聖書の言葉を聴きながら

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創世記 2:4〜25

2019年12月11日(水) 祈り会
聖書:創世記 2:4〜25(新共同訳)


 天地創造の由来を記した聖書は、続いて人の創造について詳しく記します。
人の創造について最初に二つのことが言われます。人は土の塵で造られたということと、命の息を吹き入れられたということです。

 土の塵で造られたということは、人は自然に属するもので、それ自体に命はないことを示します。様々な苦難を負ったヨブは「もし神が御自分にのみ、御心を留め、その霊と息吹を御自分に集められるなら、生きとし生けるものは直ちに息絶え、人間も塵に返るだろう」(ヨブ 34:14, 15)と言っています。

 その人に神は命の息を吹き入れ、生きる者とされました。息(ネシャーマー)というヘブライ語は、霊という意味も持っています。
 人は息をすることによって生きたものであることができます。しかし、それは人に限ったことではありません。他の生き物も息をすることによって生きています。ですから、神が人に命の息を吹き入れられたということには、単に命あるものにしたという以上の意味があります。
 この命の息は、人を生きるものにすると共に、人を神と結び合わせ、神との特別な関係を与えるものです。息をすることによって、人は目に見える体と目に見えない心が命で結び合わされ、生きる者となります。同時に、霊を受けることによって、この目に見える世界に生きる人は、目に見えない神と結び合わされ、生物的に生きるだけでなく、神の命に満たされ、神の似姿として人は神と共に生きるのです。

 神は、人の生きる場としてエデンの園を造られました。エデンという言葉は、ヘブライ語で楽しみという意味を持っています。すべてのものを祝福をもって造られ、造ったものを見て「良かった」と言われる神は、生きることが楽しみである場所を整えて、人をそこに置かれました。
 川のことが描かれていますが、神の民イスラエルが生きた乾燥した地方では、川は命を支える恵みの象徴でした。ヨセフスという人が書いた『ユダヤ人古代史』によれば、ピションはガンジス川、ギホンはナイル川を指すと言われています。そしてチグリス川とユーフラテス川。つまり、古代の世界を支えた4つの大河はエデンの園に起源を持ち、生きることが楽しみであるようにという神の祝福に起源を持っていることを表しているのです。

 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされ」ました。神の似姿に造られた人には、神から務めが与えられました。神が造られた世界は、そのままでも「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせ」ていましたが、創造の神にならってその世界を耕し、良いものを得、祝福を生み出す務めが与えられました。そして、世界を神に御心に従って治め、守っていくのです。

 さて、主なる神は人に命じて言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2:16~17、2:9)
 善悪の知識の木ですから、この実を食べると、善悪の知識が身に付くのです。ですが、なぜこの木の実を食べてはいけないのでしょうか。どうして、食べると必ず死んでしまうのでしょうか。普通、善悪を知ること、やっていいことと悪いことを知ること、分別を持つことは大事だと考えられているに、なぜでしょうか。
 ここでよく考えてみなければなりません。自分で善悪を知る者は、神を必要としないのです。それどころか、神は自分に命令してくるじゃまな存在です。神は困ったときにだけ助けに来てくれればいいのです。善悪を知る者は、善も悪も分かっているので、自分で好きに生きていくのです。
 そして、神だけでなく、自分の善悪のとおりに生きることを妨げる他の人間もじゃまになってきます。神に対しても、隣人に対しても、違う善悪でもって争うようになってしまいます。(自分の善悪を通し、思い通りに生きようとします。自分の理屈で説得しようとしたり、社会的な力で、また物理的な力(暴力)で思い通りにしようとします。ついには戦争をして相手を滅ぼして、自分の善悪を通そうとしてしまいます。)
 そして、一人ひとりの善悪が違うから、理解し合うことも困難になってきます。そこに孤独が生じてくるのです。
 人は、結局、罪を犯してしまいます。その次第は3章に出てきます。罪を犯した人が何に気づいたかを「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(3:7)と記しています。ここで告げられていることは、裸では生活できなくなったということではなく、一人一人の善悪が異なったとき人間は裸の自分・ありのままの自分、体も心もそのままの自分を他人に見せられなくなったことを示しています。互いに違う思いを持っていることを見せられなくなったのです。(そして、神からも隠れようとするのです。3:8 以下参照)
 さらに命の源である神から離れ、背を向けて生き始めたことによって死に向かって生きる存在となってしまったのです。
 そこから、分かり合えない、孤独という悲しみ、次に隣人を支配しようとする悲しみ、そして死に向かって生きる悲しみが生まれたのです。

 神は、罪を犯してしまった人を憐れみ、救いの御業をなしてくださいます。救いとは、まさしく罪の悲しみからわたしたちを解放することです。孤独ではなく、共に生きること、支配ではなく、仕え合うこと、死に向かってではなく、永遠の命に向かって生きることを与えようとしてくださっています。
 人は神のかたちに、愛である神のかたちに造られたています。(1:27)ヨハネの手紙一 4:16には「神は愛です」とあります。神は、愛によって結び合わされる関係、共に生きていく関係を、与えてくださったのです。それは 2:18 以下からも分かります。

 2:15 で、神は「人を連れて来てエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされ」ました。耕すという言葉は、仕えると訳すことのできる言葉です。神は人に、神が造られた世界に仕え守るように務めを与えられました。
 そして、主なる神は言われます。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」つまり、世界に仕え世界を守る務めを果たすのには独りではふさわしくないということです。独りでいるとは、周囲との関わりがなく、孤独であることを示しています。

 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられました。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となりました。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けましたが、自分に合う助ける者は見つけることができませんでした。
 動物たちも助けるものです。人は動物たちに名前を付けます。名前は単なる記号ではありません。そのものの本質を示す、あるいはそのものとの関係、そのものへの想いを表すものです。人は名前を付けることを通して、神が造られた世界を支えていく助けるものたちを知り、関係を築いていきました。

 しかし、彼に合う助けるものではありませんでした。合うというのは、神から託された務めを共に担っていくという意味です。
 そこで主なる神は人を深い眠りに落とされました。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれました。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられたのです。
 これは、男と女が一体のものであることを告げています。本来男のあばら骨はもう1本多かったというようなことを示しているわけではありません。
 主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。/これをこそ女(イシャー)と呼ぼう/まさに男(イシュ)から取られたものだから。」
 大いなる喜びを持って男は女を迎えます。神から賜った命、世界を共に生きる者。なくてならない存在。共に神の務めを担う者。そういう存在が与えられました。
 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となるのです。
 愛である神のかたちを築き、創造主なる神の御業に与り命を育むのです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(1:27)「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(1ヨハネ 4:8)という聖書の御言葉が人間において実現するためです。
 神が造られた世界に仕え、世界を守る務めは、神の愛に満たされて、人が愛することにおいて果たされていくのです。

 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしませんでした。これは、罪が無かったことを表します。祝福に満ちた神の御心に満たされ、身も心も隠さなければならないことはなかったのです。
 しかし、今は罪を抱えており、そんな風にはできません。しかし、罪の中でも、夫婦は共に生きる存在として神から与えられた恵みです。ところが今や、夫婦、家族が崩壊してきています。それは、神が与えてくださった関係が失われてきているからではないでしょうか。

 神は罪を犯し、苦しんでいるわたしたちを憐れみ、救うために御業をなしてくださいました。神は、罪の悲しみからわたしたちを救い、罪を赦されて、神の愛に立ち返ることができるように、御子イエス キリストを世にお遣わしになりました。この救い主のもとでこそ、わたしたちは神の愛に生きる新しい命を生きることができるのです。
 だから、わたしたちは神の約束の成就であるキリストの誕生(そして再臨)を待ち望み、クリスマスを喜び祝うのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 罪を抱えてしまったわたしたちに語りかけ続けていてくださることを感謝します。あなたを忘れ、自分の好きに生きていきたいわたしたちに呼びかけ、招いていてくださいます。どうか御言葉を通してあなたの許にある幸い、あなたが差し出してくださる救いに気づくことができるよう導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン