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詩編 148:7〜14

2021年2月10日(水) 祈り会
聖書:詩編 148:7〜14(新共同訳)


 きょうは148篇の後半です。
 この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)があります。

 1節の2行目に「天において」とあります。そして7節に「地において」とあります。後半は、地にあるものたちに讃美を呼びかけています。この詩篇は、神が造られた世界の天においても、地においても、讃美で満たされ、世界がすべて神を喜ぶことへと導こうとしています。

 7節「地において  主を賛美せよ。/海に住む竜よ、深淵よ」
 地にあるものの最初になぜ「海に住む竜」が言われているのか。それは「海に住む竜」が地にあるもので最初に創造されたものとして記されているからです。
 創世記 1:20~23に五日目の創造が記されていますが、そこでは水の中の生き物、空の鳥が創造されます。1:21を見ますと「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに・・」とあります。7節の「海に住む竜」は創世記 1:21の「大きな怪物」を表しています。
 この「海に住む竜」を注解書を見ますと、「原始の混沌を象徴する海の怪物」(月本昭男)と記されています。そして詩編イザヤ書を引用して、神が竜、ラハブ、レビヤタンといった創世神話に出てくる怪物を打ち破られたことを記している箇所を示しています。(例えば、詩編 74:13「あなたは、御力をもって海を分け/大水の上で竜の頭を砕かれました。」、イザヤ 27:1「その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される。」、イザヤ 51:9「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、主の御腕よ。/奮い立て、代々とこしえに/遠い昔の日々のように。/ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは/あなたではなかったか。」)
 深海調査船がある現代と違い、古代の人たちにとって、海は混沌の象徴でした。これらの表現は、混沌も神の御手の内にあるという信仰の告白です。創世記 1:2には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と言われています。創世記1章は、混沌の世界に神は語りかけ、神が見て「よかった」と言われる世界を造られていったことを表しています。ですから7節は、創造の始め、五日目に造られた竜も、混沌の象徴である深淵も、神を讃えよという呼びかけです。

 8節「火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ」
 後半は、前半と違い、一つひとつに「主を賛美せよ」を付けていません。
 神が造られた自然、そのあらゆる姿が神を讃えるようにと語ります。
 「御言葉を成し遂げる嵐」という表現があります。嵐はできることなら出会いたくないものです。海を航海している最中に嵐と出会ったら、死を覚悟しなければなりません。しかしその嵐に対しても、詩人は「御言葉を成し遂げる」と語ります。人間にとって喜ばしくないものも、人間の思いを超える神の御心があり、それを成し遂げるという信仰です。
 最近の福音時報日本キリスト教会の月刊誌)などで、新型コロナウィルスがもたらした良い面を指摘する文を見かけるようになりました。詩人は、神が造られたすべてのものに神の御心があり、神が造られたすべてのものは神を誉め讃え、神の栄光を現すようにという信仰を持っています。
 『こどもさんびか 改訂版』113番2節に「おおじしんも あらしも いなびかりも/つくられた方に 助けもとめる」という歌詞があります。わたしはこの歌詞にあまりピンときてなかったのですが、今回148篇を読んで、自分の信仰がまだまだ小さいことを思わされました。
 すべての造られたものは、神の御手にあり、神を誉め讃える喜びに与れるのです。(ローマ 8:19~21「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。・・被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」)

 9節「山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ」山も丘も植物も。
 10節「野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ」動物も鳥も。
 11節「地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ」地にあるすべての民も、世を治める務めに立てられている者たちも。
 12節「若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。」幼き者も、若き者も、年老いた者も、男も、女も。
 13節「主の御名を賛美せよ。/主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。」
 「主の御名はひとり高く」は、主の祈りの「御名が崇められますように」(御名が聖とされますように 聖書協会共同訳)(マタイ 6:9)と同じ内容を示しています。主の御名は他の名前と同列に並べることができないのです。すべてを造り、治め導いておられる主の御名は、特別なのです。そして、信仰の目が開かれ、神の御業に気づかされた詩人の目には、神の「威光は天地に満ちている」のです。

 14節「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。/それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。/主に近くある民、イスラエルの子らよ。/ハレルヤ。」
 「角」は力の象徴です。ある聖書の註では、この角を「民の繁栄」と理解する者もいるし、「メシア的意味」に理解する者もいる、と言っています(フランシスコ会訳)。
 詩人がこの詩篇を詠ったときは、バビロン捕囚からの国の復興、角は「民の繁栄」を表していただろうと思います。しかし今、この詩篇が詠われてから二千数百年の時を経て、イエス キリストの十字架と復活を知るわたしたちにとって、「角」は単に神の民の繁栄ではなく、メシア的意味を持っているだろうと思います。

 イエスは、ヨハネによる福音書で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3:14~15)と言われました。ここで「上げられる」というのは、十字架を指しています。
 「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、出エジプトの最中、民が神とモーセに向かって「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか」と文句を言ったとき、神は「炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出」ました。民が悔い改めたので、モーセが神に執り成し祈ると、神は「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」と言われました。そこで「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(民数記 21:5~9)という出来事のことです。
 イエスはこの出来事を示して、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と言われました。罪を抱え、死に囚われているわたしたちが、わたしたちの救いのために祈りを献げてくださったイエス キリストの十字架を仰ぐとき、罪と死から救われることを言っておられます。
 それはまさに詩人が語った「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉」という言葉が指し示している事柄です。

 詩人は自分の讃美がイエス キリストの十字架を指し示しているとは知りません。しかし、この詩人の讃美をご自身の言葉として聖書に収めてくださった神は、ご自身の救いの御業を指し示す言葉としてくださいました。

 神の御業は天地に満ちています。神の栄光も天地に満ちています。神はご自分を示されるのに、創世神話も、そこに登場する想像上の生き物もお用いになります。当時の世界観の中で生きる古代の人たちに分かるように、語りかけてくださいました。
 そして、ご自分への讃美を、詩人が思うより遥かに広く豊かに用いてくださり、今この詩篇を読むわたしたちには、イエス キリストの救いを指し示す言葉として語りかけてくださるのです。
 詩人の言葉は、時を超え、すべての聖徒たちに向けて語られます。「主に近くある民、イスラエルの子らよ。/ハレルヤ(主を讃美せよ)。」


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの造られた世界が讃美で満たされますように。あなたの栄光が満ちあふれますように。代々の民と共にわたしたちもあなたを指し示し、讃美へと招くことができますように。あなたと出会う一人ひとりが救いの喜びで満たされますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン