 3:1〜24(新共同訳)


 神は愛と祝福とをもって創造の御業を行い、その業を見て「良かった」と言われました。神はご自分にかたどって人を創造されました。神は人をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされました。神は人に、神と共に生きる者として務めを与えられました。そして共に務めを担い、共に生きる者として、女を造られました。

 世界は神の祝福に満ちていました。しかし、ここに罪が入り込んできます。
 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇でした。古代東方世界において、蛇は知恵の神、命の神とあがめられていました。わたしたちは、罪が賢さをきっかけとしていたことに注意しなければなりません。わたしたちはいつも賢さを求めています。失敗したり、損をしたりしないように、知識を求め賢さを求めています。
 わたしたちは賢くあろうとするとき、聖書に「主を畏れることは知恵の初め」(箴言 1:7)と書かれていることを思い出さなければなりません。

 蛇は女に言います。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」蛇は木の実を食べることの是非を問題にします。実は木の実はエデンの園の管理を任された人に与えられた特別なものです。神は創造の第六日にこう言われました。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」(1:29−30)木の実は人に与えられたものでした。

 蛇は、神から特別な務めを与えられている人に神の言葉を破らせたかったのです。管理を任された人が破ることによって、自分もまた神の言葉から自由に振る舞うことを願っていたのです。神からの自由、これが罪が求めるものです。
 賢さの最大の危険は、神よりも賢いと思ってしまうことです。神の言葉に従うよりももっと良い方法があると思ってしまうことです。
 女は蛇に答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」女は「触れてもいけない」などと付け加えてしまいました。神の言葉は削っても、付け加えてもいけません。御言葉に人間の知恵で付け加えたり、この世の常識で薄めていけば、神の言葉は神の言葉でなくなってしまいます。だからわたしたちは神の言葉に丁寧に聴こうとしてきました。教会が牧師の招聘権を所有しているのは、教会は聖書から正しく神の御旨を聞く権利があることを、宗教改革の際に文字どおり命がけで勝ち取ったからです。
 あやふやな信仰につけ込んで蛇は誘惑します。だからわたしたちは神の言葉に聴き続けるのです。何度でも生涯続く限り神の言葉によって、神へと立ち返っていくのです。

 蛇は女に言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」あたかも神が自分の特権を守るために禁じているかのように語ります。賢さはいつも同じように語りかけます。神の言葉の外にはもっと自由で素晴らしい世界が広がっていると。
 神のようになれる、それはとても魅力的な響きです。自分が今よりもずっと素敵な自分になれる気がします。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していました。神の言葉を離れたときに陥る錯覚です。
 女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
 確かに蛇の言うとおり死んでしまうことはありませんでした。目も開きました。善悪を知る者となりました。しかし、想像していたものとは違いました。
 善悪の知識の木の実を食べ、人は善悪を知る者となりました。しかし、一人ひとり違う善悪、互いに違う思いを抱いていることが分かったとき、人は裸の自分、ありのままの自分を見せられなくなりました。あなたとは違う考え、あなたの意見を否定する自分の考えを隠さなくてはならなくなりました。人は自分を隠すためにいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。あまりにも頼りない、しかしその頼りないものにすがらなければならなくなりました。
 違う思い、違う善悪は、不一致をもたらします。そして不一致は孤独と争いへと人を導きます。人とも神とも争い、ただ一人で死へと向かう孤独に陥ってしまいました。この出来事を教会では原罪と呼びます。

 けれど人は一致を求めます。罪を抱えるようになってしまいましたが、人は神にかたどって愛し愛される者、共に生きる者として造られているからです。

 ところで、蛇はなぜ女に語りかけたのでしょうか。助け手である女が相手のためを思って勧めさせ、罪へと導くためです。罪は賢さの中に潜み、それが自分にとっても相手にとっても良いことであることを装って近づいてくるのです。

 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきました。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれます。「どこにいるのか。」
 罪人は、神に自分のすべてが知られることに耐えられません。罪人は神から身を隠そうとします。神が近づいてこられることが恐ろしいことになってしまいました。
 しかし、神はその罪人に呼びかけてくださいます。どこにいるのか知らないのではありません。何が起こったのか分からないのではありません。ご自身のもとに立ち返らせるため、神から隠れ神から逃げようとする罪から救い出すために語りかけてくださるのです。神の呼びかける声に応えるところから救いは始まるのです。

 けれど、神の前に進み出るとき、罪が露わになってきます。
 アダムは答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われます。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われます。「何ということをしたのか。」女は答えました。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

 罪が与えてくれた賢さが教えるのは、罪の責任を回避し転嫁することでした。アダムは女が与えたから食べた。女は蛇がだましたので食べた。女は、神がアダムと共に入るようにしてくださったもの。蛇は、神が造られた野の生き物。彼らの答えは、罪の責任は神にあるということを暗に言っているのです。
 神が女を造られなければ良かったのか。蛇を造らなければ良かったのか。賢さがあることが悪いのか。そもそも食べてはいけないのであれば、善悪の知識の木を園に生えさせたのが間違っていたのではないか。

 食べてはいけない善悪の知識の木を生えさせたのは、自由を与えるためです。自由を与えたのは、人が愛する者であるためです。自由のないところに愛はありません。そして人はただ言うとおりに動くロボットになってしまいます。そして神の御業を喜ぶ感動も失ってしまいます。
 神の御業は良かったのです。人がしなければならなかったのは、神と共にあり、神の言葉に留まること。そして罪を犯してしまったときには悔い改めること。悔い改めるとは、神のもとに立ち返ることです。罪の責任を回避し転嫁するのではなく、人は悔い改めなければならなかったのです。

 神は蛇を断罪されます。主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。/お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
 神は実際に罪を犯した者よりも、罪を犯すように誘惑した者を厳しく裁かれます。わたしたちは罪へと誘惑するのではなく、神と共に生きる道を示し、共に歩むよう励ます者でなければなりません。
 神は蛇の子孫と女の子孫の間に敵意を置かれました。この世にある限り、罪との戦いがあります。罪はいつもわたしたちを傷つけます。しかし、神が罪に勝利するように御業をなされます。だから神と共に歩み、罪と戦うのです。
 そして、人は罪ゆえの苦しみを負わねばならなくなりました。神の祝福に苦しみが伴うようになりました。苦しみと共に罪を覚えなければならなくなりました。
 命を産み出す祝福に苦しみが伴うようになりました。なくてはならない助け手との関係が支配の関係になってしまいました。糧を得るために苦しんで働かなければならなくなりました。祝福に満ちた世界がそうではなくなってしまいました。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ 8:22)

 そして、ついには塵に返ってしまいます。食べてすぐに死ぬということはではありませんでしたが、神が言われたとおり、必ず死ぬこととなってしまいました。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ 5:12)

 主なる神は言われます。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
 この時から人は、不老不死、不老長寿、アンチエイジング、永遠に生きることを求めずにはいられなくなりました。しかし、その道は神により閉ざされています。「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」
 わたしたちは罪を忘れ、死から逃げる道を探すのではなく、悔い改め、神の救いを求める道を歩まねばならないのです。

 主なる神は、罪を犯して裸でいられなくなった人のために、皮の衣を作って着せてくださいました。これは罪人の救いのためにキリストが与えられることを指し示しています。聖書は語ります。「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」(ガラテヤ 3:27)と。

 この出来事ははるか昔の出来事というのではなく、人が繰り返し行ってしまうことです。そのようなわたしたちを救うために、神は礼拝を定めてくださいました。神に呼ばれ招かれて神のもとに立ち返る。神の御前に進み出て悔い改める。神の命の言葉を正しく聴くときを与えられる。神は、わたしたちをご自分のもとに救い導くために礼拝へと招いてくださいました。自分を隠そうとするわたしをご自分の前に導き出すために語りかけてくださっています。神が注ぎ与えてくださる愛と恵みを喜び、神と共に生きるために礼拝を与えられているのです。ただ単に聖書の勉強をし、自分の賢さを増そうとするのではなく、語り掛けられる神の言葉の前に立って神に応答していくとき、わたしたちは神に出会うのです。そのときわたしたちは自分自身のための救いの出来事がこの礼拝においてなされていることを知るのです。
 そして、わたしたちは自らの罪の大きさと神の愛の豊かさを、神がお遣わしくださった救い主イエス キリストにおいて知るのです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ 5:8)
 「恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」(ローマ 5:15)
 「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ 4:25)

 だからわたしたちはクリスマスを待ち望み、喜び祝うのです。イエス キリストにこそ、わたしたちの救いがあり、未来があるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの苦しみ・悲しみの根源にある罪をお教えくださり、ありがとうございます。そしてこの罪からの救いも用意してくださり、感謝します。
 わたしたちにとって、この罪から救われることが必要であることを知ることができますように。わたしたちを造り、愛してくださるあなたの許に救いと希望があることを知り、求めていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン