聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 3:18〜21

2019年8月4日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:18〜21(新共同訳)


 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

 神はわたしたちに信じるという関係をお求めになります。
 ただ勘違いしてはいけないのは、神は「信じたら救いますよ。信じますか」と取り引きを持ち掛けているのではありません。
 人は罪を犯したことによって、自ら約束を破る者となってしまいました。そのことによって、自分自身が約束を破る信じられない者となり、信じることのできない世界に踏み込んでしまいました。

 信じるということは、わたしたちが生きていく上で不可欠な事柄です。人間関係でも取り引きでも、信用が大事です。社会の営みは、信用の上に成り立っています。信用の成り立たないところでは、共に生きることも成り立ちません。そして何もかも信じられない世界では、わたしたちは生きていくことはできません。共に生きる者、家族、友だち、社会、そして自分も未来も信じられない、そんな状況では人は希望を持つこともできず、生きられなくなってしまいます。
 神はエデンの園で「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記 2:17)と言われました。この善悪の知識の木の実には毒が入っていた訳ではありません。しかし、神とは違う善悪を持ち、神から自由になって、自分の好きに生きる世界では、信じることがときに壊され、失われ、信じられない世の中と言われるようになっていってしまいます。そしてついには、生きることが苦しい世界、生きられない世界になってしまうのです。

 だから神は、自らが信じられるものとなって、わたしたちとの間に信じることのできる関係を造り出してくださるのです。
 神はご自身の民、イスラエルを召し出し、共に歩み、ご自身が救いの神であることを証ししてこられました。そして時至って、御子イエス キリストを救い主としてお遣わしになりました。
 救い主の大切な務めの一つが、神が信じられる方であることを証しし、信じるを世に造り出すことです。
 イエスは裏切ると分かっている者を弟子としました。一緒に捕まるのが怖くて逃げ出す者を弟子にしました。自分を3度知らないと言う者を弟子にしました。自分を十字架につけて嘲る者たちのために執り成されました。イエスはわたしたちの罪も弱さも愚かさも知っておられます。その上で、十字架を負い、わたしたちの裁きをご自身の身に負われました。イエスはわたしたちを知っておられます。その上でなおわたしたちを愛されます。イエスだけはわたしたちに失望しません。「あなたがそんな人だとは思わなかった」とは言われません。イエスには自分自身のすべてを委ねることができるのです。イエスが証しされた神の愛は、信じてよいのです。

 イエスの許には、神が独り子の命をかけて造りだしてくださった信じて生きることのできる世界、神の国があります。
 わたしたちが信じるのは、信じられなくなったわたしたちのために、神が御子の命をかけて信じることを造りだしてくださったということを信じるのです。重ねて申し上げますが、わたしたちは信じたから救われるのではなく、神がわたしたちを愛し救っていてくださることを信じるのです。

 だから「信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と言われるのです。信じる者は、イエスを信じることのできる神の国に生きています。信じない者は、備えられた神の国を拒絶し、罪が支配しているかのように見える信じたくない罪の世で生きている。そのことが既に裁きなのです。神の救いの中で生きるのではなく、何があるか分からない、信じたらいけないと身構えて生きる、けれどどんなに身構えても死に至る、罪がもたらす滅びの中で生きているそのこと自体裁きなのです。
 しかし裁きは救いへの招きです。信じられない罪の世で生きるのではなく、神の国で信じて生きなさい、という招きなのです。ですから、裁きは決定してしまった運命ではなく、常に救いへと開かれているのです。

 ここでも勘違いしてはいけないのは、裁きは罰ではありません。罪から離れられない頑なな心を打ち砕いて、救いへと導く神の救いの御業です。ローマの信徒への手紙はこのことを「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(ローマ 11:32)と言っています。

 わたしたちは、多数といる方が安心する傾向があります。ですから「人間だから仕方ない」と言って、多少噓をつくことも、だますことも、少々の悪を行うことも仕方のないこととして、多くの人がいる薄闇の方が安心できるのかもしれません。しかし命には光が必要です。砂漠に照りつける灼熱の光ではなく、命を育む命の光が必要です。
 イエスは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ 8:12)

 ただ、光に照らされると、薄闇の中でははっきりと見えなかったものが明らかになってしまいます。聖書は「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを畏れて、光の方に来ない」と語ります。確かに、光に近づくと影は一層濃くなります。今まで見えなかったものが見えてきます。キリストの前に出ると、自分でも気づいていなかった罪が露わになります。「それは嫌だな」と思います。ペトロも自分が3度もイエスを知らないと言うとは思っていませんでした。しかしイエスと共に歩めない自分の露わになりました。そんな自分を知りたくはありません。しかし、罪を知らないと、自分には救いが必要だということに気づけません。キリストの光は、罪から滅びへと導く光ではなく、罪から救いへ、永遠の命へと導く光です。

 人は救いの希望のないところで罪と向かい合うことはできません。神の確かな愛と赦しがあるからこそ、人は自分の罪を認め、神へと立ち帰ることができます。よくある歴史の改ざん問題も、事実を認めると、自分たちの誇りが傷つき壊れてしまうので、向かい合うことを避けているのです。ただ神の救い、キリストの愛と赦しに満たされ導かれるとき、未来は開かれていくのです。

 イエス キリストに出会うのでなければ、人は罪を知ることができません。神に導かれ、イエス キリストに出会い、その救いを知り、愛と赦しへと招かれるから、わたしたちは信じることへ、信じて大丈夫な神の国へ進み行くのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 信じることのできる神の国に生きる者としてください。あなたがお与えくださったイエス キリストに出会わせてください。信じることのできない悲しみから救い出し、あなたを信じる関係の中へと導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 2:12〜16

2019年7月31日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 2:12~16(新共同訳)


 パウロは、神を侮ることなく、神へと立ち帰るために、神を正しく畏れることを教えようとしています。「畏れ(恐れ)」は人の生き方を定めるものの一つです。わたしたちの国でも、昔から「罰が当たる」と言い、「地獄に落ちる」と言って生き方を正そうとしてきました。
 しかし近年、わたしたちの社会から畏れ(恐れ)が薄らいできています。信仰が軽んじられ、神よりも富を敬う社会になってきてるからか、科学技術の発展を信頼し、人間の願望がどんどん叶うようになっていくと考えているからでしょうか。この畏れ(恐れ)が薄らぐと、人間の都合、欲望に歯止めがかからなくなってきます。そうすると、次第次第に個々人の都合、欲望に歯止めがかからなくなり、共同体が徐々に壊れてきます。そして畏れ(恐れ)が社会から薄らいできている今、わたしたちの社会も共に生きるのが難しくなってきているように思います。

 さてパウロは、6節では「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」と語り、11節では「神は人を分け隔てなさいません」と言っています。つまり、すべての人に神の報いがあることを告げています。
 そして12節では「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます」と語ります。なぜなら、すべての人はどう生きるべきかを知っているからだとパウロは言います。
 13節以下では、律法を知っている者は律法によって裁かれる。律法を知らない異邦人は、良心によって裁かれると言っています。繰り返しますが、神に裁かれない者は一人もいないということです。

 人は、共に生きる存在です。共に生きるときに、人は戒めを必要とします。それは、罪によって一人ひとりの善悪が違うからです。二人以上の人が生きる際には、約束事、つまり戒めが必要です。どんな集団であっても、そこには集団を維持するためのルールが存在します。その事実が、人が共に生きる存在であり、共に生きるためのルール、戒めを必要としていることを証ししています。
 ですから、人が生きている、家族であろうと、仲間であろうと、社会であろうと、共に生きていることによって、「律法の要求がその心にしるされて」おり、「良心も共にあかしをして」いるのです。
 皆さんの家庭では、どんな約束事があるでしょうか。物を置く場所、子どもの帰宅する時間、いろいろ約束事があるのではないでしょうか。そして、その根底には一緒に生活していくことを大切にしようとしている思いがあると思います。
 人は誰であれ、どんな集団であれ、共に生きようとするときに必ずルールが、戒めが必要であることを皆知っています。そして、集団を維持するために、どういうルールが必要なのか、それは多少民族や時代や社会状況によって違ったとしても、共に生きるということを守り支えるためのものであるということは、共通しています。

 パウロが今述べているのは、聖書の神を信じている者も、そうでない者も、その戒めを持っていて、神は、それに従ってその人に報いられ裁かれるのだという事実を伝えています。それは、神に対する正しい畏れを抱いて、神に立ち帰ることを促すためです。
 人がユダヤ人として生まれるか、異邦人として生まれるかは、神の決定です。しかし、すべての人は神にかたどって創られており、罪によって汚されてはいても、神にかたどられた神の似姿であることには違いありません。
 ですから、律法を知る者は律法によって裁かれます。「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるから」です。
 そして律法を持たない異邦人は、律法の要求が記された一人ひとりの良心によって、また神の似姿である自分自身によって神に裁かれるのです。

 ただし、罪人の中に神のかたちがあるかどうかについては、神学上の議論があります。罪によって神のかたちは完全に破壊されており、罪人の中に神のかたちは残っていない、という考えの人もいます。
 しかしわたしはその考えには反対です。信仰がなくてもすべての人は、愛することを求め、愛されることを求めて生きてきました。それは、神ご自身に創造され、愛である神にかたどって創られたからです。そしてだからこそ、すべての人には共に生きるための「律法の要求する事柄がその心に記されて」おり「良心もこれを証しして」いるのです。

 どんな集団であっても、共に生きることを求めるときに、そこで必ず共通のルール、戒めを作って、共に歩めるように努力するのです。律法を持たない異邦人であっても、罪によって一人ひとりの善悪が違っていても、共同のルール、戒めを定め、共に生きようとするのです。
 それは神のかたちに創られているからです。聖書は、神は愛であると言います。その愛である神にかたどってすべての人は創られているから、共に生きたい、愛したい、そして自分もまた必要とされ、愛されたい、と願うのです。キリスト者だけが愛するのではないことを、わたしたちはよく知っています。

 すべての人は、神によって創られ、神にかたどって創られています。そして、すべての人は罪に汚されていても神のかたちがあるので、共に生きようとします。愛を求めて生きているのです。
 だからパウロは、ユダヤ人でなくとも、旧約の戒めを知らなくても、神に与えられた神のかたち、心に記された神の律法があって、それに基づいて裁かれる。だから神に裁かれない人など一人もいない、ということを訴えているのです。

 共に生きる共同体を形成するために、どの時代、どの民族の共同体も努力をします。そのために存在するものの一つが裁判です。15節の後半「彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」とあるのは、裁判のような議論・協議を示しています。異邦人も裁判を行い、自分たちの心に律法の要求が記されていることを、彼らの良心と共に証ししている、ということです。この裁判、あるいは話し合い議論することも、古今東西あらゆる集団に存在するものです。
 そしてこのことはパウロ自身の信仰の核心、パウロが抱いている福音によれば、「神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになる」のです。

 パウロは、これをイエス キリストにあって信じています。元々パウロはイエスを信じていませんでした。教会の迫害者でした。しかし彼は復活したイエスに出会いました。パウロが探し求めたのではなく、信じてもいなかったのに、イエスの方からパウロに出会ってくださった。この復活のイエスとの出会いにおいて、パウロは「神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになる」ことを確信しているのです。
 わたしたちが、このまだ経験していない将来のことを信じるのも、イエス キリストのゆえです。特にその十字架と復活において、神の愛と真実が明らかにされた。まことにわたしたちの創造主なる神がおられ、わたしたちの命に責任を持ち、神と共に生きる救いへと招き導いておられる。それがイエス キリストにおいて明らかに示された。だから、未来のことについてもイエスの言葉、神の言葉を信じるのです。

 すべてのことが明らかにされ、裁かれる終わりの日が来るのです。だから、すべての人は、自分の裁きについて畏れを抱いていなくてはならないのです。自分が終わりの日に神の裁きの座に立つことを恐れずに生きて大丈夫な者など、誰一人いないのです。そしてこれからパウロがこの手紙で語ることは、すべての人は裁かれるのであるからこそ、イエス キリストの救いなくして生きていける者などいない、ということです。

 神は、神と共に生きていけるように、ご自身を現してくださいました。わたしたちは、神の裁きを知り、正しく神を畏れ、キリストの救いに与って、神と共に生きるように、神の国に生きるようにと招かれているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかわたしたちがあなたにかたどられて作られていることに気づかせてください。愛によってあなたと結ばれ、あなたと共に生きることが必要であることに気づかせてください。そしてイエス キリストの救いを求めることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 8:28〜30

2019年7月28日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:28〜30(新共同訳)


 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
 「万事が益となる?」「はたしてそうだろうか?」ここはなかなか納得できない箇所の一つだろうと思います。信じられない箇所であれば、奇跡や癒やしなどたくさんあるかもしれません。しかし奇跡や癒やしは、イエスが生きておられた昔の話で確かめることはできません。けれどきょうの箇所は、わたしたちの人生において起こっている出来事が本当に益となっているのか、という疑問を引き起こします。

 きょうの箇所、肝心な「益」という言葉ですが、ギリシャ語で「アガソス」という単語が使われています。この「アガソス」は一般に「良い」と訳されます。わたしの持っている日本語訳聖書の中では、岩波版が「すべてのことが共に働いて善へと至る」としています。また田川健三版では「一切が良い方向へと働く」となっています。
 この「善」または「良い」というのが意味しているのは、神が良しとされるところという意味です。ですから「益となる」というのを、わたしにとって都合良くなると理解したのでは、聖書が言っていることと全く違うことを想像することになってしまいます。
 神が良しとされる「善」あるいは「良い方向」というのは、きょうの箇所で言うならわたしたちが「御子の姿に似たもの」になること、つまりイエス キリストの救いに与るということです。ですから「万事が益となるように共に働く」というのは、「すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く」という意味です。

 ここまでの流れは、18節から「現在の苦しみ」について語り、26節「霊も弱いわたしたちを助けて」くださることを示し、すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く、つまり神はわたしたちが御子イエス キリストと同じ姿に似たものとなるまですべてを導かれるということを語っています。

 パウロはローマの教会の人たちを「神を愛する者たち」と言い「御計画に従って召された者たち」と言い換えます。さらに29節で「神は前もって知っておられた者たち」と言い、30節で「神はあらかじめ定められた者たち」と言っています。
 神には救いの計画があり、わたしたちがイエスを信じる前から知っておられ、神がわたしたちを救いに定め、召されたというのです。

 旧約の時代から「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言 19:21)と教えられてきました。そしてイエス キリストが来られるに至って、主の御旨が「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3:16)ことが示されました。

 神は御子イエス キリストを救い主として遣わされたことにより、わたしたちをイエス キリストと結び合わせ「御子の姿に似たもの」へと導いてくださいます。別の箇所では「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくと言われています。
 神がこのような御業をなしてくださるのは、罪によって破壊されてしまった関係を、イエス キリストを長子とする神の家族という新しい関係の中に招き入れるためです。
 この主にある兄弟姉妹という関係の中で、共に救いに与り、恵みを分かち合い、神と共に歩む場所として教会が建てられています。イエス キリストが仲保者、間を取り持つ者となって神とわたしたちの間を執り成してくださり、わたしたちお互いの間もイエス キリストが仲保者としてつないでいてくださるのです。イエス キリストがわたしたちを神の子としてくださり、わたしたちは共に天にいます神を「父」と呼ぶことのできる神の家族とされているのです。

 どうやってキリストに結ばれ、救いの中に入れられたのか。それは、神があらかじめ定め、召してくださったからです。これらは「召命」「予定」「摂理」「聖定」などいろいろな言葉がありますが、それらの核心は「選び」という言葉で語られます。
 「選び」ということで聖書が言うことは「神が救ってくださる」ということです。

 この手紙を書いたパウロは、ガラテヤ 1:15, 16でこう書いています。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」。パウロキリスト教の迫害者でした。復活のキリストに捉えられるまで熱心な迫害者でした。それなのにパウロは「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と言うのです。悔い改めて回心したから用いられたのではなく、母の胎にあったときから選び、召し出してくださったと言うのです。信仰が成長したからとか、よく学んで信仰を正しく理解したから選ばれたのではないのです。

 旧約にはこう記されています。「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主が・・あなたたちを選ばれたのは・・ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し・・救い出されたのである。」(申命記 7:6~8)
 そして新約ではこう言われています。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。」(2 テモテ 1:9,10)

 この世にあっては、試験を受け、合格して、進学や就職をしたり、資格を取得したりします。ですから、どうしても自分の努力とか、自分が到達したところが気になります。救いに関しては、自分の信仰が気になります。「教会生活は長いのですが、信仰はまだまだです」といった言葉を聞くことがあります。しかし、聖書が救いについて語ることは違うのです。わたしたちの信仰が救いのレベルに到達したから救われたのではありません。救いは、神の愛と恵みによる選びによってなされたのです。

 選びは、神の救いの御業です。わたしたち一人ひとりの救いの根拠が、神ご自身にあることを明示するものです。そして、救いの根拠が神ご自身にあるからこそ、わたしたちの救いが揺るぎないものであることを信じることができるのです。

 そしてわたしたちを選び、救いへと召し出してくださった神は、召し出した後も放り出すのではなく、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えるまで導いてくださいます。
 義というのは、正しい関係を表します。神はわたしたちを神との正しい関係の中に入れてくださいます。そして栄光は、神が救いの神であることが明らかになる、現れることです。神の救いの光に包まれて生きる、神と共にあることを証しする者にまで導いてくださるのです。わたしたちを選び、召し出し、救いへと導き入れてくださる神は、最後の最後まで導いてくださるのです。

 だから「すべてのことがわたしたちの救いとなるように」なされていくのです。
 この「万事が益となるように共に働く」すなわち「すべてのことがわたしたちの救いとなるように用いられる」というのは、パウロの信仰の歩みから来る信仰告白なのです。強烈な迫害者だった、だから回心してもなかなか受け入れてもらえなかった、生前のイエスの弟子ではないと軽んじられた、福音宣教の中で数え切れないほどの困難に出会った、何度も祈ったけれども癒やされなかった、そのすべてを振り返ってみて、パウロは「すべてのことがわたしの救いとなるように用いられた」と告白し証ししているのです。

 神は、そのパウロの告白、証しを通して語られます。「あなたの経験するすべてをわたしはあなたの救いのために用いる」と神は言っておられるのです。だから、わたしたちの救いは揺るがないのです。神はわたしたちの人生のすべてに関わり、救いへと導いてくださいます。だから困難も何もかも神に委ねて歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖霊を注ぎ、あなたをさやかに仰がせてください。あなたの御心、あなたの御業をはっきりと知ることができますように。わたしを手放すことなく、救いへと導いてくださることを確かに知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 2:6〜11

2019年7月24日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 2:6~11(新共同訳)


 パウロは4節で「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」と言っています。
 悔い改めは、救いに欠かせない大切な事柄です。本来の意味は「立ち帰る」という意味です。神から離れてしまったことに気づいて、神の許に立ち帰る。このままでは滅びに至ることに気づいて、神の許に立ち帰る。これが悔い改めの意味するところです。
 本来、人が犯した罪であって、罪の報いを受けるのは自業自得です。しかし、神の憐れみが神に立ち帰るための道を備えてくださいました。神ご自身が救いの御業を成し遂げてくださり、神に立ち帰る救いの道を用意してくださいました。だからパウロは「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」と言っています。

 この悔い改めにとって、気をつけなければならないのが「侮り」です。
 「神は憐れみに満ちたお方だから、最後は助けてくださるんですよね。だったら、堅苦しく悔い改めとか考えなくてもいいんじゃないですか」というような侮りです。

 そのような間違った考えに陥ることのないように、パウロは「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」と注意しています。
 神は、わたしたちが神を愛して、神と共に生きていけるように、御子イエス キリストを遣わされたので、神を侮って神から離れて生きることをよしとはされません。

 神へと立ち帰るためには、神への正しい畏れを持つ必要があります。
 わたしたちの神に対する思いは、神の愛と真実に対する信頼と、神の正義と公平に対する畏れが必要なのです。それは丁度、子どもが親に対して、自分を愛していてくれることに対する信頼と、悪いことをしたときには厳しくしかられることに対する畏れが必要なのと同じです。そしてわたしたちは、キリストにあって神の子とされた者、主の祈りで祈っているように、神を父と呼ぶ者なのです。つまり、わたしたちは、神の愛と真実に対する信頼と、神の正義と公平に対する畏れを持った神の子とされているのです。

 亡くなられた平田正夫牧師は、アメリカのプリンストン大学で学ばれたことがありますが、そこでヨセフ・ルクル・フロマートカに教えを受けました。その学びの中で、フロマートカは次のように語ったそうです。「信仰には、楕円と同じように2つの焦点がある。一致しない2つの焦点がある。神は唯一であり、3つの位格を持つ。イエス キリストは真に神であり、真に人である。神の国はあなた方のただ中にあり、いつか到来する。片方だけを主張すると、異端になっていく。」
 それと同じように、神の愛と真実に対する信頼と、神の正義と公平に対する畏れはどちらも必要なのです。片方だけだと信仰が歪みます。正しい信仰には、信頼と畏れが伴います。

 神への正しい畏れは、わたしたちを悔い改め、神へと立ち帰ることを促します。パウロはこのことについて二度繰り返して述べています。
 一度目は「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」(7, 8節)と言っています。
 ここで言われているのは、神の御心、教えを重んじ、神からの報いを求める者には、永遠の命が与えられるということ。そして、神と共に歩むよりも、罪に導かれ神の救いの御業を侮る者には、神から怒りと憤りとが与えられるということです。反抗心とは、神に対する反抗であり、神の御心、救いの御業に対する反抗です。

 二度目は「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます」(9, 10節)と言っています。
 ここではどの民族であろうとも、悪を行う者には苦しみと悩みとが与えられ、善を行う者には栄光と誉れと平和とが与えられる、と言っています。つまり、神の公平について語られています。そして11節では「神は人を分け隔てなさいません」と言われています。

 神の公平については、聖書の他の箇所でも述べられています。
 1ペトロ 1:17「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」
 神の公平さ、そして罪をきちんと裁かれることが、わたしたちを悔い改めへ、侮りのない信仰へと促すのです。

 神の裁きは、キリストの十字架がそうであるように、そこから救いが現れてきます。しかし、だからといって裁かれれば大丈夫だなどと考えることは間違いです。神は裁きたがっておられるのではありません。聖書は「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(1ペトロ 3:9)と言っています。
 わたしたちは、法律の抜け穴を探すように「こうしたら、神の教えに従わなくても大丈夫」と考えるのではなく、神と共に歩めるように、神の御心を正しく知ることを求めていくのです。教会でなされる学びは、神の御心を正しく知って、神と共に歩んでいくことを目指す学びです。教会では、神の語りかける声が聞こえてくるように学ぶのです。

 神はわたしたちを救いへ、祝福へと招いておられます。神の許にこそ、わたしたちの救いがあり、喜びがあり、未来があるのです。ヘブライ 3:13にはこう書かれています。「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。」
 現代では、聖書を学ぶ、キリスト教を知るのに教会に来る必要はありません。書籍、テレビやラジオ、インターネットで情報を手に入れることができます。また優れた人ほど、自分の考えに捕らわれてしまうことがあります。
 神は、ご自身の民を起こされ、導いてこられました。神は一人きりの信仰者ではなく、神の民・群れの中で共に救いに与って歩むようにされました。わたしたちには、主ある兄弟姉妹たちの勧め・励ましが必要なのです。だから、わたしたちは共に御言葉に聞き、共に学ぶのです。

 わたしたちは、神の愛と真実への信頼と、正義と公平への正しい畏れを持って、神と共に生きるのです。共に神の言葉を聞き、共に神の言葉に導かれて悔い改め、神の許へと立ち帰り、神と共に生きるのです。そして、神の子とされている幸いを共に確認し、共に喜び讃美しつつ、救いの道を歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちがあなたから離れていってしまわないように、あなたは教え、戒めてくださいます。自分の知恵に溺れてしまわないように、謙虚に心開いて、あなたの御言葉に聞くことができますように。どうかわたしたちをあなたの義へと導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 3:16〜17

2019年7月21日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:16〜17(新共同訳)


 イエスは、自分を訪ねてきたニコデモに語ります。イエスは、最も大切な神の御心を示されます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 聖書の中で最も有名な聖句と言っても間違いではないくらいわたしたちは何度も聞いてきた御言葉です。しかし、ニコデモにはほとんど理解できなかっただろうと思います。「神は、その独り子? 神は唯一ではないか。聖書には「我らの神、主は唯一の主である」(申命記 6:4)とあるではないか。信じる者が一人も滅びないで? 主の日が来て裁きが行われるではないか? この人は何を言っているんだ。」
 しかし理解できないからこそ、ニコデモは何度も何度も繰り返し考えただろうと思います。だからこそこの言葉は忘れられず、イエスが復活した後でニコデモはイエスのこの言葉を伝え、今わたしたちも聞いているのです。

 イエスは聞いた者がそのとき理解できないのに、語られることがあります。イエスは弟子たちにご自分の死と復活の予告を何度もされました。(マタイ 16:21、17:22~23、20:18~19、マルコ 8:31、9:31、10:33~34、ルカ 9:22、9:44、18:32~33)弟子たちはイエスが何を言っておられるのか理解できませんでした。弟子たちが理解したのは、復活の後ですが、出来事の前から聞いていたので、イエスの十字架と復活はたまたまそうなったのではなく、まさにそのため、罪人の救いのためにイエスは世に来られたのだということに気づかされました。

 さて、人は神との約束を破って、罪を犯しました。罪は人間の責任です。
 中には、人に罪を犯すことのできる自由を与えた神の責任だと言う人もいます。では、人は神の言うことに従うロボットであればよかったのでしょうか。選択をする自由は、人間の尊厳に関わることです。どこで生きていくのか、誰と共に生きるのか、どんな仕事をしてどのように生きるのか、何を信じるのか、それは一人ひとりの人生を形作る大切な問題です。大切な問題だからこそ、人は歴史の中でこれらを基本的人権として認識するようになりました。神はわたしたちをロボットとしてではなく、選択の自由を持つ人として造られました。そして、人が自ら選んで罪を犯しました。しかし神は、独り子を遣わして自ら痛みを負われました。

 創世記 22章に「主の山に備えあり」という言葉で知られる出来事が記されています。神はアブラハムに独り子イサクを焼き尽くす献げ物として献げるように命じられます。なぜアブラハムがこのような命令に従おうとしたかは未だに分かりませんが、アブラハムがイサクを屠ろうとしたとき、神はそれを止めてイサクの代わりとなる一匹の雄羊を用意されました。この身代わりの雄羊こそイエス キリストを指し示すものでした。
 神は、罪を抱え裁かれるわたしたちに代わって、イエス キリストを救い主として遣わし、キリストが十字架で裁きを受けてくださいました。神はイエス キリストを通して救いを与えられました。救いは、罪によって失われた神との絆を回復することです。神は、わたしたちに代わって裁きを受けたキリストを信じるという仕方で神の恵みを受け取り、神との絆を回復するようにされたのです。

 信じるということは絆そのものです。そして信じることは、生きるのに不可欠なものです。社会が信じられない、友だちが信じられない、家族が信じられない、自分も信じられない、未来も信じられないとなったら、生きていくことができません。神は生きるのに不可欠な信じるという関係をイエス キリストによって築き、与えていてくださるのです。神ご自身が、信じられる存在となってくださったのです。

 ですから「神さまは世を愛していてくださるのだから、信じなくたって救ってくださるでしょう」ではないのです。信じることのできる関係、共に生きる関係が大事なのです。信じるなどという言葉も考えもまだ分からない生まれたばかりの子どもも親に守られ育まれることを通して、信じることを感じ取っていきます。信じることは、生まれた直後から、否母の胎にあるときから、与えられている命と共にある事柄です。

 そしてイエス キリストは、救い主としてマリアの胎に宿られ、母の胎にも救いをもたらしてくださいました。イエス キリストがマリアの胎に宿られたのは、生まれることができなかったすべての命にも救いをもたらすためです。
 そして十字架の後には、陰府に降り福音を告げ知らせられました。聖書は告げます。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(1ペトロ 3:18~19)生まれる前から死の後に至るまで、イエス キリストはわたしたちのいるすべてのところに来てくださり、救いをもたらしてくださいました。
 この世で信じられなかったからもう救われないのではありません。「神は,すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)その神の御心をなすために、イエス キリストは人となって世に来られ、母の胎に宿り、「すべての人の贖いとして御自身を献げ」(1テモテ 2:6)、陰府にまで降られました。人のいるすべてのところにイエス キリストは来てくださいました。イエス キリストの恵みが及ばないところはありません。イエス キリストが来てくださったのは、わたしたちが救われ、永遠の命を得て、神と共に生きるためです。

 永遠の命とは、単に死なない命ではありません。この世のものは人も物も過ぎ去ります。永遠とは、神の許にある言葉です。永遠の命は、神への信頼・信仰で結ばれた神と共に生きる命です。罪から解放され、安心して神と共に生きる命です。神に命を造られたこと、主にある兄弟姉妹たちと共に神と歩んでいることを喜ぶことのできる命です。

 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。それほどに、神はお造りになった世界、そしてわたしたちを愛しておられます。共にありたいと願っておられます。
 イエス キリストは、その神の御心の証しです。だからイエス キリストは、わたしたちのつたない信仰に対してさえ「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ 5:34, 10:52他)と言ってくださるのです。わたしたちの信仰は自分を救うだけの価値がある立派なものなのではありません。信じる者が一人も滅びないでという神の御心が、神が遣わされたイエス キリストを信じる信仰を、それがどれほどつたないものであっても、よしとしてくださるのです。

 わたしたちはイエス キリストによって救われています。神はイエス キリストによって愛を注いでくださいました。愛を示してくださいました。だから教会はイエス キリストを伝えます。神の言葉を通してイエス キリストを知ってほしい、イエス キリストと出会ってほしい、キリストの救いに与ってほしい、そして神を喜んでほしいのです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちのためにイエス キリストを遣わしてくださったことを感謝します。聖霊をお注ぎくださり、いよいよキリストを知り、キリストの救いに与り、あなたの子として讃美しつつ歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン