聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 23:1〜5

2018年2月18日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 23:1~5(口語訳)

 

 過越の食事の夜、イエスは逮捕され、夜が明けると同時に、最高法院における取り調べが始まりました。「では、あなたは神の子なのか」という問いに対してイエスが言った「あなたがたの言うとおりである(わたしがそうだとは、あなたたちが言っている 新共同訳)」という言葉を聞いて、死刑にすることができると判断した議員たちは、イエスをピラトのところに連れて行って訴え出ました。

 当時ユダヤは、ローマ帝国支配下にあり、ローマから総督(ユダヤ属州総督)が派遣され、総督がユダヤ統治の責任者でした。ユダヤ人たちは、自分たちの法に従って死刑を行うことはできず、総督の許可が必要でした。
 エルサレムの指導者たちは、総督に対して「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」とイエスを訴えたのです。

 当時ローマは広大な領土を支配下に置き、多くの民族を治めていました。ローマ帝国は法によって秩序を築き、その多くの人々を支配していました。そしてローマの法において死刑にされるのは、帝国に対する反逆罪でした。ですから、エルサレムの指導者たちは、イエスを死刑にするために「この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえている」と訴えたのです。
 それを聞いてピラトは「あなたがユダヤ人の王であるか」と尋ねたのです。
 イエスは「そのとおりである(それは、あなたが言っていることです 新共同訳)」と答えられました。ここは原文では「わたしがそのようなものだとあなたが言っている」となります。新共同訳も今年出る予定の新しい訳(聖書協会共同訳)もほぼ原文どおりに訳しています。
 これは、わたしたち一人ひとりがイエスを前にして、イエスが何者であるかを判断し、告白するのだということを示しています。イエスユダヤ人の王か否か。神が約束されたメシアかどうか。あなたとどのような関わりのある者かを、それをあなたはイエスの前であなた自身が判断し、告白をするのだ、ということを示す答えだとイエスは言っておられるのです。
 わたしたち一人ひとりも、イエスが何者であるかイエス キリストご自身から問われているのです。この人が聖書が証ししているようにわたしたちの救い主であるのか、それとも優れた人だけれども一人の人間に過ぎないと言うのか。
 ピラトは、総督としてイエスに尋問し、彼は判断します。「わたしはこの人になんの罪もみとめない。」ユダヤ属州総督として、ローマ法に照らし、彼は判断します。死刑はもとより、ローマ法に抵触する何の罪も認められなかったのです。

 これではエルサレムの指導者たちは収まりません。彼らは言いつのります。「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです。」
 彼らはイエスを死刑にしたいのです。ですから何としてもローマに反逆する危険人物であると認めさせなくてはなりません。ですから最初の訴えも「この人が国民を惑わし、貢をカイザル(ローマ皇帝)に納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストである、となえている」と、ローマの法に背き、税金を皇帝に納めることを禁じています、ローマ皇帝ではなく、自分が王なのだと言っています。そしてガリラヤからエルサレムまで、全国で教え、独立運動に民衆を扇動している、と訴えるのです。「総督、この男を死刑にしなければ、暴動が起きるかもしれません」と訴えるのです。

 訴えはどれも真実ではありませんが、彼らにとっては真実などどうでもいいのです。自分たちのメンツが大事なのです。神の言葉に従うよりも、自分たちが尊敬され、自分たちに民が従うことが大事なのです。そのためにはイエスは邪魔なのです。何としても亡き者にしなければならないと彼らは決断したのです。
 彼らはもはや神に立ち帰ることもなければ、神に従って生きることもありませんでした。自分たちの権威のために教え、儀式を行うだけになってしまっていました。そこで神は、イエス キリストによって新しい神の民、新しいイスラエルを起こされたのです。それがキリストから始まるキリスト教会です。
 ただこれは、神がイスラエルを捨てられたということではありません。パウロユダヤ人の救いについて「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」(ローマ 11:32~36)と記されているとおりです。

 わたしたちにとって最も大切なのは、神に立ち帰り、神と共に生きることです。それは、イエス キリストの救いに与る以外にはできません。罪が潜んでいる自分の善悪に従っている限りできないのです。イエス キリストの救いに与り、キリストの恵みに満たされていくとき、わたしたちは罪を超え、死を超えて、喜びをもって神の許へと立ち帰ることができるのです。

ハレルヤ

 

ルカによる福音書 22:63〜71

2018年2月4日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:63~71(口語訳)

 

 イエスは逮捕され、大祭司の邸宅に連れて行かれました。そこで夜明けまで、イエスは監視されたままで置かれます。
 66節に「議会」とありますが、新共同訳聖書では「最高法院」と訳されています。最高法院は、祭司、律法学者、長老から選ばれた70人の議員、そして議長を加えた71人から成るユダヤの最高議会です。この最高議会は、夜中に行うことを禁じられていたため、イエスは夜明けまで監視されたまま置かれていました。

 その間、監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりして、イエスを嘲り続けていました。
 18章31節以下で、イエスは十二弟子にこう言われました。「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう」と言って、ご自身の苦難について「人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」と言われました。
 イエスは自分の道の先に、苦難が待っていることを知りながら、歩まれました。それは、罪人を救うという神の御心を成し遂げるためでした。

 夜明けと共に裁判が始まります。今は過越の祭の最中です。それでもイエスを死刑にしたいエルサレムの指導者たちは、事をすみやかに進めるために夜明けと共に裁判を始めます。
 長老、祭司長たち、律法学者たちは集まり、イエスを議会に引き出し尋ねます。「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい。」
 キリストというのは、ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したもので、「油注がれた者」という意味です。神が預言者や王など、神の務めのために油を注いで聖別した者を指します。それが時代を経るにしたがって、神が最後にお遣わしになられる救い主を表す言葉となっていきました。
 「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい。」彼らは、神を冒涜した罪で、イエスを死刑にしようとしているのです。
 イエスは答えます。「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。また、わたしがたずねても、答えないだろう。」

 わたしたちの信仰は、神と共に生きる信仰、神との交わりに生きる信仰です。語りかけられる神の言葉に応える信仰です。ですからわたしたちの礼拝は、聖書朗読と説教を聞いた後に、信仰告白をもって神に応答するのです。
 イエスは、自分を訴えるための証拠を得るために質問されても、丁寧に答え、神の御心を明らかにし、教えてこられました。
 エルサレムに来られてからも、毎日神殿で教えておられました。20章1節以下にこう書かれています。「イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、イエスに言った、『何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください』。そこで、イエスは答えて言われた、『わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。ヨハネバプテスマは、天からであったか、人からであったか』。彼らは互に論じて言った、『もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう』。それで彼らは『どこからか、知りません』と答えた。イエスはこれに対して言われた、『わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい』。
 彼ら指導者たちには神の御心を聞き取り、民に教える務め、責任がありました。しかし、彼らは自分たちの都合のためにその務めを放棄し、分からないことにしてしまいました。神に託された務めを放棄し、神に応答しない者は、神が裁かれるでしょう。わたしたちの教会では、この務めは小会・中会・大会が担います。これらの会議を構成する牧師と長老の責任は重いのです。その務めを侮るとき、神の裁きを受けることを覚悟しなければなりません。

 イエスはこの自分の命の掛かった裁判で、「しかし」と言って語り出されます。「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。そこで彼らは尋ねます。「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われます。「あなたがたの言うとおりである」。すると彼らは言います。「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。

 70節の「あなたがたの言うとおりである」というところは、新共同訳や今年出版予定の新しい翻訳「聖書協会共同訳」では「わたしがそうだとは、あなたがたが言っていることだ」と訳しています。一見すると、イエスは答えを避けられたように聞こえますが、これは自分たちが神の前で判断し、応答すべき事柄をごまかしている彼らに対して、「あなた方がわたしを見て聞いて判断すべきことだ」と問いかけておられるのです。
 そしてここでも彼らは自ら判断せず、「われわれは直接彼の口から聞いた」と言ってイエスにすべての責任を押しつけ、自分たちに不都合なイエスを亡き者にしようとするのです。

 イエスは、神の真実、罪人を救うという神の真実を証しするために、自らの命をかけて語られました。
 わたしたちは今、このイエス キリストの前に立たされています。主イエスはわたしたちの応答を待っておられます。

 罪ある者はそれをごまかそうとするか、沈黙をもってそれをながそうとします。けれど聖書が言うとおり「『しかり』を『しかり』とし、『否』を『否』と」しなければなりません。「そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる」からです(ヤコブ 5:12)。
 神が御業をなされました。神は語りかけられました。それに対してわたしたちはどう答えるのでしょうか。
 わたしたちは、礼拝において説教の後に信仰告白をします。神の言葉に対して、わたしたちはあなたの言葉をこのように聞きました、わたしたちはこのように信じます、と言ってまずイエス キリストがわたしたちの主であるということから始まって、告白をしてまいります。神と共に生きようとするとき、神の言葉、神の御業、そして神ご自身に応える、それがわたしたちに求められている信仰です。
 わたしたちの日常生活でも、聞いているのにそれに答えが来ない、対話が成り立たないとき、共に生きるということが難しくなってきます。神は言葉を発し、その言葉は出来事になします。その神にかたどってわたしたちは造られました。わたしたちは、神に応答していくとき、わたしたちの言葉は空しいものではなく、出来事となる信じることのできるものとされていくのです。

 イエス キリストは、聖書を通して今わたしたちに語りかけ、問いかけておられます。わたしたちは今、イエス キリストに何と答えるのでしょうか。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 64

マタイによる福音書 7章 13, 14節(新共同訳)

 「狭き門」、入試などの際によく聞く、多くの人が知っている言葉である。
 イエスが言われる狭き門は、命に通じる門。それに対し、滅びに通じる門は広く、その道も広々としている。多くの人は広い門をくぐる。しかしイエスは「狭い門から入りなさい」と言われる。
 イエスヨハネ 10:9で「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」と言われた。またヨハネ 14:6では「「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた。つまりイエス キリストご自身が「狭き門」であり「永遠の命へと通じる道」なのである。
 「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ 11:9)イエスはわたしたちを救いへと招いておられる。

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

聖句による黙想 19

マルコによる福音書 12章 29~31節(新共同訳)

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」


 ある律法学者に「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と問われたときのイエスの答えである。
 イエスは、旧約の戒めの中心にあるものは、二つの愛であることを指摘された。
 巷では、「旧約の神は怒りの神、裁きの神で、新約の神は愛の神、赦しの神である」などと言われたりするが、それは全くの間違いである。
 戒めは、神と共に生きるためのものである。その中心は、二つの愛であり、真に神であり真に人であるイエス キリストが、その二つの愛を体現し成就された。
 聖書は、旧約聖書新約聖書の2冊あるのではなく、聖書(Bible)は1冊であり、その中にイエス キリストを指し示す旧約(Old Testament)とイエス キリストを証しする新約(New Testament)がある。旧約聖書の神と新約聖書の神がいるのではなく、父子聖霊なる三位一体の唯一の神がおられる。そして、神は愛である(1ヨハネ 4:16)。

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 72

出エジプト記
18章 24~26節(新共同訳)

 

モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、
イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。
こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。


 モーセの舅は異邦人である。異邦人の勧めが、イスラエルの統治のあり方となった。
 旧約は、閉塞的な民族主義ではなく、神が造られた世界に対して開かれている。