聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 23:6〜12

2018年3月4日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 23:6~12(口語訳)

 

 ユダヤ教エルサレムの指導者たち=ユダヤの最高法院の議員たちは、イエスを死刑にするため、ユダヤ属州総督のピラトにローマに対する反逆罪で訴えました。
 しかしピラトは、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」と判断します。
 しかしそれではエルサレムの指導者たちは収まりません。彼らは言いつのります。「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです。」
 彼らはイエスを死刑にしたいのです。当時ユダヤは、ローマ帝国の属州となっていたので、イエスを死刑にするためにはローマ帝国に対する反逆罪としてユダヤ属州総督のピラトに死刑の許可をもらわなくてはなりません。ですから何としてもこのナザレのイエスがローマに反逆する危険人物であると認めさせなくてはなりません。ですから最初の訴えも「この人が国民を惑わし、貢をカイザル(ローマ皇帝)に納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストである、となえている」と、ローマの法に背き、税金を皇帝に納めることを禁じています、ローマ皇帝ではなく、自分が王なのだと言っています。そしてガリラヤからエルサレムまで、全国で教え、ユダヤ独立運動に民衆を扇動している、と訴えるのです。「総督、この男を死刑にしなければ、暴動が起きるかもしれません」と訴えたわけです。
 ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけました。

 ここに出てくるヘロデは、イエスが生まれたときに王であったヘロデ大王と呼ばれる人物の2番目の息子です。兄である長男が王であったとき、大変酷い政治をして、ローマ皇帝により追放され、ユダヤは皇帝直属の総督が派遣されるようになり、領土は他の兄弟たちと四分割してガリラヤとペレヤを治める領主となりました。このときは、過越の祭のためにエルサレムに滞在していたのです。
 ヘロデは送られてきたイエスを見て非常に喜びました。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからです。ヘロデがイエスのことを聞いていたのは、ヘロデがバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)の首を切って殺した後、マルコによる福音書によりますと「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、 ・・ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った」(マルコ 6:14, 16)と記されるようなことがあったからです。そしてついにあのイエスに会えるのかと喜んだのです。

 しかし、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えになりませんでした。
 祭司長たちと律法学者たちはここでも激しい語調でイエスを訴えました。そしてヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえしたのです。
 そして、ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日イエスの扱いを通じて、親しい仲になったというのです。敵視していたというのは、ヘロデは兄が追放された後、自分が王に任命されると期待していましたが、ローマ皇帝の裁定はユダヤを皇帝の直轄地とし、四分割して子どもたちを王ではなく領主にするというものでした。ですから、ヘロデは皇帝から派遣される総督ピラトが気に入りませんでした。それがこの日イエスの扱いを通じて、親しい仲になったというのです。

 イエスエルサレムに来られてから、毎日神殿の境内で教えておられました(ルカ 19:47)。ルカによる福音書は20, 21章には、イエスが教えられた内容が記されています。そして最高法院での裁判、ピラトの前での裁判の場面でも、はっきりと答えられたのに、きょうのところではイエスは何もお答えになりませんでした。
 最高法院で「あなたは神の子なのか」(22:70)と問われたときも、ピラトから「あなたがユダヤ人の王であるか」(23:3)と問われたときも「言うとおりである」(22:70)「そのとおりである」(23:3)とお答えになりました。以前説教した際に申し上げましたが、新共同訳ではそれぞれ「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」(22:70)「それは、あなたが言っていることです」(23:3)と訳しています。これは、わたしたち一人ひとりがイエスを前にして、イエスが何者であるかを判断し、告白するのだということを示しています。今、イエスはわたしたちの答えを待っておられるのです。
 無力な一人の人間として、裁判に引き出されています。今、イザヤが預言したように沈黙してそこに立っておられます。イザヤは言います。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」(イザヤ 53:7)イエス キリストは、神の言葉を体現してここに立っておられます。
 イエスは人々が期待する格好いい姿をしてはいません。しかし、何百年も前から預言者が語っていたとおりの姿で、人々の罪を負い、神に裁かれる者として神の言葉を体現してイエスは立っておられます。神の言葉が真実であることを身をもって示しておられます。
 今も、事あるごとにたくさんのコメンテーターと呼ばれる人たちがかまびすしく語ります。そしてインターネットの世界では、匿名でたくさんの人がいろいろと批評し、ときに罵詈雑言がネットの世界を埋め尽くすかのように語られます。しかし問題は、わたしたち自身が神の御前で、どのように応え、どう生きていくかなのです。つまり神ご自身は、自らの言葉を真実なものとなさり、ひとり子イエス キリストを救い主として世に遣わされました。イエスは今、わたしたちの罪を負って、神に裁かれる者として十字架の道を進んでおられます。このイエス キリストに対して、わたしたちはどう言うのか。わたしたちはこのイエスをどのように扱い、どのように生きていくのか。そのことが問いかけられ、その答えをイエスは黙して待っておられます。
 イエスは今、ご自身の命をかけてわたしたちの前に立っておられます。わたしたちはこのイエスを前にして何と応えるのでしょうか。

ハレルヤ