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ローマの信徒への手紙 11:33〜36

2020年8月23日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 11:33~36(新共同訳)


 人は時間をかけて成長していきます。信仰も同じです。パウロは、復活のキリストが出会ってくださるという劇的な体験をして回心しました。けれど、これで神の御心のすべてが分かった訳ではありません。回心の後、パウロはアラビアに行き、3年間主に従う準備の時を過ごしました。それからエルサレムに行き、ペトロや主の兄弟ヤコブに会いました。そしてシリアやキリキア地方で伝道を開始します(ガラテヤ 1:17~21)。

 神の導きによって一つひとつ経験をし、神の御心、神のご計画を考えさせられてきました。アジア州で伝道しようと考えていたときも、聖霊によって禁じられました。ビティニア州に入ろうとしたときも、イエスの霊がそれを許しませんでした。その後パウロは、マケドニア人が「来て、助けてください」という夢を見て、神が召しておられると確信しました(使徒 16:6~10)。かつて回心を経験することになったダマスコに行くときもそうでしたが、パウロは神のために熱心であろうとしていました。しかし神は、パウロの熱心ではなく、神にご計画があり、それに従わなければならないことをパウロに示されました。

 このローマの信徒への手紙も長い手紙です。どれほどの日数を掛けて書いたのでしょうか。おそらく書きながら、言葉を探す中で、気付くこともあったでしょう。おそらくきょうの箇所がそういう箇所だと思います。

 パウロが「あぁそうだったのか」とはっきり気付かされたのが、32節です。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」
 パウロユダヤ人です。ベニヤミン族の出身で、ファリサイ派の薫陶を受けたユダヤ人の中のユダヤ人です(フィリピ 3:5~6)。この頃は、イスラエルこそ神の選びの民、イスラエルは救いへと導かれ、異邦人は救いの対象外だと思っていました。それが復活のキリストによって回心させられ、異邦人の使徒としての務めを与えられてからは(ローマ 11:13)、神が異邦人も救おうとしておられることを知りました。
 そしてまだ行ったことのない、会ったことのないローマの信徒たちのためにこの手紙を書こうと思い立ち、長い時間をかけて書きました。わたしたちの手にしている聖書で25ページにも及ぶ手紙です。パウロは新しくキリストを信じたきょうだいたちが自分が陥ったような間違いに陥ることがないように、3〜8章でキリストを信じることを通して与えられる神の義について丁寧に語りました。9〜11章では、パウロが心にかかるイスラエルの救いについて書いてきました。
 まだ会ったことのないローマの人たちにきちんと伝わるように丁寧に考え語ってきました。救いについて考え、裁きについて考え、選びについて考えました。ファリサイ派時代の信仰、キリストに出会ってからの歩み、神によって伝道の道がふさがれ、自分が思っていたのとは違う道へと導かれたこと、色々なことを思い起こし、神の御心を思い巡らしました。

 そして最後導かれた思いが32節でした。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」これはパウロにとって驚くべき考えでした。それが33節の「ああ」に表れています。何と神はすべての人を憐れもうとしておられるのです。
 パウロはずっと神に選ばれた者と選ばれていない者、神に喜ばれ祝福される者と裁かれる者というように、人を分けて理解してきました。しかし神は、すべての人を憐れもうとしておられる。憐れむために御業をなし、すべての人を不従順に閉じ込められました。
 パウロは何度も何度も繰り返し問いかけ考えたことでしょう。「そんなことがあるのだろうか」。そして、その度に思い起こしたことでしょう。キリストを理解できなかったこと。伝道の計画も神の計画とは違っていたこと。自分の確信も熱心も神の御心とは違っていた。神を理解し尽くすことはできない。自分の考えで神を包み込むことはできない。33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」32節「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。
 「神の富」とは、神が与えようとしておられる救いの恵みの豊かさを現しています。そしてそれを与えるための神のご計画を「知恵と知識」と言っています。神の救いの恵み、それを与えるための神のご計画は、余りに豊かで余りに深い。一体「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」か。

 ここに至って、パウロは何度も読み、よく知っている旧約の言葉が自分に向けて語られた神の言葉であることに気付きます。34~35節「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」これらはイザヤ 40:13、ヨブ 15:8, 41:3から引用し、まとめたものです。誰も主の御心を知り得ず、誰も主の相談相手になって助言することもなく、誰かが先に主に与えるなどということもなかった。自分は既に聞いていた。知っていた。でも主の御心を自分は理解していなかった。それなのに自分は分かっているとずっと思い込んでいた。そのわたしために、神はキリストを遣わしてくださった。キリストは十字架を負ってくださった。復活してくださった。そしてこのわたしに出会い、回心させてくださった。使徒としての務めを与えてくださった。

 パウロは圧倒されます。すべての存在の根源である方が、すべての人を憐れもうとされる神が、迫ってきます。まるで今、パウロには神の御業が見えているかのようです。それが36節です。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」
 実はこの箇所、動詞がありません。「一切は神から、神により、神へと」(田川建三版)あるいは「すべてのものは彼から、彼によって、そして彼へと」(岩波書店版)となっています。翻訳をした人たちは、パウロの似た表現、例えば1コリント 8:6などを参考に補って訳したのでしょう。

 すべては神から、神によって、そして神へと導かれていきます。その神の御業、そしてそれを願われる神ご自身の前に立つとき、パウロには讃美の言葉しかありません。「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。

 聖書で「栄光」は、神が救いの神であることが現れること、明らかになることを表します。神以外に神はなく、神以外に救いの御業をなしてくださる方はありません。救いは神なしには起こりません。神がその栄光を現してくださり、とこしえまでも救いを求める者が神を仰ぎ見、神に出会うことができますように。すべての人を憐れもうとしておられる神の思いを知ることができますように。自分に神の救いは必要ないと拒絶してしまう罪が拭い去られ、清められますように。

 神の御心が明らかになるとき、独り子を遣わしてまですべての人を憐れもうとされる神の御心が明らかになるとき、パウロは自分が、神の民が、イスラエルもキリストの教会も、語り尽くすことのできない神の救いの御業のただ中に入れられていることを知ります。神の救いのご計画、そして救いの恵みは、パウロの欠けも弱さも愚かさもすべてを包み込んで神の喜びで満たしていきます。
 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」


ハレルヤ


父なる神さま
 計り知ることのできないあなたの愛と救いのご計画を、わたしたちに知らせてくださる恵みに感謝します。パウロが繰り返しあなたを知っていったように、わたしたちも生涯あなたと新たに出会い、喜びをもってあなたを知っていくことができますように。どうかあなたがすべての人を憐れもうとしておられることをすべての人が知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン