聖書の言葉を聴きながら

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自己への視点 −キリスト教人間学−

中村博武『自己への視点 −キリスト教人間学−』(2006年、聖公会出版)読了。


 著者は、プール学院大学短期大学部教授(当時)。
 「キリスト教人間学」のテキストとして書かれたもの。学生の関心が高かった自己理解と人間関係のあり方の視点からキリスト教を見ている。
 自己理解については、「生命史からみた自己」「生育歴からみた自己」「宗教からみた自己」など多角的に自己を理解しようとする試みがなされ、人間関係のあり方については、愛をテーマに考察している。
 授業を受けてみたかった。

 

ヨハネによる福音書 1:35〜42

2019年2月3日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:35〜42(新共同訳)

 

 ある日、ヨハネは二人の弟子と一緒にいたとき、歩いておられるイエスを見つめて「見よ、神の小羊だ」と言います。
 それで二人の弟子は、イエスについて行きました。

 するとイエスは振り返り「何を求めているのか」とお尋ねになりました。すると二人は「先生(ラビ)、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねます(ラビ:ユダヤ教の教師に対する敬称)。
 なんとも間の抜けたような答えに聞こえます。しかしこの言葉には「何に根ざしておられるのですか」また「何につながっておられるのですか」という意味が含まれています。ヨハネはこの表現に二重の意味を持たせて書いています。つまり、二人が付き従うためにイエスの滞在先を知りたいということと、イエスがどういう根拠で活動しておられるかを尋ねたということの二重の意味を持たせているのです。

 イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言われます。
 そこで二人はイエスについて行きます。
 福音書は「どこにイエスが泊まっておられるのかを見た」と書いていますが、これもイエスがどこに寝泊まりして活動しておられるのかを知ったという意味と、この日イエスと一緒に過ごしてイエスが誰とつながり、何に根ざして活動しているのかを知ったというのと二重の意味を持たせています。

 その日、二人はイエスのもとに泊まりました。午後4時頃のことだと福音書は書いています。当然二人はイエスに問いかけ、イエスとたくさん話をしただろうと思います。そしてイエスとの対話において、彼らは問いの答えを得たのです。
 だから、二人の内の一人シモン・ペトロの兄弟アンデレは、「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア(油を注がれた者)に出会った」と言ってシモンをイエスの許へと導くのです。
 アンデレは、兄弟シモンをイエスに引き合わせなければと思いました。彼はイエスと話したことによって、イエスが神とつながり、神に根ざして活動しておられることを確信しました。

 シモンをイエスのところへ連れて行くと、イエスはシモンに「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩)と呼ぶことにする」と言います。
 ケファというのは当時ユダヤで話されていたアラム語で「岩」という意味です。新約は、当時の地中海世界の共通語であったギリシャ語で書かれています。ギリシャ語で「岩」は「ペトロス」というところからペトロという名前で呼ばれるようになりました。

 改名は日本でも新たな出発の際に行われます。例えば、元服をして幼名から新しい名前をもらって一人前として新たに生き始める、ということが行われていました。ペトロも、イエスご自身から新しい名前をもらい、イエスとの出会いから新たな人生が始まりました。
 ペトロのエピソードは、福音書にいろいろ出てきます。イエスから問われ、「あなたはメシアです」と信仰告白をする(マルコ 8:26)。イエスから十字架の話を聞き「そんなことがあってはなりません」とイエスをいさめ、「サタン、引き下がれ」と叱責される(マタイ 16:22, 23)。イエスの逮捕の際には、逮捕に来た者の耳を切り落とす(マタイ 26:51)。イエスが心配で大祭司の官邸までこっそり着いていくが、イエスを三度知らないという(ルカ 22:54~61)。聖霊降臨の後は、人々に説教をし(使徒 2:14~40, 3:11~26)、各地を巡回し異邦人伝道の道を開きます(使徒 10章)。
 人間的な失敗もあるペトロです。パウロに叱責されるようなこともしてしまいます(ガラテヤ 2:11~13)。けれどもイエスに名付けられたように、信仰の岩として働きます。
 カトリック教会では、ペトロを初代のローマ司教であると考えています。伝説ではローマで殉教したと言われています。ポーランドの作家シェンキェヴィチは、この伝説をもとにして『クォ・ヴァディス』という小説を書いています。
 またヨーロッパなどではしばしば聖書の人物から名前をつけることがありますが、ペトロ由来の名前を耳にされたことも多いと思います。英語ではピーター、フランス語はピエール、イタリア語ではピエトロ、ドイツ語はペーター、スペイン語ポルトガル語だとペドロ、ロシア語ではピョートルと言います。
 聖書を通してペトロの信仰も代々に語られるようになりました。イエス キリストとの出会いがペトロの人生を一変させ、全く新しいものとしたのです。

 さて、きょうの箇所の核となるのは「来なさい。そうすれば分かる」という言葉です。つまりキリストに出会うということです。ヨハネの二人の弟子も、イエスに触れ、語らう中でイエスが誰であるかを知りました。そして二人の内の一人アンデレは、兄弟ペトロをイエスに会わせようと連れてきました。イエスに出会ったペトロは、イエスから新しい名前をもらい、キリストの使徒としての新しい人生を歩み始めました。
 キリストの弟子たちの業は、人々をキリストに出会わせるためになされます。何のために教会を建て、礼拝をするのか、何のために伝道するのか、すべてはイエス キリストと出会うためです。
 たとえどんないいお話を礼拝で聞いたとしても、キリストに出会わないなら、感動したお話しもいつかは忘れ、人生を支え導くことはありません。まことの救い主であるイエス キリストに出会うこと、イエス キリストを知ることが大事なのです。

 わたしたちは今、聖書を通して聖霊の働きによってキリストと出会います。
 パウロはこう言っています。「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント 5:16, 17)。パウロの言うように、ほとんどのキリスト者は肉においてキリストを知ることなく、聖霊の働きの内にキリストと出会い、キリストを知り、その救いにより新しく神の子とされたのです。キリストに出会い、キリストによって救いを知り、神の愛を知るのです。キリストによって新しくされ、救いの中で新しく歩み始めるのです。

 福音主義教会(プロテスタント)は宗教改革の伝統に立つ教会ですが、宗教改革は礼拝改革であったとも言われます。わたしたちは礼拝において、キリストと出会い、神を知るのです。礼拝を通してキリストの救いに与り、新しくされて生き始めるのです。礼拝はキリストと出会い、神の奇跡が行われる所です。伝道は人の力や工夫でなされるものではありません。キリストがその人に臨んでくださり、キリストと出会う、そこに救いが生まれるのです。
 聖書は告げます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ 11:9, 10, 13)。
 イエスは求める者すべてに答えてくださいます。「来なさい。そうすれば分かる」。
 教会へと導かれたすべての人が、イエス キリストと出会うことができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちと出会うために、わたしたちがあなたを知るために、ひとり子イエス キリストを人としてお遣わしてくださったことを感謝します。
 ヨハネの弟子たちがイエスの「来なさい。そうすれば分かる」という言葉に従ってついて行き、確信を与えられたように、わたしたちもキリストに従い、確信を与えられ、新しくされ、キリストの弟子として仕えることができますように。喜びをもってキリストに導かれて救いの道を歩んでいけますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

聖書通読のために 87

マタイによる福音書 10章 21~23節(聖書協会共同訳)


 イエスに従うのがためらわれるような言葉が語られる。
 わたしも牧師になるため神学校に行くと言ったとき、父と大げんかになった。「お前とは親でも子でもない」と言われた(実際はそうはならなかったが)。
 イエスに従うがゆえに生じる困難は確かにある。果たしてイエスのように自分に向けられる敵意に対して、神に執り成すことができるだろうか。赦しを求めることができるだろうか。最後まで耐え忍ぶことができるだろうか。自信は何もない。
 逃げることが許されている。その時がいつかは、祈って神の声を聞かねばならない。
 イエスは弟子たちに「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」(マタイ 6:13)と祈るように教えられた。無理ややせ我慢が勧められている訳ではない、とわたしは思う。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句による黙想 45

ガラテヤの信徒への手紙 3章 14節(聖書協会共同訳)


 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした。


 この14節は、13節「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖いだしてくださいました」の理由として書かれている。
 キリストが呪いを一手に引き受けてくださったので、祝福が神の民イスラエルだけでなく異邦人にまで及ぶようになった。そして父なる神がイエス キリストの名によって遣わされる聖霊ヨハネ 14:26)を信仰によって受けられるようになった。
 救いには父・子・聖霊なる神がそのすべてをもって関わってくださり、わたしたちをその交わりの中に入れてくださる。
 そしてアブラハムに与えられた祝福「あなたは祝福の基となる。・・地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される」(創世記 12:3)を受けることにより、憎しみの連鎖と言われるこの時代の中にあって、祝福の連鎖を生み出す者とされるのである。


ハレルヤ

 

聖書 −日々味合う最高の世界遺産−

佐藤邦宏『聖書 −日々味合う最高の世界遺産−』(1999年、燦葉出版社)読了。


 著者は、1932(昭和7)年生まれ。日本福音ルーテル教会の牧師をされ、日本聖書協会の総主事を務められた。
 著者がラジオのルーテルアワーで行っていた「聖書入門通信講座」をもとに書かれた「キリスト教入門 通信講座」を書き改めたもの。聖書を神の「創造の意思」というキーワードで読み解いていく。義と霊についての話は教えられた。読んでよかった。