聖書の言葉を聴きながら

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はじめてのカテキズム 問い6 その1

2020年5月10日(日)主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:23
   ヘブライ人への手紙 9:14
   ヨハネの黙示録 14:6〜7(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは問い6に記されている内容「どのように愛するのか」について聖書に聞きたいと思います。

 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 カテキズムは、神の子とされるという恵みに対して、愛することがふさわしいと語ります。では、どのようにして神を愛したらよいのでしょうか。それに答えるのが問い6です。
 カテキズムでは、神を愛するのに三つのことを語ります。神を礼拝すること、人を愛すること、被造物を大切にすることです。きょうは最初の神を礼拝することに思いを向けていきましょう。

 神を愛することは、神を礼拝することであると言われますが、礼拝とは何でしょうか。それは、神との交わりです。
 礼拝は教会によって多少の違いはありますが、基本二つの要素から成り立ちます。一つは、神の語りかけです。もう一つが、わたしたちの応答です。わたしたちの教会では、神の語りかけは大きく三つあります。招きの言葉と説教と祝福です。それに対してわたしたちの応答は、祈り、讃美、告白、献金によってなされます。
 この礼拝によって、わたしたちは神と出会い、神を知り、信じて生きるのです。神の語りかけの御声を聞き、それに応答することによって神との交わりに生きるのです。
 神はわたしたちと共に生きることを願っておられます。だから神はわたしたちを礼拝へと導かれます。イエスは言われます。ヨハネ 4:23「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」

 礼拝は来れば誰でも参加することができます。簡単に参加することができます。しかし神が与えてくださった礼拝は、わたしたちを神の愛の深みへと導く限りないものです。
 「霊と真理をもって父を礼拝する」と言われます。
 霊の働きは、結びつける働きです。聖霊はわたしたちをイエス キリストと結び合わせ、キリストの救いに与らせてくださいます。神との絆を造り出してくださいます。
 真理とは、イエス キリストのことです。イエスは言われました。ヨハネ 14:6「わたしは道であり、真理であり、命である。」イエス キリストこそ神を正しく知る真理なのです。
 つまり「霊と真理」とは「聖霊とイエス キリスト」なのです。ですから聖霊とイエス キリストによって父なる神を礼拝する。この父・子・聖霊なる神の交わりのただ中で礼拝することこそ「まことの礼拝」なのです。神は父・子・聖霊のすべてをもってわたしたちを包み、共に生きてくださいます。ここに愛が、共に生きようという思いの根本があるのです。

 そして信仰生活の始めに与えられる礼拝こそ、救いの完成の時にも与えられるものです。黙示録 14:6~7「天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」救いは礼拝から始まり、礼拝へと至ります。わたしたちは礼拝により神と共に生きるのです。

 ですから教会は、教会へと導かれた一人ひとりが礼拝をよく味わうことができるように、信仰へと導かれた一人ひとりが神と共に歩むことを喜べるように、訓練、トレーニングをするのです。日本キリスト教会信仰の告白も「教会は・・信徒を訓練し・・主が来られるのを待ち望みます」と告白しています。
 ですから教会は、神が語りかけられることを正しく理解できるように御言葉を聞く訓練をします。語りかけてくださった神に応答できるように祈りの訓練、告白の訓練をします。主を誉め讃えつつ救いの道を歩めるように讃美の訓練をします。共に主に従って歩めるように、主に向かって開かれた交わりを形成する訓練をします。

 スポーツでも習い事でも、できるようになるために指導を受けます。ところが信仰の場合、時に「わたしの好きなように、信じたいように信じたい」となることがあります。キリストを信じてなお「わたしの好きなように」という罪が入り込んできます。罪はわたしたちが思うよりもずっと根深いものです。
 だからこそ神は、イエスが罪に勝利して復活された日曜日ごとに礼拝へと招き続けてくださるのです。救いの始まりであり完成である礼拝がわたしたちには必要なのです。この恵みに与ってこそ、わたしたちは神を愛し、神と共に歩めるようにされていくのです。
 イエス キリストの御業もわたしたちを礼拝する者へと導くためのものでした。ヘブライ 9:14「永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」

 わたしたちは神が創造してくださったので存在します。神が創造したいと願わないところで頑張って努力して生まれてきたのではありません。救いも同じです。イエス キリストも、礼拝も、聖書も、祈りも、讃美も、教会も、神が備えてくださったものです。わたしたちが努力して手に入れたものではありません。わたしたちは神が与えてくださった礼拝という恵みの中で、恵みから恵みへ、信仰から信仰へと導かれ、神を愛する者へと変えられていくのです。

 だからカテキズムは語ります。問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 人を愛することと、被造物を大切にすることについては次回聞いていきましょう。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに礼拝の恵みを与えてくださっていますことを感謝します。どうかこの恵みに立って、あなたと共に喜んで歩むことができますように。あなたにある喜びが多くの人の魂に届きますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

聖書通読のために 91

マタイによる福音書 10章 34~36節(聖書協会共同訳)


 イエスに従うと、敵対が生じる。イエスに従うことを良としない罪が現れてくるからである。
 罪は神ではないものに力を与える。神を中心に、共に神に従うのではなく、自分を中心に自分に従うことを求める。何もない時にはイエスに従っていても構わないが、自分に従うべきだと思っている時に従わないことを許さない。批判することさえ非難される。しばしば「非国民」「反日」といったレッテルが貼られ、存在そのものが悪とされてしまう。
 しかし神以外のものは、ひとり子を遣わしてまで自ら痛みを負い、わたしたちを救い愛することはない。神の救いの御業、イエス キリストが神とそうではないものを区別する。救いは神にのみある。だから神に、イエス キリストに従うのである。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句による黙想 50

レビ記 26章 12節(聖書協会共同訳)


 あなたがたの間を巡って、あなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる。


 本来神は何にも縛られない自由なお方。けれど神はわたしたちの救いのために約束をし、わたしたちの神となってくださる。
 聖書は旧約と新約からなるが、これはキリスト以前の古い契約(約束)とキリスト以後の新しい契約(約束)。
 わたしたちは繰り返し罪を犯すが、神の真実な約束に支えられて、神へと立ち帰り、神と共に生きる。


ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 106

レビ記
19章 18節(聖書協会共同訳)


隣人を自分のように愛しなさい。
 私は主である。


 イエスが「どの戒めが最も重要か」(マタイ 22:34~40, マルコ 12:28~31)と問われた時に答えた二つの戒めの第二のもの。
 様々な戒めが列挙されている中に(ひっそりと?)書かれている。これが数ある隣人に対する戒めの中で最も重要なもの。
 聖書は、神と自分と隣人を愛するように教えている。


ハレルヤ

 

はじめてのカテキズム 問い5

2020年5月3日(日)主日礼拝  
聖書:申命記 6:4〜5
   詩編 22:5〜6(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは問い5に記されている内容、感謝について聖書に聞きたいと思います。

 問い5「この愛の贈り物に対してどのように神さまに感謝するのですか。」「わたしが心から神さまを愛し、神さまに信頼することを約束することによってです。」
 カテキズムは「わたしたちは神の子である」と語り、「神の子とされたのは恵みつまり神の自由な愛の贈り物による」と述べました。それを受けて問い5では「この愛の贈り物に対してどのように神さまに感謝するのですか」と問うています。

 感謝が大事なのは、それが恵みに対する応答だからです。そして応答が大事なのは、応答は関係を作る働きをするからです。例えば、挨拶された時、話しかけられた時、応答することによって相手との関係が作られていきます。話しかけられる、返事をする。恵みを与えられる、感謝する。この応答が関係を作り始めます。そしてこの関係は繰り返されることにより深められていきます。
 さらに言うならば、関係が繰り返され、循環していくと、そこに命が生まれます。生物としてもこの循環は大切です。息を吸って吐く。血液が循環する。血液の循環で、酸素が運ばれ、二酸化炭素が排出される。食べて吸収され、排泄される。これらのどの循環が途絶えても命が失われてしまいます。
 そして、話しかけられなくなる、話しかけても無視されるようになっても、命は失われていきます。わたしたちの命は生物的な命だけでなく、関係の中にも命が存在し、わたしたちの命の根源は、神との関係の中にあるのです。

 そして神との関係を築いていくのが、感謝の応答なのです。それは恵みには感謝がふさわしいからです。
 わたしたちは恵みに対して恩返しをするのではありません。受けた恩を返して貸し借りなしの関係になるのではありません。例えば、子どもが親に育ててもらった恩を返し、貸し借りなしになることによって親子にふさわしい関係になるわけではありません。「恵みには感謝がふさわしい」のです。

 では神の恵み、愛の贈り物にどう感謝すればよいのでしょうか。カテキズムは「わたしが心から神さまを愛し、神さまに信頼することを約束することによってです」と教えています。

 まず始めに「約束する」ことについて考えましょう。「約束する」とはどういうことでしょうか。
 罪人であるわたしたちは完全に愛することも、完全に信頼することもできません。そんなわたしたちに対して、神は自ら約束するものとなってくださいました。
 本来神は何にも縛られない自由なお方です。けれど神はわたしたちの救いのために自らを約束の下に置いてくださるのです。「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(創世記 17:7)と神はわたしたちに約束をしてくださいます。
 それは信仰によって神とつながり、関係を与えられたわたしたちのためなのです。約束はまさに、完全に愛せない、完全に信頼できない罪人のためのものです。できないからあきらめてしまう、できないから捨ててしまうのではなく、何度でもそこへと立ち戻るために約束の中に置いてくださるのです。神の真実な約束に支えられて、神の約束に応答する者として約束の中にいることへと招かれているのです。そのようにして罪を抱えながらも、赦しの恵みの中で、神と共に生きられるようにされているのです。
 その神の大きな救いの御業の中で、わたしたちは恵みに感謝して生きる者とされたのです。そして救いの神に応答するふさわしい感謝が「心から神さまを愛し、神さまに信頼することを約束すること」なのです。

 「愛する」とは「共に生きようとする」ことです。共に生きる関係のあるところ、必ず「愛」が必要になります。夫婦、親子、友人、隣人、郷土や国、そして人類。いずれにもそれにふさわしい愛が必要です。それは、愛である神が(1ヨハネ4:16)創造されたからです。そして、その神にかたどってわたしたちは造られました(創世記 1:27)。愛である神にかたどって、愛する者・愛される者として造られました。だから神はこう言われます。申命記 6:5「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
 イエスも「どの戒めが最も重要か」(マタイ 22:34~40)と問われた時に二つの戒めを答えられましたが、「これが最も重要な第一の掟である」と言われたのがこの申命記の戒めです。
 わたしたちを愛して、救いの御業をなし、恵みを与えてくださる神への感謝は、愛することがふさわしいのです。

 次に「信頼する」とは「依り頼むこと」です。わたしたちを神の子としてくださるほどに愛してくださる神を知って、神にこそ依り頼むのです。幼子が親を信頼するように依り頼むのです。
 旧約の詩人は、神を誉め讃えてこう詠います。詩編 22:5~6「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。/助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」
 人は信頼するものが何もなければ生きていくことができません。家族も友達も自分も信頼できない。社会も国も信頼できない。信じられるものなど何もないとなったら、人は生きてはいけません。だから神は、ご自身が信じられるものとなって、わたしたちと共に歩んでくださるのです。だからわたしたちは、神の真実に応答して神を信じて生きるのです。

 ですから「愛する」ことも「信頼する」ことも、神の恵みから生じるものであり、恵みにふさわしい生き方なのです。
 カテキズムは、神を知った者が恵みの内に生きていけるようにこう語ります。
 問い5「この愛の贈り物に対してどのように神さまに感謝するのですか。」「わたしが心から神さまを愛し、神さまに信頼することを約束することによってです。」


ハレルヤ


父なる神さま
 弱く罪深いわたしたちをあなたの約束の中に置いてくださり、何度でもあなたへと立ち帰れるようにしてくださったことを感謝します。あなたの約束に支えられて、あなたを愛し、信じて生きるあなたの子としてください。神の子とされた恵みを心新たに味わいつつ歩み行く者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン