聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

 「主に心を開いていただいて」(ルカによる福音書24:44~49からの説教)

以下は、昨日の礼拝で、長老によって読み上げて頂いた説教。

 「主に心を開いていただいて」

 

 2021年5月9日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 24:44〜49(新共同訳)

 

   復活されたイエスが、シモン・ペトロやエマオに向かった二人に弟子に現れたので、弟子たちが大騒ぎしていると、突然イエスが彼らの中に現れ「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは亡霊を見ているのだと思って驚いていると、イエスは亡霊ではないことを示すために、ご自分の手足を見せ、触らせました。さらにそこにあった焼き魚を、一切れお食べになりました。

 それから彼らに対して言われました。44節(間)「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」。

 このイエスが以前言われたことについては、ルカ福音書の18章31節から33節に、書かれています。「31イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。 32人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。 33彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」。 ご自身の十字架と復活、苦難と栄光は、既に旧約に記されていることで、すべては成就するのです。

 

 今日のところで言われている「モーセの律法と預言書と詩編」というのは旧約全部を指す言い方です。つまり、旧約において救い主について書いてあることは、イエスについて書いているのであり、イエス キリストにおいて、その言葉は成就するということです。      

 神の言葉、すなわち神の約束は、すべてイエス キリストにおいて成就し実現するのです。

 そして、このことを悟らせるために、イエスは、弟子たちの心を開いてお語りになります。

 主に心を開いて頂かないと、弟子として、いくら近くにいても肝心のことを理解しないままになってしまいます。自分が聞きたいことだけを聞いて、自分好みの神、つまり偶像を作り出すことになってしまいます。心を開いてくださるように祈りつつ、自分を中心にせず、自分好みの言葉を求めるのではなく、全聖書から、神の御心を聞くようにしていくことが大切です。

 聖書朗読と説教の前に「聖書朗読と説教を祝福し、神さまご自身が一人ひとりの魂に語りかけてくださるように」と祈るのは、主が心を開いてくださるのを願ってのことです。 

 

 イエスは言われます。46節のところ(間)「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』。

 ここで、旧約に出てくる救い主について書かれている箇所をいくつか確認しましょう。 

 創世記ではアダムとエバが罪を犯した後、神が二人をそそのかした蛇にこう言われます。3章の15節「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」)。                                

 救い主が来て、罪を打ち砕きますが、かかとを砕かれる。これは、十字架でその命を献げること、救い主が自ら傷を負い、痛みを負って、罪を打ち砕くということが、エデンの園で最初の罪が犯された直後に語られています。

そして、救い主の誕生については、イザヤ書7章の14節にこう書かれています。  「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」。                   

 これは、マタイによる福音書1章の23節で、引用されている箇所です。

 

 罪によって神と共に歩めなくなりました。しかし、神は救い主を遣わし、神ご自身が罪人のところへ来てくださり、共にいてくださるのです。

 そして救い主の宣教については、イザヤ書42章1節と3節と4節に、こう書かれています。  

 「1見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。

彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。                    

3傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。

4暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」。

 

 イエスが洗礼をお受けになったとき、天が開け、聖霊が目に見える姿でイエスの上に降って来ました。 、ルカ福音書の3章の:21節と22節にそのことが記されています。    「22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

 このようにイザヤの預言が、イエス キリストにおいて実現しました。

 

 そして十字架については、イザヤ書53章にある「主の僕の歌」と呼ばれる箇所がまさに十字架の苦しみを預言しています。しかし、この箇所は長いので、今日は、別の箇所を紹介します。

 詩編22編2節に 「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」 とあります。これは、イエスが十字架で叫ばれた言葉です。イエスは、神に捨てられたと感じた民の苦しみを自ら十字架で負われました。

 「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、ひとり子を失ったように嘆き、ういごの死を悲しむように、悲しむ」と、ゼカリヤ書12章10節で、十字架の悲しみを記しています。

 

 三日目の復活を示すのは、ヨナ書です。2章の1節から3節で「1さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。 2ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、 3言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった。」

 11節に「主が魚に命じられると魚はヨナを陸地に吐き出した」とあります。

 さらに詩編16編の:10節では「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」とあります。                             

 これらの2つは、復活を示して語られていることです。

 

 ユダヤ人たちは、救いを拒絶しましたが、神はイエス キリストにおいて救いを成し遂げてくださいました。詩編にはこうあります。詩編118編の21節から24節のところ、

「21わたしはあなたに感謝をささげる あなたは答え、救いを与えてくださった。

22家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。

23これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。

24今日こそ、主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」

この聖句は、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書とペトロの手紙一 で、引用されています。

 イエスが、47節のところで語られた「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われたことについては、イザヤ書において「わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救いを地の果にまでいたらせよう」と言われています。

 まさに、旧約全体を通して、イエス キリストの救いの御業が語られ、指し示されているのです。

 

 イエスの弟子たちは、神の言葉が、イエス キリストにおいて成就したことの証人、証し人なのです。

 今日読んだルカ24章の48節のところで、イエスは、「あなたがたは、これらのことの証人となる」と言われます。

 さらに、イエスは「わたしは父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」 と言われます。

 「約束されたもの」というのは、「聖霊」のことです。ルカが福音書に続いて、編纂した使徒言行録に出てきます。ヨハネによる福音書でも「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」と、14章の16節と 17節で、語られています。

 

 弟子たちの信仰や熱心さによって、務めを果たすのではなく、神の霊に満たされ導かれることで、務めを果たすのです。だから「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と命じられるのです。 都というのは、神殿のあるところ、神の御前に進み出て礼拝を献げるところを表しています。今日では、わたしたちが、今まさに集っている、この教会を指しています。

 わたしたちが礼拝に招かれるのも、主に心を開いて頂いて、神の言葉を聞き、神の言葉が真実であり、さらに神の言葉には、わたしたちに対する神の愛が満ちあふれていることを知るためなのです。

 そして、わたしたちも神の霊、「聖霊」を受けて、神の祝福によって送り出され、それぞれの場へと、派遣されていくのです。

 今日の箇所が指し示しているのは、終わりの日まで、キリストの弟子たちが経験する出来事です。そして、すなわち、わたしたちが経験する出来事なのです。

お祈りをします。

 

父なる神さま

 どうかわたしたちの心が開かれますように。あなたの御言葉を知ることができますように。どうか聖霊に満たされて、救いの御業に仕えることができますように。どうかわたしたちを用い、キリストの証人としてください。

エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

「はじめまして (^^) - 聖書の言葉を聴きながら | stand.fm」(夫の音声配信を代わってアップします。)

夫は倒れて、今、病院にいますが、パソコンの中に保存された過去の説教原稿を今後私が代わって掲載していきたいと思います。

先ずは、今年になってから始めた音声配信「stand.fm」の1回目を掲載します。

どうぞ皆様、お聞きください。

stand.fm

ブログを始める切っ掛けになったのは、2016年に心不全で1ヶ月あまり入院したことです。予想していなかった病気になり、自分の生涯の終わりが思っていたより早いかも知れないと思ったことです。

それまでは自分がする聖書の話は完璧ではないし、未熟なものを不特定多数の人の目に留まるようにするのに抵抗がありました。

それが心不全のために、自分が聖書を伝えられる時間に限りがあることを意識するようになりました。

そして、ためらっている場合ではない、機会を活かして聖書の言葉を伝えていこうと思うようになりました。(抜粋)

 

 

わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。…。

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(コリントの信徒への手紙二4:5,7)

 

 

 

 

 

 

ヨハネによる福音書 6:60〜66

2021年2月21日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:60〜66(新共同訳)


 イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ 6:53~55)

 教会員の皆さんであれば「あぁ聖晩餐で示されている事柄だなぁ」と思われると思います。
 ヨハネによる福音書は特に、キリストと一つにされる、新しく生まれるということを明らかにしようとしています。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ 3:3)キリストと一つにされて、キリストの命に生きるという、救いの秘義を明らかにしようとしています。

 しかし、イエスがなされたしるしを見て、イエスに従ってきた弟子たちの多くが躓きます。
 ここで気づかされることがあります。6章の始め、五千人の給食の出来事から「群衆」と言っていたのが、6:41では「ユダヤ人」と言い、それがきょうの6:60に来ると「弟子たち」に変わります。そして、この話の最後は「多くが離れ去り・・イエスと共に歩まなくなった」です。
 これは、しるしを見て集まってきた人たちが、イエスの話や業に惹かれ、イエスに従うけれど、肝心のところで躓き、離れていくことを表しています。

 彼らはイエスの救いの秘義とも言える話を聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつぶやき始めます。
 教会員の皆さんにとっては、聖晩餐に与る中で当たり前になっているかもしれませんが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。・・わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」という話は、実にとんでもない話です。言葉通り受け止めれば、人の肉を食べ、血を飲むということです。とても正気の沙汰とは思えません。弟子たちがつぶやくのも仕方ないように思います。

 けれどイエスは、弟子たちがつぶやいているのに気づいて言われます。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・。」
 この言葉は、わたしたちの考えと神の考えの違いを示しています。つまり、わたしたちが罪を抱えていて、神の思いを理解できないことを表しています。
 イエスは以前、自分を訪ねてきたニコデモに対して「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(3:10)と言われました。イスラエルの教師であっても、新しく生まれるという神の御心は理解できないのです。
 だからこれが分からないなら、このことの次に起こること、神のご計画を理解できるのだろうか、というイエスの思いを表しています。

 わたしも40年近く聖晩餐に与っています。牧師になって30年近く聖晩餐の司式をしてきましたから、慣れてしまっていますが、この説教の準備をする中で思い出しました。そもそもイエスが救い主としてこられ、十字架に掛かるということが長い間理解できませんでした。なぜ神はそんなことをしなければならないのか。神が全能であるならば、自分のひとり子の命を献げるなどということをしなくても、罪人を救えるのではないかと思い、キリストの十字架が理解できませんでした。自分のひとり子を十字架に掛けて殺すなどというそんな残酷な神を、世界の人々は信じているのか、とても正気だとは思えない、そんな風に考えていました。神の思い、神の計画を理解できなかった自分が、かつて確かに存在していました。

 罪は、神とは違う思いを抱くことですから、神がなされることに対して、どうしてそんなことが必要なのですか。なぜこうなさるのでしょうか、と理解できないことだらけです。自分が信仰を持ってからも、いろいろなことに出会う度に、なぜ神さまこんなことが起こるのでしょうか、あれほど神さまの導きを祈ってきたのに、どうしてこんな苦しいことに遭わなければならないのですか。神さまの導きが理解できないことだらけでした。
 けれど、わたしたちをお造りくださったのも神の御心であるならば、わたしたちをどのようにしてお救いになるか、わたしたちにとって何が必要なのか、どうしたらわたしたちが救いに入ることができるのか、それは神だけがご存じのことです。わたしたちは自分の理性を駆使して、こうしたら上手く行くんじゃないか、こんなことをなくったって、こうしたらもっと上手に苦しまずにうまくやっていけるのじゃないだろうか、そういうことをしばしば思います。それと同じようなことを、イエスから救いの秘義を聞いた人たちも感じたのです。

 イエスはさらに続けます。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
 ヨハネによる福音書は、福音書を編纂する中で、霊、新しく生まれること(新生)、そして永遠の命ということを伝えようとして記事を選んでいるように思います。先程も引用したニコデモの出来事でも4章のサマリアの女性の話でも出てきます。「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)「水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(3:5)「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4:14)
 イエスは言われます。「命を与えるのは霊である。」ここで言われている命は、罪によって死に至る命ではなく、神と共に生きる永遠の命のこと、神の国に入ることのできる新しく生まれた命です。
 この命に対しては肉は役に立ちません。今わたしたちの周りではアンチエイジングということが言われ、いくつになっても若々しくあることの方が関心を集めています。けれどどんなに若々しくあっても、この世の肉の命は死に至ります。肉の命は、罪による死に囚われています。
 死を超える神の命を与えるのは霊なのです。霊の働きは、結び合わせることです。聖霊は、神と結び合わせてくださいます。イエス キリストと結び合わせ、キリストの救いと復活の命に与らせ、神と共に生きる神の子としてくださいます。イエスは「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われました。それはイエスが語られた言葉は、それを信じ受け容れる者を、神へと導き、永遠の命に与らせることを言っています。
 さらに受け入れられたイエスの言葉は、キリストご自身をわたしたちの内に住まわせ、わたしたちを神の愛に根ざす者としてくださいます(エフェソ 3:17)。
 イエス キリストこそ、わたしたちを神へと導く活ける神の御言葉です。

 ここの一連の言葉で言われているのは、わたしたちが十字架の罪の贖いに与り、復活に至ること、キリストと一つになることによって霊の命に新しく生まれること、普段の食事が血肉となり、日々の命を支え育むように、イエス キリストの命を指し示すパンとぶどう酒(液)を頂くことを通して、聖霊なる神がイエス キリストご自身と結び合わせてくださり、イエス キリストの命に生きる神の子とされていることです。イエスは、救いの核心、救いの秘義をお語りくださったのです。

 しかし自分の罪に気づかない者、自分の思いに囚われていることに気づかない者、あるいは命と未来は神の許にあることに気づかない者は、神の言葉、神の業を受け入れることができません。
 イエスが言われた「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」という言葉は、自分が今どこに立っているのかを気づかせようとしている言葉です。信じられない状態にある自分自身の姿に気づかせようとしておられます。
 イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられます。しかしそれでも、この一連の言葉を命へと導くためにお語りくださいました。この者は信じないから、この者は裏切るから語っても無駄だと考えて、語らないのではなく、今は信じないことを、そして自分を裏切ることを知っていてもなお、イエスはお語りくださいます。
 そのようにしてイエスがお語りくださったからこそ、十字架の前で逃げ去った弟子たちは聖霊降臨の後、イエスの語っておられたことに気づいて、あぁ自分たちが分からなかったとき、理解できなかったとき、信じられなかったときから、主はお語りくださっていた、その事に気づいて、イエスが語ってくださっていたことを語り継いでいったのです。

 そしてイエスは言われます。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 自分の命、自分の人生、自分が考えるように生きる、とまるで命が自分の所有物であるかのように思っている間は、罪と死から自由になることはできません。わたしたち罪を抱えている罪人は、神の憐れみを求める方へと思いの向きを変えて頂かなくてはなりません。わたしは信じる、わたしはこう信じる、という自分が主体の信仰ではなく、自分自身を神に委ね、自分の信仰も神に導いて頂くのです。

 イエスが救いの核心、救いの秘義とも言える話をしたために、弟子たちの多くが離れ去り、イエスと共に歩まなくなりました。彼らは、まだ罪に気づけず、命と未来が神の許にあることが分かりませんでした。
 わたしたちは、信じない者から信じる者にパッと変わる訳ではありません。わたしはずっとイエスがなぜ十字架にお掛かりにならねばならなかったのか、なぜ神がひとり子を遣わすという仕方で救いをなさらなければならなかったのか、理解できずにいました。信仰をもって歩み始めてからも、なぜこのようなことがわたしの人生に起こるのか、神に祈り求めつつ歩んでいるのに、なぜこんな苦しみを経験しなければならないのか、神の御心が分からないことがたくさんありました。それでも、主はこのわたしに語り続けてくださいました。分からない理解できないときにも、語り続けてくださったから、理解できる時へと導かれてきました。そして今もまだ途上にあります。わたしの願いの一つは、神の御心が自分の思いになることですが、罪の世にあって生きる間は、なかなかそうはいきません。けれども一日一日、一つひとつの出来事を通して、神はわたしにお示しくださいます。あぁ主よ、そうだったのですかと、気づくように導いていてくださいます。イエスは自分の許を離れていく者、自分を裏切る者をもお見捨てにはなりません。その救いを願って、語り続けてくださいます。

 そしてイエスは本物の救いを与えようとされました。いつも、誰に対しても、イエスは本当にその人を救う救い、神へと立ち帰らせ、神と共に生きる本当の救いを差し出しておられます。丁度聖晩餐において、「取って食べよ」とパンが差し出され、「この杯から飲め」と杯が差し出されるように、わたしたちを本当に救う救い、イエス キリストご自身を差し出していてくださいます。イエス キリストこそ、わたしたちの救いであり、わたしたちの命なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 共に生きることを願ってわたしたちを造り、罪を犯してなおひとり子を遣わしてまで、わたしたちを命へと導いてくださり、感謝します。御子はその命のすべてを与えてくださり、わたしたちを御子の命に生きる者としてくださいました。あなたの救いの恵みは、わたしたちの思いを超えて、理解し尽くすことはできません。主がわたしたちのために備えてくださった聖晩餐の恵みを通して、あなたへと思いを馳せ、命を望み見ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

詩編 149:1〜4

2021年2月17日(水) 祈り会
聖書:詩編 149:1〜4(新共同訳)


 きょうは149篇の前半です。
 この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)があります。

 きょうは4節まで読みます。
 新共同訳では、3節と4節の間で1行あけて、区切りとしています。これは読みやすくするための訳者の配慮で、ヘブライ語の原文は1行あけてはいません。
 これは訳者の判断なので、訳者が変われば、判断も変わります。新しい聖書協会共同訳、新改訳2017、岩波書店版は、4節と5節の間で1行あけています。フランシスコ会訳は、ヘブライ語の原文と同じく、1行あけるということはしていません。

 1節「新しい歌を主に向かって歌え。」
 「新しい歌」というのは、時間的に新しいということではありません。この「新しい」は、生き生きとしている、今生きていることを表します。古くて枯れてしまっている、さび付いて動かないではなく、生き生きとしている、命が通っている様を表しています。
 「新しい歌」という表現は、詩編には6箇所あります(33:3, 40:4, 96:1, 98:1, 144:9, 149:1)。詩編以外では、イザヤ 42:10と黙示録 5:9, 14:3に出てきます。
 詩人は、主が救いの御業をなし、自分たちの前におられることを感じています。主が救いの御業をなしていてくださる。その主に応えて、生き生きとした信仰、讃美をもってわたしたちも主の御前に立とうと呼びかけています。

 1節「主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」
 「主の慈しみに生きる人」はこの149篇に3回出てきます(5, 9節)。148篇の最後(14節)にも出てきます。2節のイスラエルやシオンの子は、この「主の慈しみに生きる人」を表しています。
 この「主の慈しみに生きる人」はハシディムという言葉で、ヘセドという言葉から派生した言葉です。ヘセドは「契約における確固とした愛」を意味しています。わたしはなかなかヘセドの意味合いを把握できず、「契約における確固とした愛」を何度も繰り返しながら考えます。
 翻訳も様々で「忠実な」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波書店版)とか「敬虔な」(新改訳2017)とか「信実な」(月本昭男)など、ヘセド、ハシディムの意味合いを伝えようとしているのが感じられます。

 2節「イスラエルはその造り主によって喜び祝い」
 造り主なる神、特に聖書の神を知ることは、自分の存在の意味を知ることです。神がわたしを愛しておられ、わたしと共に生きることを願ってわたしを造られたことを知るからです。
 今は「神なんか信じてないよ」と簡単に言える時代ですが、もし造り主なる神が存在せず、自分も他の人たちも、世界もただ偶然に存在しているだけだと言うなら、その存在には何の意味もないということです。すべては偶々(たまたま)なのですから。生きていることも、苦難に遭うことも、死ぬことも偶々で意味はないということです。「神なんか信じてないよ」と言っている人は、果たしてそのことを理解して言っているのだろうかといつも疑問が浮かんできます。
 造り主なる神を知っている人は、自分の存在の根源を知り、自分が愛されている、求められている存在であることを喜ぶことができるのです。

 2節「シオンの子らはその王によって喜び躍れ」
 神が自分の王であってくださることを知る者は、神が自分の人生、日々の歩みに責任を持ってくださっていることを知ります。神の平安(シャローム)がその人を包みます。
 3節「踊りをささげて御名を賛美し/太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。」
 神の平安は、喜びを増し加えます。その喜びは、讃美へ、歌へ、踊りへと進んでいきます。昔、誰の言葉か忘れてしまいましたが「歌を生み出さないものは、文化にはならない」という言葉を聞いて「そうか」と思いました。
 讃美も、福音派の若者を中心に多様になってきました。福音時報の記事を見て、日本キリスト教会の礼拝でも God bless you などの讃美歌が歌われていることを知りました。わたしたちの教会でも信仰が生きているからこそ、生きた讃美が溢れ出てくるといいなと願っています。
 踊りについても、最近これも福音派の教会などでゴスペルフラが行われています。フラダンスで讃美するというものです。フラダンスは動作に意味があるので、神を讃美する振り付けをして、踊るというものです。
 「太鼓や竪琴を奏でて」 太鼓はタンバリン(新改訳2017)としている訳もあります。皆で讃美するために、楽器というものが作られた初期の頃から、楽器が讃美に用いられていたことが分かります。
 讃美によって、神を喜んでいた古の神の民の姿が伝わってきます。わたしたちも、教会に集まったときにだけ讃美するのではなく、生活のいろいろな場面で、讃美できるようになるといいなと思います。

 4節「主は御自分の民を喜び/貧しい人を救いの輝きで装われる。」
 民が讃美し、神を喜ぶとき、神もご自分の民を喜ばれます。讃美は、民も神も共に喜ぶ恵みの時です。
 「貧しい人」とありますが、新しい訳では「苦しむ人」(聖書協会共同訳)としています。聖書学者の月本昭男氏は「虐げられた者たち」と訳しています。どんな状況にあっても、神を喜ぶ民を、神は救いの輝きで装ってくださいます。
 この信仰は、新約の山上の説教(マタイ 5:3~12)につながっていく信仰ではないかと思います。

 神はわたしたちが、救いの喜びで満たされ、讃美しつつ神と共に歩むことを願っておられます。教会に集う皆さんお一人おひとりが、救いの恵みに満たされ、神を喜ぶ者となられることを心から願っております。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちが、あなたの喜びで満たされ、讃美しつつ歩めるようにと、救いの業をなしてくださいます。どうか導かれて、あなたの御前に集う一人ひとりが救いの恵みで満たされますように。今、苦しみの中にある者も、御言葉に導かれあなたを仰ぎ、望みを抱くことができますように。どうかあなたと共に喜び合う者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン