聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマの信徒への手紙 8:18

2019年5月19日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 8:18(新共同訳)


 この手紙の著者であるパウロは、聖霊によって救いに入れられた者は、神の子どもとされ、神の相続人、キリストと共同の相続人となって神から祝福を相続すると語ります。

 ただその時に少し引っかかることを語ります。パウロは「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」(8:17)と語ります。

 わたしたちは普通、神に苦しみを求めません。
 確かに高いレベル、高い境地、あるいは勝利を目指して、自ら厳しい修練を課すことがあります。悟りを求める修行者、また音楽などの芸術、武術やスポーツなど道を究めようと志す人などはそうでしょう。パウロも別の手紙で「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ 3:10,11)と言っています。

 ではわたしたちは、苦難を求めるべきなのでしょうか。
 そうではありません。確かに古くから今に至るまで、修道士など厳しい環境の中で自らを律し、罪と闘い、正しい道を歩もうと修練を続ける人たちがいます。しかし聖書は、修練や研鑽の先に救いがあるとは言っていません。
 わたしたちは、自分で滝に打たれるなどの修行をするのではなく、罪の世で生きていく中で直面する試練、誘惑を通してすべての人が訓練されていくのです。パウロも救いのために自分から進んで断食の行をしたとか言うのではありません。福音を宣べ伝えていく中で、苦しみに直面するのです。キリストの十字架と復活を思いつつ、救いの御業に仕えた先に備えられている復活の栄光を望み見ているのです。
 ですから、わたしたちが求めるべきは、苦難ではなく信仰です。わたしたちに必要なのは、困難の中でも神を信頼する信仰、神に依り頼む信仰、神と共に生きる信仰です。

 ただわたしたちは、罪の世にあって生きることに伴う苦しみについて知っている必要があります。罪の世で生きるときに必然的に伴う苦しみについて正しく知り、適切に対応することは必要です。

 聖書は苦しみの根源が、罪にあると語ります。罪については創世記3章で語られています。罪の根本は、神が食べてはいけないと命じられた善悪の知識の木の実を食べてしまったことです。人類最初の罪ですから、どんな大事かと思いきや拍子抜けするような事柄です。しかしこの罪の結果、人は自分自身の善悪を持つようになりました。善悪の知識の木の実を食べて、善悪の知識を持ったのです。
 ただ問題のは、この善悪は、神の御心とは違う自分の善悪でした。そして他の人とも違う自分の善悪でした。
 これによって、人は神の御心に従えなくなりました。神の御心が分からなくなりました。神の御心よりも、自分の感じる善悪が基準、中心になってしまいました。神との間だけでなく、隣人との間でも分かり合えないことが生じるようになりました。キリスト者が集まれば信仰が一緒だから、価値観が一緒、考えが一緒になるかと言えば、そんなことはありません。
 そして、罪により、自分自身の善悪を持つようになったために、一緒に生きる隣人たちとも善悪が衝突するようになりました。いいこと悪いことが夫婦でも違います。親子でも違います。ご近所でも職場でも違います。この罪の世では、個人から国家間に至るまで善悪が衝突しています。そこで何が起こるかといいますと、自分の善を通すために争い支配するということが起こります。物理的な暴力だけでなく、経済的な圧力、社会的な地位による圧力など様々な力によって争いが生じます。迫害もここから生じます。罪は自分の思いを通すために争いを生み出し、支配を生み出すのです。
 さらには、自分の善悪に従い、命の創造主である神に背を向けて生きることから、命に背を向け、死に向かって生きるようになってしまいました。

 こうして罪は、神と共に生きること、隣人と共に生きることを破壊します。支配を生み出します。そして、命すなわち生きることを破壊するのです。これが罪がもたらす苦しみです。

 この罪から救い出すためにイエス キリストは、人となってこの世に来られました。聖書は告げます。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ 1:21)。そして、わたしたちの罪を贖うために、ご自身は罪がないにも関わらず、十字架を負われ、わたしたちに代わって、わたしたちのために裁きを受けてくださいました。

 そのイエスが言われます。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ 16:24、マルコ 8:34、ルカ 9:23)。
 イエス キリストは、十字架によって、復活に至り、神の国と永遠の命をわたしたちに与えてくださいます。イエスは自分の後に続き、神の国と永遠の命に至る道を歩むように招いておられます。

 このイエスの招きをわたしたちは知っています。けれどわたしたちは罪がもたらす苦しみの中で迷い、揺らぎます。しかしその迷い、揺らぎの中にもイエスは共にいてくださいます。イエスご自身、十字架の前に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ 26:39)と祈られました。そして「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」(マタイ6:13)と祈るように教えてくださいました。

 祈りは、神と共に歩むための恵みの賜物です。わたしたちはどこにいても、どんな状況でも神に呼びかけ、神の御前に進み出ることが出来ます。だからわたしたちは祈りつつ、神との交わりの中で歩みます。イエス キリストを仰いで、神はそのひとり子をお与えになったほどに、わたしを愛していてくださっている。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることを願っていてくださる。その神の愛に支えられて歩むのです。そして、約束されている救いを望み見て、歩んでいくのです。

 聖書は「将来わたしたちに現されるはずの栄光」と言います。
 聖書において「栄光」とは、神が救いの神であることが現れることを言います。ですから「将来わたしたちに現されるはずの栄光」というのは、約束されていた救いが実現することを指します。わたしたちが神の子とされ、神の国に入れられ、永遠の命が与えられること、罪から完全に解放され、神の愛に生きることが実現することを表しています。そこでは、神と共に生きることを喜び、神の許で共に生きることを喜び、互いに仕え合い、神に命を与えられたこと、神にかたどって命を与えられたこと、生きていることを喜ぶのです。

 これはわたしたちの想像を超える恵みです。そんな恵みが本当に与えられるのだろうか、と疑いたくなるほどの恵みです。パウロはこれを「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と表現しています。苦しみと栄光を比較しているのではなく、苦しみの中から想像してみても、その想像をはるかに超えていく大きな恵みを言い表しているのです。

 わたしたちは生きていくのには希望が必要です。どんな時にも揺るがない神からの希望が必要です。この手紙がしたためられ、教会で読まれるようになってから今まで、迫害もありました。戦争もありました。病気が蔓延したこともありました。神の言葉が空しく思えるような出来事が数え切れないほどありました。けれど、どんなことが起こり、どんな状況になっても、神の約束は変わりません。神の信実が、神の信実であるイエス キリストの救いの御業が、この言葉を支え続けています。

 わたしたちが罪の世を生きていくには、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と言うことのできる神の希望が必要なのです。そしてその希望を神はわたしたちに与えてくださいます。神は、わたしたちが救いの恵みの中で喜び生きることを願っておられます。だからわたしたちは、代々の聖徒たちと共に、神の信実であるイエス キリスト、神から来る希望に支えられて、罪の苦しみの中で「主よ、助けてください」と祈り求めながら、主と共に救いの道を歩んでいくのです。

ハレルヤ

父なる神さま
 わたしたちが信仰によって、あなたが用意していてくださる栄光を仰ぎ見ることができますように。礼拝を通して、あなたの御国を知ることができますように。あなたの信実であるイエス キリストにより与えられている希望によって支えられて、与えられている一日一日をあなたと共に歩めますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 2:23〜25

2019年5月12日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 2:23〜25(新共同訳)

 きょうからご一緒に神の言葉を聞いてまいりたいと思います。
 福音書福音書以外を隔週で連続講解していきます。今週はヨハネによる福音書、来週はローマの信徒への手紙、その次がまたヨハネによる福音書という具合です。
 なぜこの箇所からかと言いますと、前の教会で説教した続きだからです。わたしは皆さんに神の言葉を取り次ぐ務めを託されている訳ですが、その務めを最もよく果たすには、わたしの場合、これまで聞いてきて今も聞き続けている御言葉を中断せずに聞き続け、お伝えするのがよいと思うからです。

 さて23節に「過越祭」という言葉が出てきます。過越祭とは、出エジプトを記念する祭りで、五旬祭(七週祭)、仮庵祭と共にユダヤ教の三大祭りの一つに数えられるものです。
 このヨハネによる福音書では、過越祭が3回出てきます(6:4、11:55)。ここからイエスの救い主としての活動(公生涯)が約3年間であったろうと考えられています。

 「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とあります。
 ヨハネ福音書は他の福音書に比べて「しるし」という言葉を多く使います。マタイが6回、マルコが5回、ルカが6回なのに対して、ヨハネは17回使います。
 ところが今回のエルサレム滞在において、福音書は「しるし」を記録していません。福音書が記す最初のしるしは、2章にあるカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた出来事。2回目に出てくるしるしは、4章に出てくるやはりカナで役人の息子を癒やした出来事です。
 しかし実際には、福音書に書かれているよりも多くのしるしがなされたことが分かります。3章でニコデモという人がイエスを訪ねてくる場面がありますが、そこでニコデモはこう言います。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」(3:2)。おそらくニコデモはイエスの行うしるしを見たのでしょう。ニコデモはイエスのしるしに対して「神が共におられる」という確信を持っています。しかし彼の見たであろうしるしは書かれていません。
 そして福音書自身、最後の方でこう書いています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」(20:30)、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(21:25)。

 ドキュメンタリーと言われる映像・文学であっても、取材したすべてがそこに報告されている訳ではありません。その作品を通して伝えたいことが最もよく伝わるように「編集」という作業がなされます。福音書も同じです。この福音書を編集したヨハネは、自分が見聞きしたこと、伝え聞いたことを取捨選択してヨハネによる福音書を編纂しました。その編纂の基準・目的をヨハネはこう書いています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)。

 ここでヨハネが伝えたかったのは、イエスエルサレムでなされたしるしの数々ではありません。ヨハネが伝えたかったのは「しるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」こと、「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」こと、そして「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」ということなのです。

 多くの人は、イエスがなしたしるしを見て信じました。イエスという人は素晴らしい力を持っている。わたしたちの願いをかなえてくれるに違いない。そんな風に期待をし、期待に応えてくれる人として信じたのでしょう。もう少し読み進めますと「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(6:15)とあります。多くの人は、イエスを利用できる力を持った人として信じたようです。イエスに従うのではなく、自分の希望・願望の実現をイエスに期待しているのです。ここには悔い改めはありません。
 世にある神々は皆、人の願いをかなえるために生み出されたものです。偶像に対する敬いは、願いをかなえてもらうための敬いです。そこには神へと立ち帰り、神に従い、神と共に生きるという聖書が教える信仰はありません。

 イエスはわたしたちの罪ある姿を知っておられます。けれど、わたしたちは自分の罪を隠そうとします。エデンの園でアダムとエバが木の間に隠れたように。あるいは自分の罪に気づきません。イエスに「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」と言われたとき、「あなたのためなら命を捨てます」(13:36, 37)と言ったペトロのように。しかし、イエスは知っておられます。

 人は知られることに不安を感じます。エデンの園で罪を犯した後、目が開け、裸であることを知ると、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆い自らを隠します。ある青年は「神が自分のすべてを知っておられると思うと、怖くて仕方ない」と言って教会を離れました。(いつかキリストの許に帰ってくることができますように)
 しかしイエスは、知っていながらペトロを弟子にしました。ユダを弟子にしました。弟子たちの中に、イエスを裏切らなかった者、見捨てなかった者、十字架を理解していた者は一人もいませんでした。イエスは神の民に受け入れられず、十字架に掛けられることを知っていました。それでもイエスはこの世に来られたのです。

 この世でただ一人イエスだけがわたしたちに失望しません。イエスだけがわたしたちを知っていてくださるからです。わたしたちの弱さも愚かさも罪深さも知っていてくださいます。知っているからこそ、わたしたちを救うために十字架を負われました。イエスこそすべての人のことを知っておられ、誰からも証ししてもらう必要のないお方です。買いかぶることもなければ、見損なうこともありません。

 ヨシュア記に書かれてあるとおり、神は「あなたを見放すことも、見捨てることもない」お方です(ヨシュア 1:5)。イエスはその神の思い、神の愛を伝えるために来られた神の言葉です。イエスを通して神の愛を知る者は、イエスが知っていてくださることに慰めと希望を抱きます。讃美歌第2編 210に「わが悩み知りたもう」という黒人霊歌がありますが、この讃美歌はイエスが知っていてくださることに支えられた人たちの讃美歌です。
 苦しみも悲しみも、迷いも弱さも、イエスは知っていてくださいます。そして、すべてを知っているからこそ、わたしたちの救い主となってくださいました。だからわたしたちは、すべてを委ねて依り頼むことができます。祈ることができます。

 かつてソロモンは神殿を建て、神に献げる際にこう祈りました。「あなたの民イスラエルが、だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら、そのどの祈り、どの願いにも、あなたはお住まいである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、こたえてください。あなたは人の心をご存じですから、どの人にもその人の歩んできたすべての道に従って報いてください。まことにあなただけがすべての人の心をご存じです」(列王記上 8:38, 39)。

 わたしたちの本当の姿を知っているお方が、わたしたちを愛していてくださいます。救いとなってくださり、命となってくださり、わたしたちの神であってくださいます。
 だからわたしたちは信仰深く装う必要がありません。背伸びをしてみせる必要がありません。信仰深く装って教会生活に疲れる必要はないのです。イエス キリストの許には、自分を隠したり偽ったりする必要のない本当の救いがあります。わたしたちのすべてを知ってなお、わたしたちを愛し抜いてくださるイエス キリストにこそ、わたしたち一人ひとりのための安息の場所があるのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちを正しく知っていてくださることを感謝します。そしてそのわたしたちを救うためにひとり子イエス キリストをお遣わしくださったことを感謝します。どうかわたしたちもイエス キリストを正しく知り、イエス キリストを通してあなたを知る者、あなたとの交わりに生きる者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

山崎順治牧師を想う

新しい教会で説教を始めるのが、5/12。
4/28、5/5は家庭礼拝を守った。
キリスト改革派教会の山崎順治牧師から頂いた「ラジオ説教集5 主の降誕」を読んで御言葉に聞いた。

妻が、今から40年ほど前に、キリスト改革派の甲子園教会で山崎順治牧師から洗礼を受けた。そのご縁でわたしたちの結婚式にもご出席くださった。
先生は機械に明るく、テレフォンメッセージもされていた。札幌にいた時、そのメッセージを聞くため、電話をしたことがある。とても慰められ、励まされた。
その先生も数年前、天に召された。

これが放送されたのは、1999年12月。12/5、12/12、12/19、12/26の4回、ラジオ関西で日曜日の朝7時30分からの「キリストへの時間」で放送されたものである。
このうち最後の2回を読んで家庭礼拝を守った。
インターネットのサイトで確認したが、この番組は今も続いているようだ。ただ残念ながら、山崎牧師の説教は昔過ぎて、過去の放送には載っていなかった。

あとがきを見ると、山崎牧師はこの年70歳を迎えるところで「私は、この11月末に定年を迎えました。しかし、この説教集シリーズは続けます。伝道用のパンフレットとして、いろんなテーマのものを続けて出したいと思っています」と書かれてある。

このような先輩のメッセージ、信仰の姿勢に励まされ、力づけられた。わたしも新しい教会で、時が与えられる限り、説教をし、福音を宣べ伝えていきたい。礼拝に来られる方が、キリストと出会い、父・子・聖霊なる神との交わりに入ることができるように、御言葉を取り次いでいきたい。

このように尊敬できる先輩と出会えた恵みを、心から神に感謝します。
また、キリスト改革派教会の伝道が、豊かに用いられ、神の言葉が多くの人に届きますように。

 

しるしの福音書 〜ヨハネ福音書の理解と試み〜

山岡健『しるしの福音書ヨハネ福音書の理解と試み〜』(1986年、大森講座 I 、新教出版社)読了。

わたしが神学校に入学した年に出版された。著者は神学校の新約学の講師で、新約緒論を習った。
著者は40代で亡くなられた。
神学校の1年生で読んだが、理解できるだけの知識と関心がなかった。
今、2回目のヨハネによる福音書の説教をしている。
神学校を卒業して、30年目だが、マタイ、ヨハネ、マルコ、ルカと説教をして、ようやく2回目に入った。(もちろん福音書以外も説教した)
2回目の説教をするにあたり、もう一度読んだ。今度は内容が理解できたし、興味も持てた。
新共同訳聖書で、「しるし」という言葉が、ヨハネ17回、マタイ6回、マルコ5回、ルカ6回出てくる。ヨハネは他の福音書と比べて多く使われている。
本書は「しるし」という言葉に表れるヨハネによる福音書の特徴を教えてくれる。

5/12から新しい教会でヨハネ 2:23から説教を続けていくが、ヨハネによる福音書を通して神の御声を聞くのが楽しみである。