聖書の言葉を聴きながら

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聖句で辿る聖書 73

出エジプト記
19章 6節(新共同訳)

あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。


 神の民は、世にあって祭司の務めを果たす。聖別され神の民とされ、神を証しする存在である。
 祭司は、民が神に立ち帰れるように、献げ物を献げる。神と民との間に立つ執り成し手である。律法を教え、自らも神と共に歩み、神に従い、神と共に生きる道を証しする。

 

マルコによる福音書 15:33〜41

2018年3月25日(日)主日礼拝
聖書箇所:マルコによる福音書 15:33~41(口語訳)

 

 今週は受難週です。イエス キリストの受難、十字架を思い巡らし、覚えるときです。今年はマルコによる福音書からご一緒に聞いてまいります。

 イエスは十字架に付けられました。それは朝の9時でした。そして昼の12時になると、全地は暗くなって、3時になりました。
 過越の祭の時期は満月ですので、日食ではありません。これは「しるし」です。イエスはご自分のことを「世の光」(ヨハネ 8:12)と言われました。世の光であるイエスを拒絶し、十字架に付け、死に至らしめようとしていることがどういうことなのかを示すしるしなのです。イエス キリストを失うことは、生きる光を失うことなのです。多くの人はそのことに気づいていません。信仰を持っている者でさえ気づいていません。お分かりのとおり、イエスを十字架に付けようとした人々、イエスを嘲る人々は旧約の民であり、信仰ある人々です。多くの人は気づかぬまま、キリストがいなくても毎日生きていけるように思っています。そして死という抗うことのできない虚無に飲み込まれていくのです。
 この3時間に及ぶ闇が、罪がもたらすものを示しています。

 そして3時に、イエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味のアラム語です。アラム語というのは、ヘブライ語と近い言葉で、当時のユダヤ人が話していた言葉です。
 側に立ってイエスの言葉を聞いていた人々が「エリヤを呼んでいる」と声を上げます。エリヤは旧約を代表する預言者です。聖書は彼を死んだとは言わず「火の戦車が火の馬に引かれて現れ・・エリヤは嵐の中を天に上って行った」(列王記下 2:11)と言い、預言者マラキは「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ 4:5)と言っています。それで人々は、エリヤが再び来ると信じていたので、イエスがエリヤを呼んでいると勘違いしたのです。

 しかしイエスが叫ばれたのは、わたしたちの罪を担い、わたしたちに代わって裁かれた贖罪の業が成し遂げられ、ご自身が神に裁かれ、神に捨てられたことを宣言されたのです。
 罪がもたらす神の裁きは、神がおられない、ということです。神がお語りになる大切なメッセージの一つは「わたしはあなたと共にいる」ということです。しかし罪は、神と違う善悪によって神から離れていきます。罪は神から離れます。神のいないところへと導きます。そして、祈っても神に届かない神のいない世界へと至らせるのです。それは完全な孤独の世界です。家族も弟子たちも誰も一緒にいない、そして祈りを聞いてくださる神さえもいない世界です。
 イエスのこの叫びは、神の子であり、神と共に歩まれた方が、わたしたちの罪を負われ、わたしたちに代わって裁かれ、捨てられて、贖いを成し遂げられたことの宣言の叫びです。

 36節は少し分かりづらい文章です。酸いぶどう酒を飲ませようとした人がいたのに、それを止めたような印象を受ける分掌です。ここは新共同訳の方が分かりやすいので、見てみましょう。36節(新共同訳)「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。」つまり、すぐに息を引き取らないように酸いぶどう酒を飲ませようとしたというのです。
 しかし、イエスは声高く叫んで、ついに息を引き取られました。
 そのとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この神殿の幕というのは、聖所と至聖所とを分かつ幕です。至聖所というのは、聖所の奥にある部屋で、1年に1度贖罪の日に大祭司が贖罪の儀式を行うために入る部屋です。ここで行われる贖罪の儀式は、この1年、贖われなかった罪を贖うためのものです。そして聖所と至聖所を分かつ幕が掛けられていました。それが裂けたというのは、キリストの十字架によって、完全な贖罪が成し遂げられ、もはや贖罪の儀式を行う必要がなくなったことを示します。
 ヘブル人への手紙9章にはこんな風に書かれています。「幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。・・しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(ヘブル 9:7, 8, 11, 12)つまり、神殿の幕が裂けたのは、罪の贖いが完全に成し遂げられた「しるし」なのです。

 この十字架のローマ側の責任者が、百卒長と呼ばれる100人の兵を率いる百人隊長でした。彼は刑執行の責任者として、イエスに向かって立っていました。彼はイエスを刑場に引き出し、十字架の最初から最後まで見ていました。その彼がイエスが息を引き取られたのを見て「まことに、この人は神の子であった」と言いました。
 おそらく彼はきょう初めてイエスを見たのではないかと思います。おそらく彼は、イエスの話を聞いたこともありません。イエスを求めていたわけでもありません。彼は自分の職務としてイエスの側近くにおり、十字架を見届けました。彼はイエスの十字架の最も重要な証人、証し人です。イエスの十字架を最初から最後まで、最も近いところで見届けました。そして、彼は「まことに、この人は神の子であった」と告白する信仰へと導かれました。
 信仰の中心にはキリストの十字架が立っているのです。聖書を全部理解してなくても、信仰には至るのです。しかし、キリストの十字架を知らずして信仰を持つことはできません。

 この出来事もまた大切な「しるし」です。それは、イエスの十字架によって信仰を告白したのが、異邦人であるということです。異邦人は、旧約を知りません。神の子という言葉の聖書的な意味も知りません。しかしそれでも、イエスの十字架と出会うとき、信仰が与えられるのです。旧約の神の民がさげすむ異邦人、信仰から最も遠いと思われる異邦人、しかもローマの命令によってイエスを十字架に付けた異邦人が、最初の信仰告白者となったのです。

 次に遠くの方から見ていた女性たちがいます。彼女たちは、イエスに従い仕えてきた者たちです。彼女たちは十字架の証人であり、埋葬の証人であり(15:47)、復活の証人(16:1~7)です。十二弟子は男性でした。しかし、信仰の最も重要な証言は、女性たちに託されました。

 百卒長も女性たちも、「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つ」(ガラテヤ 3:28)というキリストの福音の証しする証人です。
 わたしたちの思いを超えて、神は、神の御業から遠くにいると思われている者、神の務めには用いられないと思われている者をお用いになります。わたしたちがよく知る迫害者であった使徒パウロもその一人です。

 キリストの十字架は、神とわたしたちを和解させ、あらゆる隔ての中垣を取り除くよき知らせです。神のひとり子が人となって、救い主となってくださった奇跡の現れです。このキリストの十字架よらず救われた人は、一人もいません。わたしたち一人ひとりの信仰の中心には、この十字架のイエス キリストがおられるのです。それ故、わたしたちの信仰は十字架のイエス キリストを仰ぎ見ることが必要なのです。

 この受難週の1週間は、わたしたちの救いのために十字架を負われたイエス キリストを仰ぎ見、思い巡らす大切な時なのです。キリストの十字架によって、自分自身の救いを知り、イエス キリストがわたしの救い主であることを確信し、喜び感謝する時なのです。

ハレルヤ

 

ヘブル人への手紙 12:1〜3

2018年3月18日(日)主日礼拝
聖書箇所:ヘブル人への手紙 12:1~3(口語訳)

 

 教会には、教会暦と呼ばれる教会の暦があります。クリスマスに備える待降節から始まり、降誕節、受難節、復活節、聖霊降臨節と神の救いの御業を辿りつつ1年を過ごします。今は、キリストの受難を覚える四旬節という期間にいます。
 四旬というのは40日を意味します。旬というのは10日を表します。今でも月の上旬、中旬、下旬というように月を10日ずつに分けて表します。四旬節はキリストの受難を覚える期間なので、復活を記念する日曜日は除いた40日ということで復活節の46日前の水曜日から始まります。この水曜日を灰の水曜日と呼びます。聖書に、悲しみの表現として灰をかぶるというのが出てきます。おそらくそれに由来するものだと思われます。この日カトリック教会では、信徒は司祭に額に灰で十字を描いてもらうという習慣もあるそうです。
 わたしたちの日本キリスト教会では、降誕節、復活節、聖霊降臨節の三大節以外はあまり気にしないので、教会暦を意識するのが少ないかもしれません。きょうヘブル人への手紙から御言葉を聞くのは、教会暦によるものです。次の日曜日が棕櫚の主日と呼ばれる日曜日で、その週が受難週と呼ばれ、さらに次の日曜日が復活節となります。

 さて、きょうの聖書の中心は「イエスを仰ぎ見つつ、走る」ということです。特に「イエスを仰ぎ見る」ということは、教会で何度も何度も語られ示されることです。讃美歌においても「主を仰ぎ見れば」「十字架の主イエス」と歌われ、「この人を見よ」と示されます。
 きょうの聖書は仰ぎ見るべきイエスを「信仰の導き手」と言い、「その完成者」と言います。
 近代以降の社会においては、自分が出発点であり、自分が視点の中心です。「我思う故に我あり」の世界です。信仰においても、わたしの信仰であり、どう信じるかはわたしの自由だと考えがちなのも、近代の信仰の特徴の一つです。一見するととても自立したあり方のように思えますが、これは罪ある自分に縛られ、囚われている考え方です。これは神と共に生きる信仰ではありません。罪ある自分を基準とし、罪ある自分の正しさに囚われている限り、どこまで行っても罪から離れることはできず、神に立ち帰ることはできません。
 神が与えてくださる信仰は、罪ある自分からも解放され、自分自身から自由になる信仰です。それはイエス キリストの信仰です。それは「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ 14:36)と祈り、十字架へと進まれたイエス キリストの信仰です。自らの思い、願いは神に祈り、聞いて頂き、受け取って頂いた上で、神の御心に従い行く信仰です。まさしくイエス キリストは信仰の模範、「信仰の導き手であり、またその完成者」なのです。ですから、わたしたちは常に聖書から、そして教会で歌い継がれてきた讃美歌から「この人を見よ、主を仰ぎ見よ」と示されてきたのです。イエス キリストを見つめ、イエス キリストの御跡に従う、イエス キリストから離れず、イエス キリストと共にある、それがわたしたちの信仰が主の御心にかなっていく大切なあり方なのです。

 聖書はさらに語ります「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」。
 神は、イエス キリストの信仰がどこに至るのかを、その復活と召天によって証しされました。神が備えていてくださる自分に用意された喜びが、一体どのようなものかをキリストは命をかけて証しされました。イエス キリストによってわたしたちは、神へと至る信仰を知ったのです。わたしたちを救いへと導き、神の国へと誘うただ一つの信仰が、イエス キリストに従い行く信仰なのです。

 聖書はこの信仰を「わたしたちが参加すべき競争」と例えます。わたしたちはそれを「耐え忍んで走りぬかねば」なりません。それは、信仰というものが生きていくことそのものだからです。罪に導かれて、死と滅びに至るゴールに向かうのか、キリストに従い、神の国と永遠の命に至るゴールに向かうのか、そのどちらかを選ばねばならないからです。競争に例えているのは、それが全力で挑む苦しさを超えてゴールにたどり着かねばならないからです。イエス キリストご自身、苦しみを負って信仰を証しされました。そして聖書に記されている数多くの証し人たちも神の御心に従う信仰の道を歩みました。罪の世に生まれ、生きている限り、わたしたちには様々な苦しみが降りかかってきます。けれど、どこに向かって、苦しみのある世を生きるのか。神は御言葉を通し、イエス キリストを通して「あなたの歩むべき道はこれだ」と示していてくださいます。その神の示された道が、どこに至るのか、それをキリストがご自身の復活、そして召天によって、神の御許に至る道なのだということを示してくださいました。

 だから聖書は「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか」と呼びかけます。
 わたしたちは罪によって滅びるために造られたのではありません。救いに与って神を喜び、その神に造られた自分を喜び、世界を喜ぶために造られたのです。

 この信仰を走り抜くには、耐え忍ぶ忍耐と、重荷と罪とを捨てることが必要です。忍耐も捨てることも、イエス キリストを見つめること、仰ぎ見ることを通して与えられるものです。
 わたしたちが自分自身にとって益となること都合のいいことそのことを基準とするのであれば、耐え忍ぶことも避けるし、捨てることもしないでしょう。しかし、それがどこに至るのかをわたしたちは分かっていません。自分によかれと思い、自分の益だと思ってその道を選んでも、それがどこに至るのかを実はわたしたちは知らないのです。けれど神は、イエス キリストを通して、そして雲のように多くの証し人たちによって、神と共に生きる道にこそ救いがあり、祝福があるということを証ししてこられたのです。ですから、わたしたちがこの神が与えてくださった信仰の道を走り抜くには、イエス キリストを見つめること、仰ぎ見ることが大切なのです。

 信仰をキリスト以外、神以外のところから得ようとすると、間違っていきます。何を捨てるのかについても、神が導きの中で示されます。ですからわたしたちは「主よ、御心をお示しください」と祈りつつ歩んでいく中で、神が「捨てよ」と言われているものに気づかされていくのです。そしてキリストへと思いを向けていく中で、捨てる決断をも与えてくださいます。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」(マルコ 8:35)とイエスは言われます。命も良きものもすべて神が与え給うものです。わたしたちは、命もすべての良きものも、神から受け取るのです。

 そして神はわたしたちに、命もすべての良きものも与えようとしておられます。そのために主の日ごとに礼拝へと招き、キリストを仰ぎ見ることができるようにしてくださっています。だからこそ今、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうでは」ありませんか。神は限りない祝福を備えて、わたしたちをを招いておられます。

ハレルヤ

 

ルカによる福音書 23:6〜12

2018年3月4日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 23:6~12(口語訳)

 

 ユダヤ教エルサレムの指導者たち=ユダヤの最高法院の議員たちは、イエスを死刑にするため、ユダヤ属州総督のピラトにローマに対する反逆罪で訴えました。
 しかしピラトは、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」と判断します。
 しかしそれではエルサレムの指導者たちは収まりません。彼らは言いつのります。「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです。」
 彼らはイエスを死刑にしたいのです。当時ユダヤは、ローマ帝国の属州となっていたので、イエスを死刑にするためにはローマ帝国に対する反逆罪としてユダヤ属州総督のピラトに死刑の許可をもらわなくてはなりません。ですから何としてもこのナザレのイエスがローマに反逆する危険人物であると認めさせなくてはなりません。ですから最初の訴えも「この人が国民を惑わし、貢をカイザル(ローマ皇帝)に納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストである、となえている」と、ローマの法に背き、税金を皇帝に納めることを禁じています、ローマ皇帝ではなく、自分が王なのだと言っています。そしてガリラヤからエルサレムまで、全国で教え、ユダヤ独立運動に民衆を扇動している、と訴えるのです。「総督、この男を死刑にしなければ、暴動が起きるかもしれません」と訴えたわけです。
 ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけました。

 ここに出てくるヘロデは、イエスが生まれたときに王であったヘロデ大王と呼ばれる人物の2番目の息子です。兄である長男が王であったとき、大変酷い政治をして、ローマ皇帝により追放され、ユダヤは皇帝直属の総督が派遣されるようになり、領土は他の兄弟たちと四分割してガリラヤとペレヤを治める領主となりました。このときは、過越の祭のためにエルサレムに滞在していたのです。
 ヘロデは送られてきたイエスを見て非常に喜びました。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからです。ヘロデがイエスのことを聞いていたのは、ヘロデがバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)の首を切って殺した後、マルコによる福音書によりますと「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、 ・・ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った」(マルコ 6:14, 16)と記されるようなことがあったからです。そしてついにあのイエスに会えるのかと喜んだのです。

 しかし、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えになりませんでした。
 祭司長たちと律法学者たちはここでも激しい語調でイエスを訴えました。そしてヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえしたのです。
 そして、ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日イエスの扱いを通じて、親しい仲になったというのです。敵視していたというのは、ヘロデは兄が追放された後、自分が王に任命されると期待していましたが、ローマ皇帝の裁定はユダヤを皇帝の直轄地とし、四分割して子どもたちを王ではなく領主にするというものでした。ですから、ヘロデは皇帝から派遣される総督ピラトが気に入りませんでした。それがこの日イエスの扱いを通じて、親しい仲になったというのです。

 イエスエルサレムに来られてから、毎日神殿の境内で教えておられました(ルカ 19:47)。ルカによる福音書は20, 21章には、イエスが教えられた内容が記されています。そして最高法院での裁判、ピラトの前での裁判の場面でも、はっきりと答えられたのに、きょうのところではイエスは何もお答えになりませんでした。
 最高法院で「あなたは神の子なのか」(22:70)と問われたときも、ピラトから「あなたがユダヤ人の王であるか」(23:3)と問われたときも「言うとおりである」(22:70)「そのとおりである」(23:3)とお答えになりました。以前説教した際に申し上げましたが、新共同訳ではそれぞれ「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」(22:70)「それは、あなたが言っていることです」(23:3)と訳しています。これは、わたしたち一人ひとりがイエスを前にして、イエスが何者であるかを判断し、告白するのだということを示しています。今、イエスはわたしたちの答えを待っておられるのです。
 無力な一人の人間として、裁判に引き出されています。今、イザヤが預言したように沈黙してそこに立っておられます。イザヤは言います。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」(イザヤ 53:7)イエス キリストは、神の言葉を体現してここに立っておられます。
 イエスは人々が期待する格好いい姿をしてはいません。しかし、何百年も前から預言者が語っていたとおりの姿で、人々の罪を負い、神に裁かれる者として神の言葉を体現してイエスは立っておられます。神の言葉が真実であることを身をもって示しておられます。
 今も、事あるごとにたくさんのコメンテーターと呼ばれる人たちがかまびすしく語ります。そしてインターネットの世界では、匿名でたくさんの人がいろいろと批評し、ときに罵詈雑言がネットの世界を埋め尽くすかのように語られます。しかし問題は、わたしたち自身が神の御前で、どのように応え、どう生きていくかなのです。つまり神ご自身は、自らの言葉を真実なものとなさり、ひとり子イエス キリストを救い主として世に遣わされました。イエスは今、わたしたちの罪を負って、神に裁かれる者として十字架の道を進んでおられます。このイエス キリストに対して、わたしたちはどう言うのか。わたしたちはこのイエスをどのように扱い、どのように生きていくのか。そのことが問いかけられ、その答えをイエスは黙して待っておられます。
 イエスは今、ご自身の命をかけてわたしたちの前に立っておられます。わたしたちはこのイエスを前にして何と応えるのでしょうか。

ハレルヤ