聖書通読のために 57
マタイによる福音書 6章 24節(新共同訳)
「二人の主人に仕えることはできない」とイエスは言われる。二人の主人とは、神と富である。「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」とイエスは言われる。当然、イエスは神に仕えることを示しておられる。
しかし人は、うまく二人に仕える方法があるのではないか、今まで見つかっていなくてもこれから見つかるのではないか、と自分にとって都合のいいことを考えたがる。
イエス キリストを見て、目が澄み、全身が明るいかどうか、イエス キリストの救いをよく知っているかどうかが、神を主とするポイントである。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリピ 3:8)
喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)
聖句で辿る聖書 57
出エジプト記
12章 13節(新共同訳)
あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。
神は血のしるしを見て、ご自身の民を過ぎ越す。
この血は、キリストの十字架の血を指し示すもの。
聖句による黙想 11
ヨハネの黙示録 14章 6, 7節(新共同訳)
わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、
大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。
天使がすべての人に伝えた永遠の福音は、礼拝の勧めであった。福音は「よい知らせ」である。神を礼拝することは、すべての人にとって「よい知らせ」である。既に礼拝している人は、永遠の福音に与っていることを思い巡らしてほしい。
ハレルヤ
聖書通読のために 56
マタイによる福音書 6:22~23(新共同訳)
「体のともし火は目である」とイエスは言われる。
ともし火は、自分の歩く道を照らす光。目は光を感知して、自分のいる世界を知る器官。目が澄んでいれば、自分の歩いている道がよく見える。神の言葉に従い、神と共に生きているかどうかが分かる。自分がなす一つひとつの業が、神の栄光のためになされているか分かる。目が澄んでいれば、自分のすべて(全身)が神へと向かう(明るい)が、目が濁っていれば、神から離れ罪へと向かう(暗い)。
イエス キリストは「まことの光で・・すべての人を照らす」(ヨハネ 1:9)と言われ、自ら「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ 8:12)と言われた。イエス キリストこそ、自分の中に持つべき命の光である。
この光に目を向けていくとき、目は澄み、全身は明るくなる。
喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)