聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖句で辿る聖書 108

レビ記
19章 33~34節(聖書協会共同訳)


 もしあなたがたの地で,寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった。私は主、あなたがたの神である。


 わたしたちは皆、寄留者である。「私たちの国籍は天にあります」(フィリピ 3:20)と言われ、「あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのです」(1ペトロ 2:11)と言われている。
 よく「古来この土地はわが国の領土である」という言葉を聞くが、愚かなことである。すべては造られた神のものであり、わたしたちは寄留者なのである。だから寄留者に対しても「自分のように愛する」ことが求められている。


ハレルヤ

 

はじめてのカテキズム 問い6 その2

2020年5月17日(日)主日礼拝  
聖書:マタイによる福音書 22:36〜40
   ヨハネの手紙一 4:19〜21(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは先週に続き問い6に記されている内容「どのように愛するのか」について聖書に聞きたいと思います。

 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 カテキズムは、神の子とされるという恵みに対して、愛することがふさわしいと語ります。カテキズムでは、神を愛するのに三つのことを語ります。神を礼拝すること、人を愛すること、そして被造物を大切にすることです。きょうは二番目の人を愛することに思いを向けていきましょう。

 おそらく教会のメッセージで一番印象に残るのが「愛」ではないかと思います。わたしが愛という言葉を意識したのは、中学生の時にテレビ局が「愛は地球を救う」をキャッチフレーズにチャリティー番組を始めたときだったと思います。まだ愛という言葉もよく分かっていませんでしたが、地球を包むような大きさを愛という言葉に感じました。
 愛という言葉にはいいイメージがあり、ラブソングの歌詞を見ると憧れを感じます。しかし聖書を読むと、愛に恐れを感じ、尻込みしてしまうことさえあります。
 きょう読みましたマタイ 22:39「隣人を自分のように愛しなさい」は有名ですが、聖書にはこういった言葉もあります。ルカ 6:35「あなたがたは敵を愛しなさい。」初めて読んだとき、わたしの頭は疑問符で一杯になりました。「敵を愛するって何?」

 聖書はこう語ります。1ヨハネ 4:10「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」だからわたしは神がわたしたちを愛されたというのはどういうことかを聖書から聞こうとしました。聖書は、イエス キリストを遣わしたところに愛があると言う訳です。神は罪によって失われたわたしたちを取り戻し、共に生きるためにキリストを遣わされたのです。ですから、神がイエス キリストを通して示されている愛は「共に生きようとする思い」「共に生きようとする意思」なのだと理解しました。

 わたしたち人間にとっては「意思」であることが大切です。「あなたがたは敵を愛しなさい」と言われたときにわたしたちは「敵を好きになりなさい」と言われていると解釈しがちです。しかし「好き・嫌い」は感情です。神が言われているのは「敵を好きになりなさい」ではなく、「敵を愛しなさい」なのです。
 例えば、世界には紛争や飢餓、疫病で死にされされている人たちが大勢います。顔も名前も知らないその人たちが好きかと問われれば、分かりませんとしか言いようがありません。けれど、その顔も名前も知らない人たちが自分とは関係がないから苦しんでも死んでもかまわないとは考えません。そこには今この時この地球で生きている人たちに対する人類愛があるのです。共に生きようという思いがあるのです。ですから執り成しの祈りでは「争いの中で命脅かされている人々、病や飢え、災害に苦しむ人々、差別や迫害に遭っている人々、そして生きる希望を持てずに苦しんでいる人々に、助けの御手を差し伸べてください」と祈ります。

 人を愛することの根柢にあるのは、神がその人を愛しておられるという事実です。1ヨハネ 4:9「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」神の愛は、わたしたちが生きることを願います。罪によって死に至るのではなく、神と共に生きることを願います。そして1テモテ 2:4「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」神の願い、救われて神と共に生きるということはすべての人に向けられているのです。
 だから神の愛に応えて、神を愛していくときにも、神と同じように愛することを共有するのです。わたしたちも神と「共に生きよう」と願い、神の御心、御業を「大切に」していくことが、神を愛することなのです。ですからカテキズムは「どのようにして神を愛するのか」という問いの答えに「人を愛する」ことを入れているのです。

 ただ気をつけなければいけないことがあります。愛という言葉はうるわしい言葉です。「神は愛です」(1ヨハネ 4:16)と聖書にあるように、愛は神ご自身を表す特別な言葉です。それだけにわたしたち罪人は愛さえも律法的に用いてしまうことがあります。特にまじめな信仰者ほど「愛せない」「愛することができない」と自分を裁いてしまいます。
 ここはよく確認しておかなくてはなりません。他の律法同様、わたしたち罪人は愛することができないのです。他の律法は守れなくても、信仰を持ったら御心にふさわしく愛せるようになるなどということはありません。愛することもまた神の赦しの中で、欠けだらけの愛であっても祈りつつ愛していくのです。神のご性質を表す愛だからこそ、祈り神に委ねて清め用いて頂かなければならないのです。

 イエスは「どの掟が最も重要か」(マタイ 22:36)と問われたとき、二つの戒めを挙げて、神を愛することと、人を愛することが神の戒めの求めていることであることを明らかにされました。その人を愛する戒めが「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ 22:39)です。ここでは自分と隣人が愛する対象として示されています。
 神は、愛せない罪を抱えている自分を受け入れ、つまり自らをも愛して生きることを示されます。神が愛せないわたしを赦し、受け入れ、愛してくださるからです。そして自分に必要な神の愛が、他者にも必要なものであり、その愛に与らせるためにキリストがその人のためにも十字架を負われ、復活されたことを信じて、不十分な愛であっても共に生きるのです。

 わたしたちキリスト者は、すべての人が神に赦され、受け入れられ、愛されることが必要であることを知っておかねばなりません。人は、神の愛に包まれ、支えられ、導かれてこそ生きていけるのです。ですから、人を愛する、隣人を愛するということも、自分がどれだけ愛せているのかに思いを向けるのではなく、自分の愛を評価し測ろうとするのではなく、神が御子イエスを与えてくださるほどにこのわたしを愛していてくださることにこそ第一に思いを向けていくのです。神の愛に包まれ、導かれるその先に、神に出会いを与えられた人を愛することが現れてくるのです。
 愛することにおいても、神が祝し用いてくださることを信じて愛していくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちを、愛であるあなたにかたどって愛される者、愛する者としてお造りくださいました。そこには、あなたの愛を受けて歩み続ける恵みがあります。しかし罪ゆえに、わたしたちは愛においても苦しんでいます。どうか信仰を整え、あなたが惜しみなく注いでくださる愛で満たしてください。あなたの愛に導かれて、愛する者として歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

聖書通読のために 92

マタイによる福音書 10章 37節(聖書協会共同訳)


 神学校に行って牧師になると決めたとき、父から「勘当だ」と言われた。それで縁が切れた訳ではないが、考えが違うというだけでなく、自分はイエスに従っていくこと、つまり父よりも従うべき方がいるということが怒りを増したように思う。

 愛するとは共に生きること。どのような状況でも、イエスと共にあり、従うことが求められている。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句による黙想 51

エレミヤ書 31章 1, 3節(聖書協会共同訳)


 その時には、私はイスラエルの全氏族の神となり、彼らは私の民となる――主の仰せ。・・
 私はとこしえの愛をもってあなたを愛し/慈しみを注いだ。


 神の御業の目的は、わたしたちの神となること。罪ゆえに神を失ってしまったわたしたちを罪から救い、わたしたちの神となること。
 そして神は、とこしえの愛をもって愛してくださる。


ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 107

レビ記
19章 31節(聖書協会共同訳)


霊媒や口寄せのもとに赴いてはならない。伺いを立てて汚れてはならない。私は主、あなたがたの神である。


 多くの雑誌、新聞に占いのコーナーがある。人は未来を知ることができない。自分がどんな未来に向かっているのかも分からない。分からないけれども、幸せに向かいたい、幸せを招き寄せたいと願っている。そのために占いに耳を傾ける。
 聖書は、人を造り、その人生を導き、救いに至らせるのは主なる神であると語る。「あなたの道を主に任せよ。/主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩編 37:5)「主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。」(詩編 37:23 新共同訳)
 だから聖書は、占いではなく神に依り頼むようにと語りかける。


ハレルヤ