聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 5:9b〜17

2020年6月7日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:9b〜17(新共同訳)


 エルサレムには羊の門の傍らに「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。
 この池には言い伝えがあって、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあって、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても癒やされる、というのです。
 ですから池のそばの回廊には、癒やしを求めて「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわってい」ました。

 「そこに38年も病気で苦しんでいる人が」いました。何の病気かは分かりませんが、自分で自由に動くことのできない状態だったようです。
 「イエスは、その人が横たわっているを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と」言われました。
 彼は答えます。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」彼の答えは諦めを自分に言いきかせる言葉でした。
 しかしイエスは、人の望みの尽きるところに救いの道を開かれます。イエスは彼に言われます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、彼はすぐに良くなって、床を担いで歩き出しました。

 この日は安息日でした。この場面では、安息日は土曜日です。正確には金曜日の夕方日没から、土曜日の夕方日没までが安息日でした。そして日本キリスト教会小信仰問答 83問にあるように「キリストの復活後、教会はこれを記念して、週の第一日を主の日とし、これを安息日として守るようになりました。」
 安息日の戒めで代表的なのは十戒の第四戒です。出エジプト記 20:8~11と申命記 5:12~15に記されています。そこには「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト 20:10、申命記 5:14)とあります。驚くべき戒めです。主の安息に奴隷も家畜も寄留者までも与るのです。誰かを働かせて自分は礼拝を守るのではないのです。奴隷にも家畜にも寄留者にも、神の名によって休息が保証されているのです。

 しかしこの驚くべき戒めを、罪人の熱心は窮屈な重荷にしてしまいます。
 癒やされた男を見たユダヤ人たちは「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」と注意しました。
 癒やされた男は言います。「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです。」彼にとっては38年間誰も直すことのできなかった病を癒やしてくれたイエスの言葉に従うのが当然でした。
 その後彼は神殿の境内でイエスに再び出会います。イエスは言われます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」イエスは彼が神を喜んで歩めるように、神から離れずに歩んでいけるように語ります。

 この後彼は自分に注意したユダヤ人たちに、自分を癒やしてくれたのはイエスだと知らせます。彼には「自分を癒やしてくれたのはあんたたちじゃなくてイエスなんだ」と言いたい気持ちがあったかもしれません。その彼の気持を感じかどうかは分かりませんが、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めました。
 迫害に対し、イエスはこう言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」

 十戒の第四戒では「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト 20:10、申命記 5:14)と言われています。しかしイエスは父なる神は今も働いておられ、わたしも働く」と言われます。
 安息を表すヘブライ語「シャバット」は元々「中断する」という意味です。神は創造の御業を中断し、七日目に被造物が神の許に立ち帰り、神に癒やされる救いの業をなしておられるのです。
 だからイエスはこうも言われました。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ 2:27)安息日には神との出会いがあり、救いが示されるのです。
 だから癒やされた彼との再会が神殿の境内であったのは偶然ではありません。イエスは神殿で彼に出会い、神を指し示して「もう、罪を犯してはいけない」と彼の救いのために語られたのです。

 安息日が中断であることを、わたしは神学生時代にご指導頂いた登家勝也(とか かつや)牧師から教えて頂きました。先生曰く「安息日は中断だよ。普段、月曜日から土曜日まで考えている君の思考・思想を中断して、日曜日には神の言葉を語るんだ。」
 つまり、自分の言いたいことのために御言葉を引用し、利用するのではなく、神が御言葉を通して今語ろうとしておられることを聞き取って伝える、それが説教です。神学校を卒業してから今に至るまで、そのことを思いつつ説教の準備をしてきました。神の声が聞こえるように、神に出会えるように、神が差し出していてくださる救いを受け取ることができるように、その奇蹟を神が起こしてくださることを祈り願って礼拝に仕えます。

 安息日、主の日、日曜日に、教会では神と出会い、神から救いを受け取るのです。わたしたちも主の安息、神の中断に与って、日常を中断し、救いの中に招き入れて頂くのです。そのために神が、礼拝も、御言葉も、聖晩餐も、祈りも、讃美も、祝福も与えてくださるのです。神がこの日、わたしたちの救いのために御業をなしていてくださっています。キリストもまた「だから、わたしも働くのだ」と救いのために働いておられます。聖霊も聖書が神の言葉として聞かれるように、そして救いがわたしたちのものとなるように働いていてくださいます。今も主は生きて働いておられます。だからわたしたちはきょう、救いに与ることができるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの救いのためにきょうも御業をなし、働いていてくださることを心から感謝します。どうかこの日、あなたの救いの恵みに与ることができますように。イエス キリストに出会い、あなたを知り、父・子・聖霊の愛と命の交わりの内に生きることができますように。どうかあなたにある喜びと希望を増し加えてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン