聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 2:1〜5

2019年7月17日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 2:1~5(新共同訳)


 パウロは、まだ行ったことがない、けれどいつか行きたいと願っているローマの教会に宛てて手紙を書きました。
 パウロはこの手紙で「救い」ということについて伝えようとしています。救いとは、キリストによる救い。キリストによって罪から救われ、神と共に生きられるようにされることです。
 そこには、罪を知ること、悔い改めることが必要になってきます。
 マルコによる福音書も、救い主として活動を始められたイエスを、こう記しました。「イエスは・・神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ 1:14,15)

 悔い改めとは、神に立ち帰ることです。落ち込んで反省することではありません。預言者エレミヤは語りました。「背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。」(エレミヤ 3:14)神はわたしたちが神に立ち帰ることを願い、「わたしの許に帰ってきなさい」と招いておられます。
 だから、わたしたちの礼拝は神の招きの言葉で始まります。神がわたしたちを招いていてくださるので、わたしたちは神の御前へと立ち帰るのです。礼拝が始まるとき、礼拝に与る喜びがあるように、悔い改めには神の救いに与る喜びがあります。

 パウロは 1:18 から、世の人々が神を知りながら、神を神としてあがめず、感謝もせず(1:21)、神に従って生きようともしていないということを示しました。そのことについては「弁解の余地がありません」(1:20)とはっきり言っています。
 そしてきょうの箇所 2:1 でも「弁解の余地はない」と言っています。2:1 では「人を裁く者」に弁解の余地はないと言っています。「人を裁く者」というのは、主に律法を守ることによって救われるという考えを引きずっているユダヤキリスト者を指しているのだろうと思います。
 ところで、なぜ「人を裁く者」に弁解の余地はないのでしょうか。それは、裁くという行為において、人が生きていくには規範が必要であることを証ししているからです。裁くという行為には、基準・規範が必要です。裁くという行為は、生きていくときに、ばらばらに好き勝手に生きるのではなく、共に規範を守る必要があることを明らかにします。
 では、誰の規範に従うのでしょうか。力ある者が、自分に都合のよい規範を作り出して、それに従うのでしょうか。この世は、遙か昔から今に至るまで、武力や経済力、人数の力によって規範を定め、人を従わせてきました。この世の規範、秩序はこの世の力によって立てられてきました。

 しかしパウロは、神の規範、神の言葉に従うべきであると考えています。なぜなら、神と共にある、神と共に生きるところに救いがあるからです。
 すべての人は、神を知っています。聖書が証しする神を知らない人は、神を知らないのかというとそうではありません。この世には数え切れないくらい様々な神々、偶像が存在します。けれど、それらの神々を知る人は、神に従い、神と共に生きるのではありません。神を僕とし、自分の願いを神に叶えさせるために様々な偶像を作り出し、自分の願いの実現のために神を祭り儀式を行っているのです。
 だから「弁解の余地はない」とパウロは言うのです。神を知らないから、神と共に生きていないのではありません。自分に都合よく生きるために、神々を作り出しているのです。神に立ち帰ろうとせず、自分の罪、自分の願望に留まっているのです。そして力ある者は、自分に都合のよい規範を作り出し、他の人々を支配し裁いています。パウロはこの手紙の中でこう語ります。「正しい者はいない。一人もいない。」(3:10)
 こういうわけで、パウロは、すべての人が神の裁きのもとにあることを知っています。「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。」(2節)

 神に従わず、自分の規範を立てる者は、その規範が善意によるものであっても、あなたが正しいのか、わたしが正しいのかという対立と争いをもたらします。今、世にある対立も大義名分としてはこの「正しさ」の争いです。アメリカの正義か、中国の正義か、あるいはロシアの正義か、それともアラブの正義か・・それは終わりのない戦いです。
 わたしたちは終わりのない戦いの世界に生きています。終わりなき戦いの世界に生きるわたしたちに、神は語りかけます。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ 5:9)「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(2コリント 5:19,20)
 神は、終わりなき戦いの世界を造り替える言葉を語りかけ、わたしたちにその神の言葉を委ねられました。わたしたちが聖書から聞く神の言葉は、わたしたち自身を新しくするだけでなく、この世界をも新しくする神の言葉なのです。

 パウロは、自分の善意の正しさ、自分の規範の正しさを主張するすべての人に対して語ります。「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。」(3節)
 裁きのただ中にあるわたしたちに対して、神ご自身が救いの道を備え、招かれることをパウロは知っています。神の慈愛が、わたしたちを悔い改めに導くのです。
 わたしたちが悔い改めへと進むことができるのは、そこに未来を見出すことができるからです。そのよい例が、放蕩息子の譬えです(ルカ 15:11〜24)。放蕩息子は身を持ち崩し、豚のえさで腹を満たしたいとさえ思います。彼は本心に立ち帰り決心します。『父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」放蕩息子は父の許に未来を見出し、父の愛と赦しを信じて帰るのです。

 神は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられ」(2ペテロ 3:9)ます。パウロは、この神の豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじてはならない(4節)、と呼びかけます。神は裁きを行わずに罪を大目に見られるのではありません。終わることのない争いの世に終止符を打つため、御子を遣わしてまで裁きを行われます。それは、わたしたちが救いと平安に与るためです。ですから、裁きにも希望があります。救いに至る希望があります。

 しかし、だからといって「裁かれれば大丈夫なんですね」と言って罪に留まっていていい訳ではありません。神は裁きの痛み・悲しみを負うのではなく、神の福音に応えて、悔い改め、救いに与ることを願っておられます。裁きには痛み・悲しみが伴います。イエスも十字架に掛けられる前に「この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ 14:36)と祈られたように、裁きには耐え難い痛み・悲しみが伴います。神はわたしたちが裁きの痛み・悲しみへと進み行くのではなく、悔い改めて救いの喜びへと歩むことを願っておられるのです。
 だから聖書は裁きについてもちゃんと語ります。「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」(5節)

 わたしたちが、神の裁きを逃れ、救いに至るためには、道はただ一つなのです。悔い改めて、キリストの救いに与り、神の義に生きることです。自分の正しさ、人間の正しさではなく、神の正しさによって生きることです。
 神は、ひとり子イエス キリストを遣わし、その命をかけて、神の義・神の正しさを成し遂げてくださいました。そして今、その救いにわたしたちを、すべての人を招いておられます。どうか、この地に住む一人ひとりが、世界のすべての人が、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐に与ることができますように。

ハレルヤ


父なる神さま
 罪ゆえに自らの正しさを掲げ、争いの中で傷つき疲れてしまうわたしたちを救いに与らせてくださることを感謝します。どうかキリストの救いの中で、あなたの愛と赦しに生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 8:26〜27

2019年7月14日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:26〜27(新共同訳)


 ここでは、霊と祈りについて語られます。ここで言われる「霊」は、神の霊、聖霊のことです。この箇所でも語られているように、聖霊の働きと祈りには深いつながりがあります。

 聖書が告げる救いは、罪からの救いです。それは、父・子・聖霊なる神との交わりに入れられることによって与えられます。救いとは、神と共に生きることです。
 神は、罪の世にあってわたしたちが神と共に生きられるように手立てを講じてくださいました。神は、ご自身の民を召し出し、礼拝する群れを造り出されました。
 「礼拝」という言葉は、創世記 22章に初めて出てきます。けれど、礼拝という言葉になる前に、礼拝を表す言葉が出てきます。創世記 4:26には「主の御名を呼び始めた」とあります。この主の名を呼ぶというのが、礼拝のことだと言われます。つまり、礼拝の本質には主の名を呼ぶということがあるのです。ですから、主の名を呼ぶこと、祈ることが、わたしたちの信仰生活の基本に存在しています。

 一人ひとりが聖書を持てるようになったのは、活版印刷がなされるようになったここ500年ぐらいの話です。礼拝から礼拝に至る神の民の日常生活を支えてきたのは、祈りです。アブラハムは聖書を持っていませんでした。十戒も知りません。彼の信仰生活を支えたのは、神を礼拝し、主の名を呼ぶことでした。

 神が語りかけてくださり、わたしたちが応答する。ここに神との交わりが生じます。
 神はわたしたちを呼ばれます。神は、アダムとエバが罪を犯し、神から隠れようとしたとき、アダムを呼ばれました。「どこにいるのか。」(創世記 3:9)神が呼びかけてくださるので、罪人は神へと立ち帰り、御前に進み出ることができるのです。だからわたしたちの礼拝は、神の招きの言葉で始まります。そして、神に呼ばれ、招かれたわたしたちは、主に呼ばれたサムエルと同じように「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル上 3:9)と御前に進み出るのです。神が語りかけてくださり、人が神に応答する。ここから神と共に生きることが始まります。

 神は共に生きることを願って、ご自身にかたどってわたしたちを造り、神の務めを担うようにされました。神と共に生きるということは、神との交わりに生きるということです。名前を呼んでも返事がない。話しかけても聞いていない。これでは共に生きることが形作られていきません。神は今、御言葉を通して語りかけておられます。御言葉を通して神の導きに気づかされます。そしてわたしたちは、神に祈りをもって応え、讃美によって応え、主の御業に仕えることによって応えていきます。こうして、神と共に生きる生活が形作られていきます。わたしたちの信仰生活は主に応えること、祈りから内実が満たされていきます。
 聖書には民の祈りである詩編が収められています。人の祈りの言葉を、神はご自身の言葉として聖書に収め、詩編から祈りを学べるようにしてくださいました。神はわたしたちの祈りを求めておられます。だからイエスは神の民、教会についてこう言われます。「私の家は、祈りの家と呼ばれる。」(マタイ 21:13 聖書協会共同訳、イザヤ 56:7)

 人は神に造られたので、信仰のあるなしに関わらず、祈りは人にとって本質的なものです。例えば、大切な人が事故や病気で命が危ぶまれるとき、「助かりますように」と祈らない人がいるでしょうか。大切な人のためにその無事を、その幸せを願う。その願いが祈りとなっていきます。自分は何もすることができない。それでもその人の幸いを願う。人が生きていくためには、神の助けと導きが必要なことを人は本質的に知っているのです。

 しかしそれでも人は罪を抱えているので、祈れなくなります。
 一つには、受けとめきれない悲しい出来事、困難に出会ったときです。とても神に感謝なんてできない。神を喜ぶことなんてできない。「神さま、どうしてですか」と言って絶句してしまう。そういうことが人生では起こってきます。
 そんなとき、信仰の友が祈れない自分のために祈ってくれることもあるでしょう。たとえそういう人がいないときであっても、聖霊なる神がわたしたちと共にいてくださり「弱いわたしたちを助けてくださいます。」
 わたしたちが涙を流し慟哭するとき、歯ぎしりし「どうしてなんだ」と叫び続けるとき、希望を失い何も考えられないとき、聖霊なる神自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。イエス キリストがわたしたちの罪を負って苦しんでくださったように、聖霊も祈れないわたしたちの苦しみを担ってうめかれるのです。

 神はわたしたちを知っていてくださいます。人の心を見抜くお方です。そして、聖霊なる神の思いも知っておられます。聖霊なる神は、ひとり子を遣わしてでもわたしたちを救うという神の御心に従って、わたしたちをキリストに結び合わせ、聖なる者、聖徒としてくださいました。そして、わたしたちの救いのために執り成し続けていてくださいます。
 ですから、祈れないとき「神さま」と言って、言葉が見つからない、出てこないときには、そのまま「キリストの御名によって祈ります アーメン」でよいのです。祈るべき言葉が出てこない、見つからないときには、聖霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成していてくださいます。祈れないときでさえ、聖霊が執り成し祈っていてくださるのです。

 わたしたちは自分の力で祈るのではないのです。信仰生活の基本にある祈りだからこそ、神の助けと導きが必要なのです。
 さらに、信仰の先輩と一緒に祈る中で、何についてどう祈るのか、どんな言葉を使うのかをまねをしながら祈ることを身に着けていきます。わたしは共に祈ることが信仰の継承には欠かせないと考えます。

 また、祈りは神と向かい合うことですから、神以外のものに思いが行ってしまい神と向かい合うことができなくなると祈れなくなります。ですから、祈りで最も大切なのは、言葉を整えることではなく、神へと思いを向けることです。

 わたしの大学時代の友人は「自分は神さまの御心にかなう祈りが分からないから、主の祈りしか祈らない」と言っていました。わたしたちの祈りには神の御心にそぐわないことがあることはよく分かっています。だからこそ「キリストの御名によって祈る」のです。わたしたちの救いの御業を成し遂げ、今も神の右にあって執り成していてくださるキリストに自分の願いを委ねて祈るのです。わたしたちの祈りは、聖霊にもキリストにも執り成されて祈れるのです。

 そして祈らないでいると、祈れなくなります。ケガなどをして何ヶ月も動かさないでいると、動かせなくなります。同様に、祈らないと祈れなくなります。牧師でも祈れなくなります。中会や大会の委員会の書記をして、記録をまとめたり委員会の準備をする連絡するなど事務に追われ、落ち着いて祈れないことが続くと「自分は何を祈っていたんだろう」と祈っていたことを忘れてしまい、祈りが出てこないことがあります。
 神と向かい合うことも、祈りの時間を保つことも、聖霊の助けが必要です。「慌ただしくて祈れません。心落ち着かなくて祈れません。祈る気になれません」わたしはそんな祈り、つぶやきをしょっちゅうしています。

 わたしたちの日本キリスト教会は、学びを大切にする教会です。学びが好きと言ってもいいかもしれません。ですが少々学びに偏りすぎているように思います。神の御心を学ぶ・聞くだけでなく、祈り・讃美という神への応答・神への語りかけを信仰生活の中に取り入れていく必要があるように思います。

 聖霊が弱いわたしたちを助けてくださいます。どう祈るべきかを知らないわたしたちのために、聖霊自ら執り成してくださいます。わたしたちの祈りも神の恵みの中に入れられています。わたしたちは信仰が立派に成長し、素晴らしい祈りができるようになってから祈るのではありません。神はわたしたちを知っておられます。人の心を見抜くお方です。その神が今、わたしたちを求め、わたしたちの祈りを求めておられます。わたしたちの罪も、欠けも弱さもすべて知っておられる方が、今わたしたちを求めておられます。共に生きることを求めておられます。だからわたしたちはこの神に向かって「神さま」と祈っていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうか聖霊をお注ぎください。あなたがわたしたちを求めておられることを知ることができますように。あなたの救いの恵みの中で「アッバ 父よ」と祈っていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 1:24〜32

2019年7月10日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:24~32(新共同訳)


 この箇所で一番注目を引くのは、同性愛に関する記述であろうと思います。おそらく長い間教会が同性愛を禁止事項としてきたことの根拠となった聖句の一つであろうと思います。しかし、この箇所は今日一般的に認識されている同性愛について論じている箇所ではありません。

 24節の冒頭に「そこで」とあります。これは前段からのつながりを表しています。前段で言われていたのは、偶像礼拝の問題で、神というものを知りながら、神にふさわしく崇めず、感謝もしない。自分の利益や願望の実現のために神を利用しようとする自己中心的な信仰に対する批判が述べられていました。そして、そのような罪に対する神の怒りを伝えようとしています。18節には「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」とあります。
 ですから、問題の中心は21節の「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」ということであり、神が中心ではなく、自分が中心であるということなのです。

 そこで同性愛の問題ですが、ここは今日人権の問題として取り上げられる性的少数者LGBTと言われる生まれながらの性的少数者の問題ではなく、自分の快楽・娯楽の追求として行われる性行為を問題としているのです。
 この類いの問題はパウロの手紙には何回か出てきます。1コリント 5:1では「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」と書かれています。
 強大なローマ帝国がもたらした平和の中で、楽しみ、刺激を求めていく。そんな中で起こっている出来事として同性愛が取り上げられているのです。
 29〜31節に挙げられているように、自分中心の偶像礼拝から多くの問題が生じています。その中で、同性愛が特に取り上げられているのには理由があると思います。26節に「自然の関係を自然にもとるものに変え」とあります。自然は、神が与えてくださった命の秩序を表します。人が罪の中で手にした自由は、その自然を不自然なものに変えてしまいます。このときに罪人から出てくる言葉が「わたしの自由」であり、「他人に迷惑はかけていない」です。自分の楽しみであり、相手も同意して楽しみを共有してくれている。誰かを傷つけたり、奪ったりしていない。他人からいろいろ言われる筋合いはない。これは聖書の考え方とは違います。だから、神と関係なく、自分を楽しませる問題として、特に同性愛が取り上げられているのではないかと思います。
 聖書が告げるのは「わたしの自由」ではなく、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント 10:31)です。聖書の基準は、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいではなく、神の栄光が表されるかどうかなのです。
 この点をきちんと確認した上で、この箇所は読んでいかなくてはならないと思います。この箇所におけるパウロの論述の基本にあるのは、25節の「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」という信仰であり、神の栄光が現されるかどうかなのです。

 さて、この箇所のパウロの論述で特徴的なのは「神は・・まかせられた・渡された」という表現です。24節「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」26節「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました」28節「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」3回「神は・・任せられた・渡された」という表現が出てきます。
 これは、人が神というものを知りながら、神を自分の願いを叶えるための僕にしてしまっている。神はその愚かしさに気づかせるために彼らの欲望(24節)、無価値な思い(28節)に彼らをまかせ、その報いを身に受けさせるようにされた、ということです。
 このような表現は旧約にも出てきます。詩篇 81:12~13にはこうあります。「わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。」
 わたしたちは神に立ち帰り、自分の願いからさえも自由になる必要があるのです。自分が何を欲しているかをきちんと理解することは大事なことです。しかし、自分の願いが叶っていれば幸せになれるのではありません。わたしたちの命を創り、責任を持ってくださる神が、わたしたちの幸せを願い、救いの御業を成し続けていてくださいます。わたしたちが求めたので、救い主イエス キリストを遣わされたのではありません。わたしたちが誰一人求めなくても、わたしたちの救いのために神はひとり子イエス キリストをお遣わしくださいました。神の御心のなるところに、わたしたちの救いがあり、幸いがあるのです。ですからイエスはこのように祈りなさいと言って主の祈りを教えてくださいました。「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」(マタイ 6:10)

 神が「彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするように」されるとき、29~31節に列挙されている悪徳が世に満ちてきます。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」ここでは、パウロが見た、神と共に生きようとしない世界の問題を挙げています。
 今、わたしたちは比較的平和な社会に生きているので、パウロが挙げたこれらのことが少し強烈に感じられるかもしれません。しかし、わたしたちは気づいていなくてはなりません。平和と言われる日本の社会においても、毎日のニュースでは紛争、テロが次々と報じられ、殺人やいじめ、虐待、詐欺のニュースが絶えることがありません。若者から大人まで多くの人々が苦しみうめいています。
 わたしたちは罪の世で生きているのです。そしてパウロが列挙する悪徳の満ちてくる世にあって「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ 5:9)というイエスの勧めを受けているのです。

 パウロは言います。「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」(32節)
 日本でも昔から「お天道様に恥じないように生きなさい」と言われ、「情けは人のためならず」と言われます。「罰が当たる」という言葉もあります。正しい生き方へと導こうとする知恵ある言葉は、聖書の外にも、日本にもあります。しかし、この世の知恵ある言葉は真の神へと立ち帰らせることはありません。パウロがここで言っている神を神として崇め、感謝へと至らせ、神と共に、また神に従って生きる信仰に至らせることも残念ながらありません。

 パウロは知っています。イエス キリストの十字架と復活に依らなければ、罪から解放されず、自分自身からも解放されないことを。罪がもたらす死と滅びから解放されないことを。そして、あらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されるのです。
 だからこそパウロは、神の福音であるイエス キリストをすべての人に宣べ伝えたいと願っているのです。神の怒りを受けるのではなく、神の祝福に与るように。罪にまかせてしまわれるのではなく、救いの御業に与り幸いを得ることができるように。そのためにパウロも教会も、本当の救い主、本物の救い主、イエス キリストを宣べ伝え続けているのです。
 そして神は今も、神の幸いと平和に生きるようにと、わたしたちに語りかけ、招いていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖霊を注ぎ、わたしたちの思いを常にあなたへと向けさせてください。御言葉からあなたの御旨を正しく聞き、あなたと共に生きることができますように。あなたの救いに与っている喜びでわたしたちを満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 3:12〜15

2019年7月7日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:12〜15(新共同訳)


 イエスは、訪ねてきたニコデモに対して語り続けます。
 「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」
 地上のことというのは、ニコデモに話した聖霊の働きにより洗礼を通して新しく生まれることです。
 天上のことというのは、地上の生涯が終わった先に用意されている事柄のことです。例えば、ヨハネ 14章でこう言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ 14:2, 3)これは地上の生涯が終わって神の国に入れられてからでないと確かめようのないことです。

 イエスは、ニコデモに最も必要な救いについて語られます。読んで頂くと分かりますが、イエスはニコデモに尋ねられたから語っているのではありません。イエスはニコデモが語らずともニコデモを知っておられるので、ニコデモに必要なことを語ってくださるのです。
 ニコデモは、律法をきちんと守って神に喜ばれ、祝福されようとするファリサイ派の一員でした。彼は律法を守ることが救いの要件だと思っていました。ところがイエスは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われます。

 救いは神の御手の内にある事柄です。わたしたちの自由にすることはできません。ファリサイ派や律法学者たちは、救いは自分たちの手の中にあると勘違いしていました。そして、神の御心は自分たちが一番よく分かっていると思い上がっていました。けれどニコデモは、イエスに教えを請いに来る謙虚な人でした。それでもイエスの言葉に衝撃を受け「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」「どうして、そんなことがありえましょうか」と驚くばかりでした。
 イエスはニコデモに、実は神のことを分かっていないということを知らせ、自分の言葉に心を開くように促します。ファリサイ派や律法学者たちが考えるよりもはるかに広く深い神の御心を知るように導かれるのです。

 イエスは言います。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」
 神と共にいた者でなければ、神を知らないし、神を語ることはできません。神ご自身でなければ、神の御心を正しく伝えることはできません。イエス キリストこそ、わたしたちの救いのために人となって天から降ってきてくださった神よりの神、真に神であり、真に人であるお方です。聖書は語ります。「(神は)この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ 1:2)
 イエス キリスト以外に天に上った者は誰もいません。イエス キリストは唯一無二のお方です。このただ一人のお方が、わたしたちの救いのために十字架に上げられてくださいました。

 ここに出てくる「モーセが荒れ野で蛇を上げた」と書かれているのは、民数記 21:4~9に出てきます。エジプトから導き出してくださった神の御業に不平を言うイスラエルに対して、神は炎の蛇を送り、蛇にかまれて多くの死者が出ました。民はモーセに泣きつきます。モーセは民のために神に祈ります。神はモーセに答えて言われます。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」それでモーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た、と聖書は語ります。
 ここでイエス民数記の出来事に触れられたのは、この出来事がキリストの十字架を指し示しているからです。神の裁きの出来事を仰ぎ見ることが、救いへとつながるという点が十字架を指し示しているのです。キリストの十字架においてわたしたちの罪が裁かれており、十字架の主を仰ぎ見て、神が罪を裁き、わたしたちを救ってくださっていることを信じるのです。それ故に、十字架はキリスト教会のシンボルとして用い続けられてきました。

 イエスはニコデモに新しく生まれる鍵となる十字架を示されました。なぜなら、永遠の命を得るためには、キリストの十字架が自分の救いのためであることを知り、信じ受け入れる必要があるからです。

 ところで、わたしたち罪人は、どうしても満足や手応えを求めます。律法を守れるようになった。以前より、愛せるようになった。赦せるようになった。成長した。どうしてもファリサイ派のような律法主義的な信仰に近づいていきます。
 しかし聖書は、神と共に生きるということ、神と共にある命について語ります。命は、わたしの命であっても、わたしのもの、わたしの所有物ではありません。わたしたちは能力も性格も自分で選んで生まれては来ません。いつの時代に生まれるか、どの国に生まれるかも選べません。健康に気遣うことはできても、死から自由になることは決してありません。命は自分の自由にはなりません。命は、神から与えられた賜物であり、神のものなのです。
 命をお与えくださった神は、命が滅びるのをよしとされず、共に生きていくことを願って、救いの御業をなしてくださいました。その神の救いの御業の結果、わたしたちに与えられるのが、神と共に生きる命、永遠の命です。

 この永遠の命は、このヨハネ福音書が救いを語る上で重要だと考えているテーマです。例えば「永遠の命」という言葉が、マタイでは3回、マルコは2回、ルカでは3回なのに対して、ヨハネには17回出てきます。そしてヨハネ 6:40では「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」だと記しています。またこの福音書自体の目的が「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ 20:31)とあります。
 永遠の命は、今の命と同じく、神から与えられる賜物、恵みです。律法に捕らわれ、自分の成長に捕らわれ、自分に思いを向けるのではなく、わたしたちのためにご自分の命を献げて十字架を負われたイエス キリストを仰ぎ、キリストを通して命の源である父・子・聖霊なる神との交わりに入れて頂くとき、永遠の命に与るのです。

 イエスは、ニコデモが自分自身から解放され、神の恵みの御業に自分自身を委ねることへと導こうとしておられます。わたしたちもまた、真の羊飼いであるイエス キリストに導いて頂くとき、自分自身のすべてを委ねることのできる真の神との交わり、永遠の命に入れて頂くのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ 17:3)


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちを知っていてくださり、永遠の命に与らせるため、丁寧に導いてくださいます。救いは、わたしたちが求めるところにではなく、あなたの御心の内にあります。どうかあなたの導きを信頼し、御心を求めていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 1:18〜23

2019年7月3日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:18~23(新共同訳)


 パウロは、福音宣教のために3度伝道旅行を行いました。その中でギリシャの中心都市アテネにも行きました。パウロは偶像がおびただしくあるのを見て、憤りを感じ、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じ合いました(使徒 17:16, 17)。そこでパウロはこんなことを言っています。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」(使徒 17:22, 23)
 ギリシャ人の信仰の熱心は、自分たちが気づいていない神に失礼があってはならないと考えて、『知られざる神に』と刻まれた祭壇まで作っていました。そこでパウロは、あなたたちの知らない神について知らせようと言って神の救いの御業について語ります。

 パウロは世に数え切れない神々がいることを知っていました。そして、パウロよりも広い世界を知っているわたしたちは、パウロ以上にたくさんの神々が世にはいることを知っています。ギリシャ・ローマの神々、エジプトの神々、北欧の神々、ヒンズーの神々、仏教の仏、そして日本の八百万の神々。聖書に依らずとも、人々は神なるものを知っています。パウロは「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(19, 20節)と言っています。

 人は、その長い歩みの中で、自然の恵みなくして生きていけないことを理解してきました。農業、狩猟、漁業、林業、自然と関わる人たちは、神を無視して生きることはありませんでした。神が自然の恵みを与え、生きることを守り支えてくださるように神を祭ってきました。自然の力を前にして、人の命が奪われてしまうことを覚えて、神の守りを祈願してきました。はかなく短い人の命と比べて遙かに長い時を生き存在している木や岩や山を崇めてきました。そこに神の永遠の力と神性が宿っていると信じて崇めてきました。便利になった都市で暮らす人たちは神を畏れ敬う思いが薄らいできていますが、今でも自然と関わる仕事をする人たち、命に関わる危険のある仕事に携わる人たちには、神事は欠かせません。
 だからパウロは語ります。「彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

 パウロは、人々が自然から知った神への信仰は適当ではないと言います。聖書が教える信仰は、神が中心です。神が主であり、わたしたちは僕です。しかし、自然から知った神への信仰は、自分が中心の信仰です。自分たちの生活が恵まれるための信仰であり、自分たちの命が守られるための信仰です。このような信仰の場合、文明により生活が豊かになり、命の危険が減っていくと、神を信じ敬う必然性が薄らいでいきます。多くの日本人が「宗教を信じてはいない」と言うのもそのためです。
 この人間が益を受けるための信仰は、様々な偶像を作り出してきました。パウロは「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」と語ります。
 わたしたちの周りにもいろいろあります。菅原道真を祭る太宰府天満宮徳川家康を祭る日光東照宮明治天皇を祭る明治神宮。日本でも朽ちる人間を祭ります。
 そればかりではありません。罪が働くとき、教会の中でさえ、人間を祭り上げることがあります。日本基督教会の歴史の中で大きな働きをした植村正久という牧師をご存じのことと思います。わたしが神学校にいた頃、植村正久についての特別講義が行われていました。数人の牧師による連続講義で、ある講義に植村正久から洗礼を受けたという高齢のご婦人が出席されました。講義の後の質疑応答の時間にそのご婦人が発言をされました。その発言の中の一言を今でもよく覚えています。そのご婦人はこう言われました。「植村先生は神さまのような方でした」わたしはそれを聞いて「罪を抱えたわたしたちは、キリスト者であっても偶像を作り出してしまうのだろうなぁ」と思い「どうしたらちゃんと神を伝えられるのだろうか」と考え、今に至るまで考え続けています。
 そして、人は神の使いとされる鳥や蛇、神獣と呼ばれる動物たちを考え出し、偶像を作り続けてきました。聖書の中に出てくる例としては、旧約の民が作り出した金の子牛が有名です。
 しかし、人であろうと、動物であろうと、木や岩、山であっても、神の代わりにはなりません。神以外のものに神は務まらないのです。

 自分中心の信仰で、神ならぬものを神としてしまう罪に対して、パウロはこう語ります。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(18節)
 神は、愛する人を滅びへと導く罪に対して、お怒りになります。神は、愛する者と共に生きることを願っておられます。それを破壊する罪を、お許しになりません。わたしたちも、共に生きることを壊されたら、怒らずにはおれません。しかし、わたしたちは罪がもたらす死に対して無力です。ただ、神だけが死を打ち破り、そこからわたしたちを救い出すことがおできになります。
 わたしたちはきちんと知らなくてはなりません。罪を打ち砕き、わたしたちを命に至らせるために、神はご自身のひとり子をおささげになったということを。ひとり子をおささげになるほどの、わたしたちに対する神の愛と、罪に対する神の怒りをきちんと知らなくてはなりません。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに」わたしたちを愛しておられます。わたしたちを救うために、神はイエス キリストの命という高価な代価を支払ってくださいました。それは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であります(ヨハネ 3:16)。わたしたちが神と共に生きられるようになるため、神は他の何ものにも代えることのできないキリストの命をささげ、罪を裁き、わたしたちを罪から解き放ってくださいました。十字架は、罪に対する神の怒りの啓示です。人間のあらゆる不信心と不義とに対して、神はキリストの十字架において裁かれました。このキリストだけが、わたしたちの罪を解決し、罪から救ってくださるお方です。科学が発達し、医療も進み、わたしたちの生活にどれほどの益をもたらそうとも、科学はわたしたちを罪から解放しません。人が作り出したどんな偶像もわたしたちを罪から救い出しません。イエス キリストだけが、わたしたちの命に責任を持ってくださる方なのです。

 パウロは、このわたしたちを愛し、わたしたちを救う真の神を知っているので、自分の安全と豊かさを願い、自分の願いを叶えるために神を動かそうとする信仰に対して厳しく語ります。「なぜなら、(彼らは)神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。(彼らは)自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替え」てしまったのです。

 わたしたちは、偶像礼拝に至る自分中心の信仰ではなく、神の言葉に聞いて、神の言葉に育まれる信仰を大事にしていかなければなりません。なぜなら今もなお、神はキリストが死に勝利された日曜日ごとに、わたしたちの名を呼び、御前へと招き、救いへと導いていてくださるからです。神はきょうも、わたしたちを救い、共に生きるために、御言葉を通して語りかけてくださいました。どうか、御言葉によって神を知り、神と共に生きる救いに与って歩まれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 罪ゆえに偶像へと向かい、あなたから離れてしまうわたしたちに、絶えず語りかけ、救いへと導いてくださることを感謝します。あなたが自ら語ってくださるのでなければ、わたしたちはあなたを知ることができません。どうか御言葉を通してあなたを知り、あなたとの交わりの内に生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン