聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 20:1〜18

2017年4月16日(日)復活節主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書 20:1〜18(口語訳)

 

 イエスが十字架で命を献げられたのが金曜日。土曜日は安息日だったので、日没安息日が始まる前にイエスは埋葬されました。ユダヤでは日没から一日が始まるとされていました。アリマタヤのヨセフが、イエスの遺体の引き取りを願い出、ニコデモが没薬と沈香を混ぜたものを用意し、遺体を香料を入れた亜麻布で巻き、新しい墓に葬りました。
 そして安息日が明けた週の初めの日、つまり日曜日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓へやってきました。

 マグダラのマリヤ、ヨハネによる福音書には名前が出てくるだけで、彼女がどんな人なのか分かりません。もしかしたら、この福音書を編纂したヨハネとその周囲では、よく知られた人で説明の必要がなかったのかもしれません。しかしルカによる福音書には、彼女は7つの悪霊をイエスに追い出してもらい(ルカ 8:2)イエスに従ったと書かれています。
 彼女は朝早くに一人イエスの墓へやってきました。すると、墓の入り口をふさぐ石が取りのけられていました。マリヤはふさいであるはずの石が取りのけられているのを見て慌てたのでしょう。急いでペテロともう一人の弟子、名前が書かれていないイエスが愛しておられた弟子のところへ走りました。
 「誰かが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、分かりません」

 ペテロともうひとりの弟子は急いで墓へと向かいました。もうひとりの弟子の方が、ペテロよりも先に墓に着きました。そして身をかがめてみると、遺体を包んでいた亜麻布がそこに置いてあるのを見ました。しかし、中へは入りませんでした。後から来たペテロは、墓の中に入りました。彼も亜麻布がそこに置いてあるのを見ましたが、イエスの頭に巻いてあった布は離れた場所にくるめてありました。もうひとりの弟子も入ってきて、これを見てイエスの遺体が墓にはないことを理解しました。しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことを告げたイエスの言葉を、まだ悟ることはできませんでした。イエスは、十字架におかかりになる前に何度か、自分が十字架にかけられること、しかし復活することをお語りになっていました。しかし弟子たちは、師と仰ぐイエスの言葉を信じることも、悟ることもできませんでした。

 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行きました。しかし、マリヤは悲しくて墓の外に立って泣いていました。イエスが死んでしまった今、イエスが葬られた墓に来るしか彼女にできることはないのに、その墓にさえイエスの体はないのです。
 彼女は泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使いが、イエスの死体の置かれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっていました。彼らはマリヤに「女よ、なぜ泣いているのか」と尋ねます。御使い、つまり天使はマリヤが泣いている理由が分からないのではありません。彼女を復活のイエスに出会わせるための先触れとして、天使たちは遣わされたのです。
 マリヤは答えます。「誰かが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか分からないのです」。そう言って、後ろを振り向くと、そこにはイエスが立っておられました。しかし、マリヤはイエスであることが分かりませんでした。イエスはマリヤに言われます。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言います。「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。わたしがその方を引き取ります」。マリヤも復活を信じることはできずにいました。
 イエスは「マリヤよ」と呼びかけられます。マリヤは振り返り、イエスに「ラボニ」と答えます。それはヘブル語で「わたしの先生」という言葉です。ヨハネによる福音書ギリシャ語で書かれていますが、ヨハネはここはそのままの言葉を伝えたいと考えたのでしょう。

 自分の目で見ても、マリヤは復活のイエスが分かりませんでした。これは、ルカによる福音書に書かれているエマオへと向かう二人の弟子たちもそうでした。肉の目で見ても、イエスの復活が分かるのではありません。気づかせて頂かなくては理解することも信じることもできないのです。
 イエスに名を呼ばれたとき、マリヤは目覚めさせられました。死の世界の中にイエスを捜し求めていたマリヤは目覚めさせられ、復活のイエスに出会ったのです。

 わたしたちは、呼びかけられることによって共に生きる関係へと導かれます。
 母の胎に命が宿ったことが分かったときから、わたしたちは呼びかけ語りかけます。声が聞こえているかどうか分からない。言葉を理解できないかもしれない。それでも、わたしたちは命に向かって呼びかけ語りかけます。元気に生まれてくるように、愛をもって祝福をもって語りかけ呼びかけます。
 そして、生まれてきた子どもは「〇〇くん/〇〇ちゃん、一緒に遊ぼう」と呼びかけられて交わりに招き入れられます。
 わたしたちは名を呼ばれることによって、共に生きる関係に招かれ導かれていくのです。
 イザヤ書 43:1にこう書かれています。「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主は今こう言われる。『恐れるな、わたしはあなたを贖った。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」
 イエスがマリヤの名を呼んで、復活の救いへと招かれたように、神は今も、わたしたち一人ひとりの名を呼んでおられます。罪の世に心囚われて悲しみ続けることのないように、神の救いの恵みに与るようにと、神はわたしたちの名を呼んでおられます。

 イエスは彼女に言われます。「わたしに触ってはいけない。わたしは、まだ父の御許に上っていないのだから。ただわたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられる方の御許へ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
 イエスが十字架によって罪を贖い、復活によって死を打ち破られた今、この世にあってイエスにしがみつくのではありません。
 聖書は「わたしたちは今後、誰をも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい」(2コリント 5:16)と言っています。
 讃美歌21には「心を高くあげよ!」という讃美歌があります。その1節の歌詞は「『心を高くあげよ!』主の御声に従い、ただ主のみを見上げて、心を高く上げよう」とあります。
 わたしたちは、イエスの救いの御業の中で、新しい命、新しい関係、新しい世界に生きるのです。罪の世に属するものを脱ぎ捨てて、復活の主の恵みに包まれて生きるのです。

 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行き、復活の主に出会ったこと、またイエスが自分に仰せになったことを報告しました。

 こうして、イエスを信じる弟子たちによって、イエス キリストの福音が宣べ伝えられるようになりました。そして今、わたしたちもキリストの福音を宣べ伝えています。神が創られ愛しておられるすべての人が救われて、新しい命、新しい関係、新しい世界に生きることを願って宣べ伝えているのです。ここに集う皆さん一人ひとりにイエス キリストの復活の恵み、そして復活の命が限りなく注がれますように。

ハレルヤ