聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 10:9〜13

2020年2月23日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 10:9~13(新共同訳)


 神はわたしたちを罪から救いたいと願っておられます。罪を犯したため、神と共に歩めず、死に囚われてしまったわたしたちを、死から解放し、神と共に歩めるようにしようと願っておられます。

 神は救いのためにご自身の御子、イエス キリストを遣わしてくださいました。罪の支配からわたしたちを解放し、イエスご自身がわたしたちの主となるために救いの御業を成し遂げてくださいました。ご自身の命を代価としてわたしたちの主となってくださいました。日本キリスト教会信仰の告白も冒頭から「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」と、イエス キリストがわたしたちの主であってくださることを告白しています。

 このイエス キリストこそわたしの主であってくださる。わたしは主のものとされている。わたしのすべてはイエス キリストと結び合わされている。わたしはキリストにあって神の民、神の子とされている。これがわたしたちの救いの核心の部分です。

 この救いに与らせ、神の民として新しく生きさせるために、神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えに」(1コリント 1:21)なりました。宣教を通してイエス キリストに出会い、イエス キリストが救い主であることを知るように、信じるように導かれたのです。

 そしてきょうの箇所です。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(9節)。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(10節)
 9節で語ったことを10節で、更に簡潔に、神はこのようにして救われるのだと確認するように語ります。9節でも10節でも「公に言い表し」と「信じる」と言われます。
 「公に言い表し」は他の訳では「告白する」と訳されます。信じることと告白することが一つとなって語られます。神は、救いの御業を信じて、神の愛と恵みを受けつつ神と共に生きることを願っておられます。神との間に「信じる」という関係が築かれることを望んでおられます。そして、神にかたどられた者として言葉が出来事と成るように、神が「光あれ」と言われたときに「光」が現れたように、信仰を告白したときに、救いが出来事として現れるようにしてくださったのです。神の救いの業の中で、言葉が救いを生み出すようにしてくださったのです。

 神がこのようにしてくださったので、わたしたちの教会は告白を重んじます。
 告白するという言葉は「ホモロゲオー」というギリシャ語で「同じ言葉を語る」という意味です。神が成してくださった救いの業に対して「神はイエスを死者の中から復活させられた。こうしてイエスはわたしの主となってくださった」と一つの告白するのです。この一つの告白、同じ言葉によって、神と結び合わされ、わたしたちも一つに結び合わされるのです。
 わたしたちの信仰は一人ひとり違います。けれど救いの御業の前で、同じ信仰告白の言葉が共有されるのです。礼拝において、聖書の解き明かしに対して「アーメン(その通りです。真実です)」と同じ言葉で応答し、日本キリスト教会信仰の告白、あるいは使徒信条を共に告白することで神に応答します。神の救いの出来事が、性格も考え方も違うわたしたちに同じ言葉を与え、救いへと招き入れてくださるのです。神が、信じることを造り出してくださり、救いの御業が救いを生み出す言葉を与えてくださるのです。

 ここで気をつけて頂きたいのは、聖書は洗礼を受けたら救われるとは言いません。わたしたちは洗礼という儀式を受けることによって救われるのではありません。洗礼、そして聖晩餐は、救いを指し示すものです。救いを信じるために与えられたしるしです。しかし、救いそのものではありません。聖礼典という儀式によって救われるのではありません。わたしたちはイエス キリストによって救われるのです。イエス キリストこそが救いなのです。
 神は、救いの御業を通して、イエス キリストが救い主であると信じる、神の愛を信じるという信じる関係を造り出してくださいました。そして信じたことを告白し、言葉が出来事となるという神にならう神の民、神の子としてくださったのです。
 神は「信じる」ことと「告白」を通して、神ご自身、神の救いの御業と一つに結び合わせてくださったのです。

 ここでパウロイザヤ書を引用します。「主を信じる者は、だれも失望することがない。」(イザヤ 28:16)なぜパウロはこの言葉を引用したのでしょうか。それは、どうしても人は目に見える確かさを求めてしまうからです。割礼であったり、お守りであったり、洗礼も含めた儀式など、目に見える確かさです。
 救いの確かさ、根拠は、わたしたちの側にあるのではありません。「洗礼を受けたときよりも、信仰がさめてきているから、洗礼を受けたときほど救われていないと思う」ということではないのです。救いは神の真実によるのです。
 救いは、人間の側に確信を求めようとすると、律法主義になっていきます。人間の業で救いを測ろうとしてしまいます。9〜11章はイスラエルの救いについて書いているので、律法主義的な信仰の中で育ってきた人たちに対して語っています。神の側に救いの確かさがあり、神は真実なお方です。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブライ 13:8)真実な救い主です。だから神を信じるのです、神を信じて大丈夫なのです、と伝えたいのです。だから旧約の預言者の言葉を引用して「あなた方もそう聞いてきたではないか」とパウロは言うのです。

 ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、日本人であれ、信じている人も信じていない人も、すべての命は神が造られたもの。「すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みに」(12節)なるのです。

 救いについて、罪人は人間の論理でいろいろなことを言いますが、救いは神の側にある事柄です。ですから、神の御心、神の御業から聞いていかねばなりません。そこでパウロは最後にもう一度旧約(ヨエル 3:5)を引用して語ります。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(13節)のです。

 神は、救いを求める者に、信じることを与え、告白によって神に応答する者としてくださいます。神は、救いを求める者に、共に生きることのできる恵みを与えてくださいます。「主の名を呼び求める者はだれでも」神が救ってくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたご自身が、信じることができる存在となってくださったことを感謝します。どうかあなたご自身に支えられて救いの道を歩ませてください。あなたとの交わりを喜び楽しむことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 6:12〜14

2020年2月19日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:12〜14(新共同訳)


 パウロは、「キリストを信じることを通して与えられる神の義によって救われる」(3:21~)ということを丁寧に語ってきました。キリスト以外のものに望みを置かず、自分を誇ることがないように、救いについて語ってきました。

 ところが、パウロが「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(5:20)と語るに至って、では「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)という批判が投げかけられました。「あなたが言っていることはおかしいだろう」と言うのです。

 それに対してパウロは「決してそうではない」(6:2)と、さらに洗礼が示す救いの恵みを明らかにします。
 救いは、キリストと一つにされることです。特に、その十字架の死と復活に結び合わされることです。つまり、キリストと共に死んで罪から解放され、キリストと共に神に生きるという神の奇跡なのだとパウロは言います。
 パウロはガラテヤの信徒への手紙でこう言います。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ 2:20)
 この「キリストと一つに結び合わされて神と共に生きる」というのが聖書が伝える救いです。イエスも言われます。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ 28:20 口語訳)

 パウロが今語っている内容は、神学では「聖化」と呼ばれます。聖化とは、神のものとされる、この世から分けられる、清められることを意味します。これはパウロが批判した律法で生きるのとは何が違うのでしょうか。

 律法で生きるのは、自分に生きるのです。救われた者が神に生きると言われるのとは反対です。律法で生きる者は、自分を誇りとします。キリスト者の場合、神を讃え、感謝しつつ、自分の信仰を誇ります。わたしは罪人ですと言いつつ誇ります。さりげなくですが、誇ります。自分が信じていること、自分が奉仕していること、自分に目を向けています。やっかいなことに自分に目を向けていることにも気づかず自分を誇ることがしばしばあります。
 一方聖化は、神の恵みによって神に生きるのです。自分でこういうことをしようではなく、神が自分に何を願っておられるのか、神の御心は何かを祈り求め、思い巡らしていくのです。そのとき、神の救いの出来事、神の恵みの事実を基準に考えます。ここでパウロは、キリストの十字架と復活、それを指し示す洗礼に基づいて考えていきます。そして、神の救いの御業、神の恵みにふさわしい在り方を求めていくのです。きょうの聖書の箇所は、パウロが救いの出来事、イエス キリストに思いを向けて、神の御心を聞いていった箇所です。

 わたしたちは、自分で立つことはできません。大地に支えられているから立てるのです。支えるものが何もない空中で立つことはできません。またわたしたちは、自分で泳ぐことはできません。水に支えられて浮かせてもらうから泳げるのです。同じようにわたしたちは、神の救いの御業、神の恵みに支えられて神の民として立つことができ、歩むことができるのです。聖化も、自分でやる、自分の願い通りにするなどと力を入れるのではなく、恵みに支えてもらい、そして神の御心を祈り求めつつ、従っていくのです。

 キリスト者は、キリストの十字架と復活に結び合わせられるため、洗礼を受けました。洗礼により、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活しましたことを覚えさせられます(6:5)。キリストと共に死んで、キリストと共に生きる(6:8)のです。キリスト者は、罪に対して死んだ者であり、神に生きている者です(6:11)。これが神の救いの御業です。神がなしてくださった事実です。だから「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げ」る(6:13)のです。

 ここで注意点が一つあります。この自分を献げるとき、できたできないの自己評価はしないのです。ただひたすら神の御心に思いを向けるのです。自己評価を止めるのです。自己評価は、神の恵みを忘れて、自分で立とう泳ごうすることです。既にイエス キリストが十字架を負って罪を贖ってくださいました。わたしたちはキリストによって救われているのです。評価は神がなさるものであり、神はわたしたちを義としてくださいました。わたしたちは救いの恵みの中で、安心して神に委ねて生きるのです。思いを向けるのはイエス キリストであり、神の言葉です。繰り返して言いますが、自己評価はしないのです。思いは神に向けるのです。

 その際にパウロが繰り返ししているように、神の恵みの事実を確認します。きょうの箇所の最後に出てくる「あなたがたは・・恵みの下にいる」もそれです。この神の救いの御業の中にある事実を確認することが、罪を抱えて生きるわたしたちには大切です。
 わたしたちは罪を赦されました。罪の支配から解放されました。しかし罪がなくなった訳ではありません。日々罪を重ねています。救いが完成するのは、神の国に復活するときです。しかし、神の国を目指してキリストと共に歩むことが大切です。神と共に生きること、それが救いだからです。わたしたちはその恵みの下にあるのです。だから、その事実を知って、確認することが大事なのです。わたしたちは、キリストに救われ、キリストと一つにされ、今恵みの下にいるのです。

 自分自身を神に献げることは、時間かけて行うリハビリや体質改善に似ています。本来持っている命の力を回復させるために、日々行います。体が忘れてしまっている動き・働きを回復するため、毎日行います。
 わたしたちが神に従うときもこれと同じです。本来、神にかたどって造られ、愛され、祝福されています。けれど罪のギブスをはめていたため、動かなくなっています。また罪による曲がった姿勢・生き方で歪んでしまったものを整え直していくことになります。急には治りません。日々行っていくのです。それも自己流で行うのではありません。神の御心によって導かれていくのです。

 使徒言行録16章に、パウロたち一行がアジアで御言葉を語ることを聖霊に禁じられたと書かれています。信仰を持ってキリストの福音を宣べ伝えるために仕えていても、神が道を閉ざし神の計画は違うことを示されました。わたしたちも信仰を持って仕えようとしていても道を閉ざされることがあります。信仰から出た思いであっても、神は「それは違う」と示されて、わたしたちが神の御心を求めるように神は訓練をし、導かれます。自分の思いではなく、神の御心に委ねて歩むように、神が訓練されるのです。

 到達点ははっきりしています。イエス キリストです。「わたしたちは皆・・栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント 3:18)とはっきり語られています。
 神の国で復活するとき、わたしたちは復活のイエス キリストと同じ姿に変えられます。そして今は、その途上にあって日々「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」のです。

 これは律法によって自分を高め、自分を誇り、自分を喜ぶのとは、全く違います。恵みを受け、恵みに満たされ、恵みを味わって生きるのです。そして神に支え導かれ、神を喜び讃えて、神の国に至るのです。これが聖書が語っている聖化なのです。

 義認も聖化も、救いの一面を表すものです。義認は神がなしてくださるけれども、聖化はわたしたちの努力目標だ、などということはありません。義認も聖化も神の御業です。イエスはこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように・・わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ 15:16)
 イエス キリストがわたしたちを選び、任命してくださいました。だからパウロはフィリピの信徒への手紙でこう言います。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ 1:6)

 わたしたちは、信仰から信仰へ、恵みから恵みへと救いの道を導かれているのです。ですから恵みの下にあるわたしたちは、自分自身を神に献げ、委ねて生きるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの人生を、イエス キリストへ、神の国へと導いていてくださることを感謝します。どうかあなたの恵みを味わい、喜びつつ、あなたが愛していてくださるわたしたち自身を献げていくことができますように。御国の到来を待ち望みつつ、日々栄光から栄光へとキリストの姿に変えられていきますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 4:39〜42

2020年2月16日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:39〜42(新共同訳)


 昨年の9月からこの 4:1 から始まるサマリアのシカルで名も知られぬ女性とイエスが出会われた話を聞いてきました。きょうはその物語の最後の場面です。

 イエスの一行はガリラヤへと行く途中、サマリアのシカルという町に立ち寄りました。このシカルという町にはヤコブの井戸と呼ばれる井戸があって、イエスはその井戸の傍らに、疲れと空腹のため座り込んでいました。そこで一人の女性と出会います。この女性とイエスの不思議な対話が始まります。この対話の中で、イエスはこの女性に自らのことを明らかにします。
 彼女は言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」するとイエスははっきりとお答えになります。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
 イエスが特別な人であることは、この対話を通して彼女にもよく分かりました。彼女は、水を汲むために井戸に来たのですが、水がめを置いたまま町へと駆け出し、出会う人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言って回りました。

 町の多くの人たちは、彼女の言葉を信じました。町の人たちにとって、彼女は運のない女、5人の夫がいたが、連れ添うことのできなかった女、今では傷つくことを恐れて結婚せずに男と暮らしている女。

 町の人たちはどうして彼女の言葉を信じたのでしょう。
 それは彼女が「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と言ったからです。町の人たちは、彼女の行ったことを知っていました。そして彼女がそれに触れられたくないことも知っていました。顔を合わせるのを避けて、昼日の中、井戸に水を組みに来ることも知っていました。その彼女が「わたしの行ったことをすべて言い当てた人がいる」と言い、さらには「この方がメシアかもしれません」と言って回って語るのを止めないのです。

 福音書は彼女の言葉を「証言」と言っています。元になる言葉「マルトュレオー」は「証しする」という意味で、「殉教、殉教者」という言葉にもつながっていく言葉です。彼女は自分自身をかけて伝えました。町の人たちにもそれが分かりました。顔を合わせたくない自分たちのところへ飛びこんで来て「わたしの行ったことをすべて言い当てた人がいる」と言って止めないのです。彼女はまさしくイエスを証言し、証ししたのです。
 彼女の証言は、彼女の人生がかかったものでした。しかし内容は、旧約の引用もなく、メシアつまり救い主がどういう存在なのかの説明もありません。けれど「この方です」とイエスを指し示すには、知識が必要なのではありません。「このわたしを知っていて」くださり「このわたしのために来てくださった」イエス キリストと出会ったかどうかだけなのです。

 町の人たちは「イエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるように」と頼みました。ガダラ人の地で悪霊に憑かれた人を癒やしたとき、豚が湖に飛び込むということがあって、町の人たちがイエスに「出て行ってもらいたい」(マタイ 6:34)と言ったのとは対照的です。

 そしてイエスは、二日間そこに滞在されました。たった二日間です。しかし、おそらく今回の出来事を通して、イエスの弟子たちとサマリアには繋がりができました。使徒言行録8章にはサマリアに再度福音が伝えられたことが記されています。
 「エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤサマリアの地方に散って」(使徒 8:1)行きました。フィリポも「サマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝え」(使徒 8:5)ました。「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせ」ました。「二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈」(使徒8:14,15)りました。「ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った」(使徒 8:25)のです。

 彼女がイエスと過ごした時間は1時間にも満たない時間だったかもしれません。イエスがシカルの町に滞在されたのは、二日間だけでした。しかし「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道 3:11 口語訳)のです。「そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じ」ました。

 町の人たちは彼女に言います。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからでは」ありません。「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 聖書は「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ 10:17)と言います。わたしたちは、キリストを指し示すことはできます。証しすることはできます。しかし信仰を与えることはできません。信仰は、一人ひとりがキリストと出会い、キリストご自身の言葉を聞くことによって与えられるのです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)御言葉(聖書)と聖霊によりキリストと出会い、信仰が与えられ、信仰が与えられて、キリストにおいて現された神の真理、愛故に罪人を救うという神の真理を知るのです。

 教会は、信仰の要であるイエス キリストと出会うために建てられました。だからキリストの言葉を語り、神の御心を取り次ぎます。この教会に集う一人ひとりが「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった」と告白するためです。
 ある人(カール バルト)は「一人のキリスト者が生まれるということは、天地創造に匹敵する奇跡である」と言ったそうですが、わたしもその奇跡を神が起こしてくださると信じて説教するのです。

 サマリアの教会の最初の礎は、名も知られぬ一人の女性でした。敢えて人間的な表現をするなら取るに足らぬ一人の女性でした。しかし、神の御業は人の目には見えぬところ、人の思いの届かぬところにまで及びます。イエスご自身が譬えられたようにいなくなった一匹の羊(ルカ 15:1~7)、たった一人の女性をイエスは尋ね求められるのです。

 キリスト教会の2000年の歴史から見れば、わたしも皆さんも名も知れぬ者でしょう。しかし「名も知れぬ」は神にとって問題ではありません。神にとって問題なのは、キリストと出会ったかどうか、キリストがあなたを求めている救い主であると知ったかどうか、信じたかどうかなのです。
 どうかこの教会が、キリストと出会える教会でありますように。集う一人ひとりがキリストの恵みに与れる教会でありますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは愛をもって造られた一人ひとりをお忘れになりません。どこまでも捜し求めて、あなたの許に連れ帰ってくださいます。そして用いてくださいます。どうかこの教会に集う一人ひとりもあなたが捉え、導いてくださいますように。どうかこの教会に集う者たちが、キリストと出会い、救いに与ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 6:5〜11

2020年2月12日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:5〜11(新共同訳)


 パウロは、「キリストを信じることにより与えられる神の義によって救われる」(3:21~)ということを丁寧に語ってきました。キリスト以外のものに望みを置かないように、割礼や律法を守っていることで自分を誇ることがないように、神がイエス キリストを遣わしてどれほど大きな恵みを注いでくださったかを語りました。

 しかし、神がわたしたちを罪から救い、わたしたちと共に生きたいと願っておられるのに、罪は神の御心をねじ曲げることを考えます。
 「罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれたんですよね。それなら、恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか。」(6:1)「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」のはどうでしょう(フランシスコ会訳)。

 実は、このような言い方は、神に従うのを拒む人によってだけではなく、熱心に神に従おうとする人からも言われてきました。
 日本キリスト教会は改革派教会の伝統に立つ教会です。改革派教会は、救いについて「イエス キリストによってのみ救われる」と告白してきました。しかしこの理解は、公同の教会の中からも批判されてきました。何と言って批判されたかというと「キリストによってのみ救われるという教えは、善を行わない人間を育てる悪い教え」であると。つまり、キリストによってだけ救われるならば、人は救いのために何もしなくてもよいことになる。そうなったら、人は善を行おうとしなくなるだろう。キリストによってのみ救われるという教えは、善を行おうとしない人間を育てる悪い教えであると。

 しかし、「善を行おうとしないだろう」という人間の予測で聖書の教えを決めるのではありません。神の言葉である聖書が何と言っているかが問題なのです。
 パウロは、「恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか」と言われるほど徹底してキリストによる救い、キリストを信じる信仰の義について語りました。そのパウロが「恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか」という皮肉な問いかけに何を答えたかというと、「決してそうではない」と言って洗礼の秘義を示したのです。
 洗礼は、キリストと一体とされる神の秘義を指し示すものです。罪人をキリストと一体として、キリストの十字架と復活の恵みに与らせるという神の奇跡を洗礼は証ししています。

 キリストによって救われると言うとき、どう救われるのかというと、わたしたちの救いのために人となられたキリストと一つにされるのです。特に、救いの現れである「十字架・復活」と一つにされる。つまり、キリストの「死と復活」と一つにされるのです。
 一つとなり、一体となるということは、もはやキリストと分けることはできず、キリストのすべてに与るということです。そして死ぬということは、罪との関わりが断たれるということ。復活するということは、キリスト者となる、神の民、神の子とされるということです。
 キリストを救い主として信じ、洗礼を受けるということは、キリストと一つとされて、キリストと共に生きるということなのです。

 だからパウロは言います。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(6:6~8)

 ここで問題なのは、洗礼を受けた自分自身が、未だに罪を犯しており、罪から解放されているとは思えない、ということです。これはわたし自身ずっと感じ続けてきました。
 わたしは洗礼を受けたら、細かなことにいつもイライラせず、寛容で穏やかな人間になれると期待していました。しかし洗礼を受けて何年経っても、そんな風になることはなく今に至っています。

 けれどわたしは今になって、わたしの理想、わたしの期待どおりにならないことが神さまの訓練だと思っています。仮にわたしが信仰の修養を経て、キリスト者らしい寛容で穏やか、愛に満ちた人になったとしましょう。そのときわたしはきっと、自分に自信を持ち、自分を誇るようになるだろうと思います。そして自分の罪に苦しむ人に「信仰生活を続けていけば、必ず変われます。わたしも変わりました」などと重荷にしかならないことを無責任に負わせることになるだろうと思います。

 わたしたちはキリストにますます依り頼むために、赦された罪人として歩んでいくのだと思います。救いに到達してしまった者としてではなく、完成の途上にある者として生きるのだと思います。パウロ自身こう言っています。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(フィリピ 3:13~15)

 わたしたちは実感がない中で、神の言葉である聖書とイエスが与えてくださった目に見えるしるし、聖礼典により、信仰に生きるのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ 11:1)なのです。

 何を確信し、何を確認するのかと言うと、それはきょうの御言葉です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(6:8~11)

 キリストと一つになった実感はありません。けれど、神のひとり子イエス キリストは、わたしたちの救いのために人となってくださったのです。そしてご自身の命をかけて十字架を負い、そして復活してくださいました。これはあなたのためだとイエスはご自身の存在を掛けて証ししておられます。そして、イエス キリストを指し示す旧約39巻、新約27巻の聖書も、神の御心はあなたがイエス キリストによって救われることだと証ししています。さらに、イエス キリストの名によって建てられた公同のキリスト教会で、キリストが復活された日曜日ごとに礼拝が守られ、聖書が朗読され、解き明かされ、洗礼と聖晩餐の聖礼典が執り行われて、皆さん一人ひとりに神の救いの出来事を宣べ伝えています。

 神の言葉は出来事となります。神の言葉は真実で揺るぎません。イエス キリストご自身がそれを証ししておられます。神の言葉は救いの出来事を成し遂げ、わたしたちの内に信じること、信仰を創り出します。
 イエス キリストに出会い、父・子・聖霊なる神を知り、その救いに入れられるとき、わたしたちは神の恵みに生きる幸いに与ります。その時にはもはや「恵みが増し加わるために罪に留まるべき」とはつぶやかないのです。
 聖書は語ります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)「わたしにとって、生きるとはキリスト」(フィリピ 1:21)なのです。

 命は神の奇跡です。創造の奇跡により命を与えられ、救いの奇跡によりキリストの復活の命、永遠の命に入れられました。神の救いの恵みにより、わたしたちは今、キリストと一つにされて生きているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの奇跡によってわたしたちは今生きています。イエス キリストと一つにして、神の子としてくださったことを感謝します。御言葉に導かれて、イエス キリストを仰ぎつつ、信仰に生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 6:1〜4

2020年2月5日(水) 祈り会
2020年2月9日(日) 主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 6:1〜4(新共同訳)


 パウロは、「キリストを信じる信仰の義によって救われる」ということを丁寧に語ってきました。キリスト以外のものに望みを置かないように、割礼や律法を守っていることで自分を誇ることがないように、神がイエス キリストを通してどれほど大きな恵みを注いでくださったかを語りました。

 律法は本来、罪の世で神から離れてしまわず、神と共にあるための恵みでした。当然律法は、神に従い生きることを求めます。その律法の前で、人は神とは違う思いを抱く罪があることが明らかにされます。けれど、そこに神はイエス キリストを遣わされました。神はキリストによって義をお立てになりました。ただ一つの完全な義をお立てになりました。義とは正しい関係です。神との正しい関係は、愛と信頼によって立てられます。イエスは、十字架の死に至るまで神の御心をよしとして従う完全な義を立てられました。「キリストは・・自分を無にして・・人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ 2:6~8)それに対して神は、復活という命の奇跡をもってお応えになりました。このイエス キリストの義によって、神は罪によって壊れてしまった「信じる」ということを回復してくださったのです。

 信仰生活を続けると分かりますが、信じるということは簡単ではありません。祈っているのに自分が望まないことが与えられる。本当に神はおられるのか、神はわたしを本当に愛しておられるのか、信じられなくなること、信じることをほどほどにしておこうと思えることがたくさんあります。それなのに自分に罪がないにもかかわらず、捨てられ裁かれる十字架に至るまで従順であられたイエスの信仰は、まさしく救いの御業です。わたしたちは律法は守れないけれど、信じることならできるのではないのです。律法も守れないし、信じ抜くこともできません。ただイエスお一人が、わたしたちのために罪なき生涯を送り、最後まで信じ抜いてくださったのです。そしてこのイエスの救いの業は、わたしたちに永遠の命をもたらしました。

 しかし、神がこれほどまでにわたしたちを罪から救い、わたしたちと共に生きたいと願っておられるのに、罪は神の御心をねじ曲げることを考え出します。
 「罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれたんですよね。それなら、恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか。」「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」のはどうでしょうか(フランシスコ会訳)。

 罪はいつだって、神より賢いふりをして「もっとあなたに都合のいい道がありますよ」とささやきかけてきます。エデンの園でもそうでした(創世記3章)。けれど、この罪の口車に乗ってしまうと、失ってはならない本当に大切なもの、命の恵みを失ってしまいます。こうして人は、罪に囚われ、死に支配されるようになってしまいました。
 ですからパウロは「決してそうではない」と断言します。
 そもそも神は、わたしたちに神と共に生きることを望んでおられるのです。神と共に生きるためのキリストの御業なのです。「恵みが増し加わるために、罪に留まるべき」などということはあり得ないのです。罪に導かれて、神よりも賢いなどと考えて、自分に都合のよさそうな理屈を振り回すと、命の恵みを失ってしまいます。

 わたしたちはキリストの恵みに与るために、信仰を告白し、洗礼を受けました。
 洗礼は、聖晩餐と共にイエス キリストご自身が定められた礼典で、キリストの救いの恵みを覚えるためのものです。イエスの救いが完全であることを表す一度限りの洗礼、イエスの恵みによって養われ、新しい命に生きることを表す繰り返される聖晩餐。罪の世で弱さを抱えるわたしたちが、救いの恵みへを覚えるために洗礼と聖晩餐は与えられました。

 洗礼は水の洗いと言われ、水が汚れを洗い流すように、キリストの救いの御業によって罪が洗い清められることを表します。これは使徒言行録で語られているものです。悔い改めの洗礼と言われ、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」(使徒 2:38)また「洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」(使徒 22:16)と言われています。

 もう一つ洗礼について言われているのが、キリストと一つにされるという神の奇跡を表すことです。パウロがこのローマ 6:3, 4で言っているのが、キリストと一つにする洗礼です。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

 洗礼は、キリストと一体とされる神の秘義を指し示すものです。罪人をキリストと一体として、キリストの復活の命に生まれ変わらせ神の子とするという神の奇跡を洗礼は証しするのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ 3:26, 27)

 洗礼というのは本来、沈める、浸すという意味です。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」というのは、文字通りにはキリストご自身に沈める、キリストご自身に浸すという意味です。丁度藍染めで、染料の中に糸を沈めて染めるように、キリストご自身に沈められ、キリストと一体とされ、その十字架の死、復活、キリストご自身と一つにされるのです。
 一つとなり、一体となるということは、もはやキリストと分けることはできず、キリストのすべてに与るということです。キリストを救い主として信じ、洗礼を受けるということは、キリストと一つとされて、キリストと共に生きるということなのです。だからパウロはこうも語ります。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:19, 20)

 このキリストと一つにされるという奇跡は、ほとんどの人にとって実感を伴いません。だからイエスは洗礼と聖晩餐という聖礼典を定め、目に見えるしるしを与えてくださったのです。ルターも自分の救いに不安を感じたときは「このわたしはキリストの洗礼を受けた者である」と何度も書いたというエピソードが伝えられています。
 わたしたち洗礼を受けた者は、キリストと一つにされ、その死と復活に与り、新しい命に生きているのです。そこからはもはや「恵みが増し加わるために罪に留まるべきであろうか」などという考えは出てこないのです。

 さらにキリストと一つにされたわたしたちキリスト者は「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」いくのです(2コリント 3:18)。復活の主は、わたしたちの未来の姿なのです。わたしたちは、神の恵みによって、栄光から栄光へ、恵みから恵みへ、信仰から信仰へと、救いの道を喜びと感謝をもって歩んでいく神の子とされたのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは、わたしたちにひとり子イエス キリストを惜しみなく与え、わたしたちをキリストと一つにし、神の子としてくださいました。キリストの十字架も復活も、その生涯のすべてがわたしたちに与えられています。どうかわたしたちが、あなたの恵み、イエス キリストに満たされて生きることができますように。救いの道を生きる幸いを、わたしたちに味わわせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン