聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 5:22〜25

2020年7月5日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:22〜25(新共同訳)


 イエスは、弟子たちだけでなく、自分を殺そうと狙っているユダヤ人たちにも語ります。
 イエス安息日について「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(5:17)と言われたのを聞いて、自分を神と等しい者としているとしてユダヤ人たちはイエスを殺そうと狙うようになりました。
 イエスはその自分を殺そうとしているユダヤ人たちに対して、さらに自分が天の父と一つであることを語られます。
 前回のところでも「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」(5:19~20)と言われました。
 ヨハネによる福音書も、父なる神と御子イエス キリストが一つであることを証ししようとしています。福音書の冒頭から「言(イエス キリスト)は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1:1~2)と言い、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)と語っています。

 さてきょうの箇所ですが、イエスは「父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる」と言われます。イエスは、裁きが父から御子に委ねられていることが語られます。

 まず裁きについて考えてみましょう。裁きという言葉は、元々「正しく判断する」という意味です。それが、裁判官が委ねられた事案について正しく判断し判決を下すというところから、通常の裁きの意味になっていきました。教会で用いられる場合も、神の御心に従って正しく判断するという意味で使われます。
 ただ「神が裁かれる」と言うと、滅びとほぼ同じ意味で理解されることがありますけれども、それは違います。滅びの道を歩むことを止められない罪に対して、本当に滅んでしまわないようにと神が止めてくださるのが裁きです。聖書において裁きだと理解されている出来事も、滅ぼし尽くすことはなさらず、救いの業は裁きを超えて続いていきます。裁きが目指すのは悔い改め、神へと立ち帰ることです。そして神の救いの御業は裁きで終わるのではありません。

 その裁きを示す、ヨハネによる福音書の示し方は多面的です。きょうの箇所で言えば、ユダヤ人にとって終わりの日に神が最後の審判をされることは当然のことでした。ですから、イエスが「父は誰をも裁かず」と言われたのは驚きだったと思います。けれど、きょうの少し後 5:30では「わたしは・・父から聞くままに裁く。・・わたしは自分の意思ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするから」ときょうの箇所とは矛盾するようなことを言われます。

 きょうは、きょうの箇所でイエスが言おうとしておられることを聞いていきたいと思います。
 イエスが言っておられるのは、父なる神は救いの業をイエスに委ねておられるということです。
 裁きということで言えば既に 3:18で「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と記されています。イエス キリストご自身が救いそのものであり、イエスを信じないということは自ら救いの外に立つということです。
 先に裁きが目指すのは悔い改め、神へと立ち帰ることと申し上げましたが、ここでは「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるため」と言われています。父なる神が御子イエス キリストに裁きを委ねられたのは、父なる神・子なる神イエスが共に敬われるためなのです。
 イエス キリストを知るとき、救いを知ります。父なる神の御心を知ります。イエス キリストを信じて救いに入れられるとき、救いを喜び、イエスに感謝し、イエスを遣わされた父なる神に感謝します。イエス キリストこそ活ける神の言葉です。神は「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られ」(ヘブライ 1:2)ているのです。イエス キリストこそ裁きであり、救いです。

 イエスは24, 25節で「はっきり言っておく」と繰り返し言って救いの真実を明らかにされます。「はっきり」と訳されたのは「アーメン、アーメン」という言葉です。「アーメン」は「真実に」という意味で、「はっきり言っておく」は「真実に告げよう」という意味です。

 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
 神が救いのために遣わされたイエス キリストを信じ受け入れる人は、罪がもたらす死から救い出され、永遠の命へと入れられます。
 命は自分で獲得するものではなく、与えられるものです。自分の命であっても、命は自分で自由にできる所有物ではありません。命は、神が与えてくださった恵みです。そして永遠の命は、イエス キリストを信じることを通して与えられるのです。イエスの言葉を信じ受け入れることは、イエスを遣わされた命の造り主である神を信じ受け入れることです。
 「裁かれることなく」というのは、イエスを信じることは神から間違いだと正されることのない神の御心であることを示しています。イエスは、自分が裁きと永遠の命を託され、神から遣わされた救い主であることを明らかにされました。

 神は「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない」(ルツ 2:20)お方です。そして「キリストは、肉では死に渡されましたが・・霊において・・捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教」(1ペトロ 3:18~19)してくださるお方です。母の胎に宿り、人となってこの世に来られ、十字架の死の後、陰府にまでくだり、人の誕生から死、そして死後までそのすべてに救い主として来てくださいました。だから人生のどこででもイエス キリストと出会うことができるのです。
 そしてイエス キリストお一人だけがこう言うことができるのです。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
 神の救いの御業は、死ですら妨げることはできません。「見失った一匹を見つけ出すまで捜し」てくださる方は(ルカ 15:4)、死ですらも超えて命の言葉を語りかけてくださいます。無から命を造り出される神の言葉、死者を復活させる命の言葉が語られるのです。今、語られているのです。神と共に生きる命へと招く言葉が今、語りかけられているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちを救うために、救い主イエス キリストに裁きを委ねてくださいました。イエス キリストの言葉に救いがあり、裁きがあることを今聞きました。イエス キリストと出会うため、あなたは主の日ごとに礼拝へと招いてくださいます。今あなたが差し出していてくださる永遠の命に与り、あなたと共に歩むことができますように。どうか救いの道を歩む喜びを味わうことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン