聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 1:1〜4

2019年5月22日(水)祈り会
聖書箇所:ローマ 1:1~4(新共同訳)

 

 主日礼拝で、ローマの信徒への手紙を前の教会からの続きで、8:18から始めましたが、祈り会で 1:1〜8:17 までを話してほしいとの要望がありましたので、きょうからローマの信徒への手紙の話をさせて頂きたいと思います。

 

 さて、このローマの信徒への手紙は、パウロの自己紹介から始まります。パウロはまだローマに行ったことはありません。しかし彼は、地の果てまで福音を伝えたいと願っていました。1:15では「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」と語り、15:28では「あなたがたのところを経てイスパニア(スペイン)に行きます」と述べています。
 ローマの教会は、ローマに住むユダヤ人たちを核として始まりました。ですから、どうしても律法を重んじるユダヤ教の影響が残ります。パウロはそのようなローマの教会の様子を耳にして、律法の遵守によって義とされるのではなく、キリストの救いの御業によって義とされるキリストの福音を伝えることを願い、この手紙を書きました。

 パウロはこの手紙をこのように書き出します。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」(1節)
 自己紹介は、相手に自分を知ってもらうためにします。まだ見ぬ教会の人たちに自己紹介をするのに、パウロは「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と書いています。

 まずパウロは自分がイエス・キリストの僕であることを明らかにします。僕という単語は普通「奴隷」と訳されます。奴隷は主人の意思をなすために働きます。ですから、パウロは自分の主人であるイエス キリストの御心をなすために仕えていることを「僕」という言葉で表しています。
 パウロがキリストの僕とされたことについて「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と述べています。「福音」という言葉が出てきます。福音とは「よい知らせ」という意味です。「神の福音」とは、神がわたしたちのために用意してくださったよい知らせ、という意味です。ですからここは、「わたしパウロは、神がわたしたちのために用意してくださったよい知らせを伝える務めのために選ばれ、キリストに召し出されてこの務めを果たしている」ということを述べています。「使徒」という言葉は、遣わされた者という意味です。

 そして「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」(2節)と福音について語り始めます。この神が用意してくださったよい知らせは、昔から預言者たちによって語られ、旧約の中に記されているもの、神によって約束されていたものだ、と語ります。つまり、今、自分が勝手に語るのではなく、遙か以前から神が約束していてくださるものである、と言っています。

 そしてこの福音は「御子に関するもの」で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」(3, 4節)とパウロは語ります。
 「肉によれば」の部分は、「聖書の中で、あらかじめ約束されたもの」として語られています。歴代誌上 17:11〜13で、神はダビデにこう約束されました。「あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしはあなたに先立つ者から取り去ったように、彼から慈しみを取り去りはしない。」この約束のとおり、神はダビデの子孫から救い主を生まれさせてくださいました。マタイによる福音書ルカによる福音書は、イエス キリストの系図を載せて、それを証ししています。
 そして「聖なる霊によれば」の部分は、神が救いの御業を成就してくださったことを語っています。復活というあり得ない出来事において、イエス キリストが「力ある神の子」であることを確証してくださったのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の言葉(マルコ 1:11、マタイ 3:17、ルカ 3:22)を復活という出来事を通して神ご自身が証しされたのです。十字架では、弟子たちは躓き逃げてしまいました。しかし復活の主に出会って、イエスは救い主であることを、改めて信じることができました。パウロはそれを受けて、聖なる霊によればこのイエス キリストは、死人からの復活により、力ある神の御子であると確定され、明らかにされた、と述べています。
 この神の御子イエス キリストこそ、神の福音、神がわたしたちのためにもたらしてくださったよき知らせそのものなのです。
 パウロはローマの教会の人々、まだ会ったことのないローマの人々に、神の福音であるキリストのよき知らせを正しく伝えるためにこの手紙を書いたのです。

 最後に「主」について触れておきます。4節に「この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と書かれています。パウロがこの手紙を書いた時代、主がいるということは当たり前のことでした。奴隷がいて、主人がいる。領主がいて、国王がいる。この手紙の宛先であるローマにおいて、主と言えば、ローマ皇帝でした。その当たり前の世界に向かって、わたしの主はイエス キリストであって、わたしはキリストの僕、奴隷である、と宣言しているのです。これは迫害のきっかけにもなりかねない危険な言葉です。
 神の福音には、罪を抱えたわたしたちを揺さぶり、罪の世を揺さぶり変えていく力があります。ですから、神の福音は抵抗を受け、ときに迫害されます。
 ところで、現代の日本は主人をほとんど意識することのない社会です。ですが、罪は自分自身を主とします。多くの人が、自分の人生の主人は、自分自身だと思っています。わたしの人生をどう生きるかはわたしの自由だと思っています。そのような中で、キリストを主とする神の福音は敬遠され、拒否されがちです。
 いつの時代も、罪の世は神の御業に敵対します。しかし、どのような時代、どのような社会であっても、神の言葉が空しくなることはありません。神の約束がイエス キリストにおいて成就したように、神の言葉は出来事となり、実現していきます。神の国が到来するその日まで、神の福音はわたしたちを、そしてこの世界を変えていきます。わたしたちの教会は、神の福音に従う信仰を込めて「御言葉によって改革され続ける」という言葉を旗印にしてきました。

 日本キリスト教会信仰の告白が最初に告白するのも「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」です。パウロと同じように、わたしたちも「わたしたちの主はイエス キリストである」と告白しています。時代が穏やかなときには、お題目のように唱えているだけのように思われるかもしれません。しかし、この言葉は罪にとっては危険な言葉、わたしたちを神の子と変えていく力ある言葉です。

 今、わたしたちもパウロと同じようにキリストに従うキリストの僕です。わたしたちも神の選びを受け、神に召し出されて、今ここに集っています。そして、キリストの僕パウロが書いた手紙を、わたしたちも聞き始めました。ローマの教会の人々と同じように、今わたしたちもこの手紙を通して、イエス キリストが誰なのか、イエス キリストの御業はいったい何だったのか、を聞いていきます。2000年の時を超えて、神が自らの言葉として選び用いられたこの手紙を通して、神ご自身がわたしたちに語りかけておられます。そしてわたしたちは、今もわたしたちの救いのために語りかけてくださる生ける真の神を知るのです。

 

ハレルヤ

 

父なる神さま
 この手紙を通して神の福音であるイエス キリストを知ることができますように。この教会において、キリストに出会い、あなたが与えてくださる救いに与ることができますように。どうかあなたから来る喜びと希望に満たされて、神の国への道を歩み行くことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン