聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖句で辿る聖書 55

出エジプト記
6章 6, 7節(新共同訳)

わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。
そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。


人は、神の救いの御業によって、神を知る。

 

聖句による黙想 10

聖句による黙想
 思い巡らす meditation meditado

 

ヘブライ人への手紙 9章 14節(新共同訳)

永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

 

 キリストの十字架は、わたしたちを生ける神を礼拝することへと導く。

 

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 54

出エジプト記
6章 2, 3節(新共同訳)

神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。


ここで「主」と訳された単語は、何と読むのか忘れられてしまった単語である。
神の民が、よりにもよって神の名前を忘れてしまうとは・・ しかし現実に忘れてしまったのである。
現代の聖書学では「ヤハウェ(あるいはヤーウェ)」と読んだと推測されている。翻訳によっては「ヤハウェ」と訳しているものもあるが、キリスト教会で読む聖書の場合、それは適切ではない。ヤハウェは推測に過ぎない、というのもあるが、神が忘れるのをよしとされたのだ。民は、自分たちが神の名を忘れてしまった、ということを忘れずに神に祈り求めていかねばならないのだと思う。

 

ダニエル書 12:1〜3

2017年8月13日(日)主日礼拝  逝去者記念礼拝
聖書箇所:ダニエル書 12:1〜3(口語訳)

 

 きょうは逝去者記念礼拝です。先に召された兄弟姉妹たちを覚えて礼拝を守ります。

 今、ダニエル書を読みました。聖書の中ではここで初めて「永遠の生命」という言葉が出てきます。このダニエル書は、迫害の時代に書かれました。困難の中の希望として、神は幻を示されました。聖書において、幻は神の御業を示すものであり、未来への希望です。神は未来への希望として、永遠の生命を示されました。
 「かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり・・」と示されます。

 迫害の時代、未来には死しかないように思われるときがあります。そして迫害の時代でなくとも、この世にあっては、未来に死しか見えない死が目前に迫るときがあります。そして死がすべてを覆い尽くしていくように思われるとき、神はそこに永遠の生命という幻、希望をお与えになりました。
 神はダニエル書に先立つ預言者イザヤの時代に、既に先触れとしてこう語っておられました。「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる」(イザヤ 25:8)と。そしてダニエル書の時代に至って、神は永遠の生命という言葉を使ってお語りになりました。

 神は人をご自分にかたどって造られ(創世記 1:27)、神と結ばれて生きるものとして、人に命の息を吹き入れられました(創世記 2:7)。神は人を祝福され(創世記 1:28)、造ったものを見て「良かった」と喜ばれました(創世記 1:31)。命は、造られたその始まりの時から神の祝福に溢れ、命そのものに喜びが溢れていました。
 そこに罪が入り込み、死をもたらしました。神はわたしたちを命の喜びに至らせるために、救いの御業をなし、わたしたちを永遠の生命へと導かれます。

 そのために神は、ひとり子イエス キリストを救い主としてお遣わしくださいました。キリストによって死は打ち破られ、復活されたキリストの命が現れました。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。・・キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント 15:20, 22 新共同訳)
 イエス キリストの復活によって、命は死によって終わるのではなく、復活の命、永遠の生命に至ることが明らかにされました。

 いつの時代も、人は必ず死を迎えます。どんなに文明が進み、医学が進歩し、どんなに便利になり快適になっても、必ず人はこの世で死を迎えます。わたしたちの社会では、楽しいことが増え、個人で自由にできることが増え、生きていることを楽しみ、死をあまり考えずに生きていけます。けれど、必ず一人ひとりの前に死が立ち現れる時が来ます。すべてのものは過ぎ去り、ひとり死の前に立たなければならない時が来ます。そのような時を迎えるわたしたちに、神はイエス キリストによって永遠の生命を示し与えてくださいます。
 イエス キリストは、わたしたち自身の復活であり、命なのです(ヨハネ 11:25)。イエス キリストを見るときに、神がわたしたちをどのように導こうとしておられるのか、どこへと至らせようとしておられるのかが分かります。そして、神の御許へと召されていったどの命も虚しくなることなく、永遠の生命への復活へと導かれていることを知るのです。
 聖書はこう語っています。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(1テサロニケ 4:13, 14 新共同訳)

 わたしたちは今生きている者も、地上の生涯を終えた者も、キリストの復活の光の中で見ることができます。惜しみなく注がれるキリストの命の喜びの中で見ることができます。わたしたちは祝福の中で命を与えられ、救いの恵みへと導かれていくのです。だから神は最後にダニエルにこう言われたのです。
 「終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」(ダニエル 12:13)

 まだこの時、最後与えられる「あなたの分」というのが、何なのかを人々は知りませんでした。しかし今や、わたしたち一人ひとりの分として、神のひとり子イエス キリストご自身が与えられていることを、わたしたちは聖書から知らされています。聖晩餐において、イエス キリストが最後の晩餐で弟子たちに与えたように、わたしたち一人ひとりの前にキリストご自身、キリストの命を表すパンとぶどう液の杯が差し出されるのです。そして主ご自身が「取って食べよ」「この杯から飲みなさい」と言って、ご自身の命をわたしたち一人ひとりに差し出し与えていてくださることを覚え続けるのです。
 命は自分の命であっても、わたしたちの自由にはなりません。わたしたちは自分の性格や能力を自分で選んだのではありません。命は神の恵みによって与えられたもの。それを見て、神は「良かった」と喜ばれました。自分を省みるとき、いろいろ足りないものを感じます。けれども神は、あなたを見て「良かった」と喜ばれました。神は喜びをもってわたしたちを見てくださっています。そしてわたしたちが罪によって滅びないように、神はキリストを遣わされました。イエス キリストを通して、イエス キリストの復活の命、永遠の生命がわたしたち一人ひとりに差し出されています。
 今いるわたしたちも、先に召された愛する一人ひとりも、この神によって命与えられ、神に「良かった」と喜ばれ、キリストから永遠の生命を差し出されているのです。だから、安心して終わりまであなたの道を行きなさい。神が与え、神が召してくださいます。神が召されるとき、あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分、神のひとり子イエス キリストを受けるでしょう。その命に与るでしょう。そして、神が共に生きたいと願っていてくださることを、喜ぶことができるでしょう。
 失われることなく、奪い去られることのない喜び、希望が与えられています。それを共に確認し、主から慰めと希望を受け、新たな力を得て、また歩み出していきたいと願っています。

 

ハレルヤ

 

聖書通読のために 55

マタイによる福音書 6:19~21(新共同訳)

 

 心が何を意識しているか。この意識によって行動が導かれ、ときに心が囚われてしまう。
 イエスは「天(神の御前)に富を積むようにせよ」と教えられた。「富のある所にあなたの心もある」からだと言われる。
 人は他者に自分を理解してもらいたいし、認めてもらいたい。だから心は他者の目、他者の評価を意識してしまう。そして他者の理解・評価を喜び、それを自分の富としてしまう。
 イエスは、自分が神の御前にあること、神が見ておられることを意識し、神が自分を知っていてくださること、自分を愛していてくださることを知るように促している。神が知っていてくださること、神が愛していてくださることは、誰も奪うことができないし、変わることもない。わたしたちが安心して信じることのできる神の真実である。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)