聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマの信徒への手紙 2:6〜11

2019年7月24日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 2:6~11(新共同訳)


 パウロは4節で「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」と言っています。
 悔い改めは、救いに欠かせない大切な事柄です。本来の意味は「立ち帰る」という意味です。神から離れてしまったことに気づいて、神の許に立ち帰る。このままでは滅びに至ることに気づいて、神の許に立ち帰る。これが悔い改めの意味するところです。
 本来、人が犯した罪であって、罪の報いを受けるのは自業自得です。しかし、神の憐れみが神に立ち帰るための道を備えてくださいました。神ご自身が救いの御業を成し遂げてくださり、神に立ち帰る救いの道を用意してくださいました。だからパウロは「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」と言っています。

 この悔い改めにとって、気をつけなければならないのが「侮り」です。
 「神は憐れみに満ちたお方だから、最後は助けてくださるんですよね。だったら、堅苦しく悔い改めとか考えなくてもいいんじゃないですか」というような侮りです。

 そのような間違った考えに陥ることのないように、パウロは「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」と注意しています。
 神は、わたしたちが神を愛して、神と共に生きていけるように、御子イエス キリストを遣わされたので、神を侮って神から離れて生きることをよしとはされません。

 神へと立ち帰るためには、神への正しい畏れを持つ必要があります。
 わたしたちの神に対する思いは、神の愛と真実に対する信頼と、神の正義と公平に対する畏れが必要なのです。それは丁度、子どもが親に対して、自分を愛していてくれることに対する信頼と、悪いことをしたときには厳しくしかられることに対する畏れが必要なのと同じです。そしてわたしたちは、キリストにあって神の子とされた者、主の祈りで祈っているように、神を父と呼ぶ者なのです。つまり、わたしたちは、神の愛と真実に対する信頼と、神の正義と公平に対する畏れを持った神の子とされているのです。

 亡くなられた平田正夫牧師は、アメリカのプリンストン大学で学ばれたことがありますが、そこでヨセフ・ルクル・フロマートカに教えを受けました。その学びの中で、フロマートカは次のように語ったそうです。「信仰には、楕円と同じように2つの焦点がある。一致しない2つの焦点がある。神は唯一であり、3つの位格を持つ。イエス キリストは真に神であり、真に人である。神の国はあなた方のただ中にあり、いつか到来する。片方だけを主張すると、異端になっていく。」
 それと同じように、神の愛と真実に対する信頼と、神の正義と公平に対する畏れはどちらも必要なのです。片方だけだと信仰が歪みます。正しい信仰には、信頼と畏れが伴います。

 神への正しい畏れは、わたしたちを悔い改め、神へと立ち帰ることを促します。パウロはこのことについて二度繰り返して述べています。
 一度目は「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」(7, 8節)と言っています。
 ここで言われているのは、神の御心、教えを重んじ、神からの報いを求める者には、永遠の命が与えられるということ。そして、神と共に歩むよりも、罪に導かれ神の救いの御業を侮る者には、神から怒りと憤りとが与えられるということです。反抗心とは、神に対する反抗であり、神の御心、救いの御業に対する反抗です。

 二度目は「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます」(9, 10節)と言っています。
 ここではどの民族であろうとも、悪を行う者には苦しみと悩みとが与えられ、善を行う者には栄光と誉れと平和とが与えられる、と言っています。つまり、神の公平について語られています。そして11節では「神は人を分け隔てなさいません」と言われています。

 神の公平については、聖書の他の箇所でも述べられています。
 1ペトロ 1:17「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」
 神の公平さ、そして罪をきちんと裁かれることが、わたしたちを悔い改めへ、侮りのない信仰へと促すのです。

 神の裁きは、キリストの十字架がそうであるように、そこから救いが現れてきます。しかし、だからといって裁かれれば大丈夫だなどと考えることは間違いです。神は裁きたがっておられるのではありません。聖書は「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(1ペトロ 3:9)と言っています。
 わたしたちは、法律の抜け穴を探すように「こうしたら、神の教えに従わなくても大丈夫」と考えるのではなく、神と共に歩めるように、神の御心を正しく知ることを求めていくのです。教会でなされる学びは、神の御心を正しく知って、神と共に歩んでいくことを目指す学びです。教会では、神の語りかける声が聞こえてくるように学ぶのです。

 神はわたしたちを救いへ、祝福へと招いておられます。神の許にこそ、わたしたちの救いがあり、喜びがあり、未来があるのです。ヘブライ 3:13にはこう書かれています。「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。」
 現代では、聖書を学ぶ、キリスト教を知るのに教会に来る必要はありません。書籍、テレビやラジオ、インターネットで情報を手に入れることができます。また優れた人ほど、自分の考えに捕らわれてしまうことがあります。
 神は、ご自身の民を起こされ、導いてこられました。神は一人きりの信仰者ではなく、神の民・群れの中で共に救いに与って歩むようにされました。わたしたちには、主ある兄弟姉妹たちの勧め・励ましが必要なのです。だから、わたしたちは共に御言葉に聞き、共に学ぶのです。

 わたしたちは、神の愛と真実への信頼と、正義と公平への正しい畏れを持って、神と共に生きるのです。共に神の言葉を聞き、共に神の言葉に導かれて悔い改め、神の許へと立ち帰り、神と共に生きるのです。そして、神の子とされている幸いを共に確認し、共に喜び讃美しつつ、救いの道を歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちがあなたから離れていってしまわないように、あなたは教え、戒めてくださいます。自分の知恵に溺れてしまわないように、謙虚に心開いて、あなたの御言葉に聞くことができますように。どうかわたしたちをあなたの義へと導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン