聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖書通読のために 47

聖書通読

マタイによる福音書 6:9(新共同訳)

 

 主の祈りその3。
 「天におられるわたしたちの父よ」
 神は天におられる。天とは、頭の上に広がる空のことではなく、この世界を超えた神のおられるところを指す。
 イスラエル王国第3代の王ソロモンは、こう祈っている。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。」(列王記上 8:27)
 人間も世界も創られた神の超越性を表現して「天におられる」と言っているように思う。
 すべてを超越する神が、わたしたち一人ひとりを顧み、祈りを聞き、御業をなしてくださる。「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」(詩編 8:4, 5  口語訳は 8:3, 4)
 目に見える世界、被造物を超越する神は、愛と慈しみに満ちたお方である。

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

神学入門 21

神学 まとめ02
(神学入門は、この項で終了)

 

 これまで神学入門で述べてきたことの全体像を理解できるように一覧にしました。総論03で述べたように、これは一般的な神学の分類とは違います。27年間(1990年4月〜2017年3月)牧師の務めを担い、神学をする中で形成されてきたわたしの理解です。わたしは神学の専門家ではありません。牧師として教会に仕える中で、神学をしてきた一介の伝道者に過ぎません。わたしのしてきた神学は、神の民に仕える「教会の神学」です。
 わたしは牧師になるために、4年間神学校で学びました。しかし神学校のわずか数年で学ぶものは、神学の最初の一歩です。神の言葉、福音を宣べ伝える者は生涯学び続けることになります。
 学ぶ内容には際限がありませんし、ここまで学ばなければならないという基準もありません。神学を学んでみたいと思われた方は、興味のある分野の入門的な書物から読んでいかれるとよいと思います(以下に書かれた順番にこだわる必要はありません)。
 教派によって立場があるので、牧師に相談して本を推薦してもらうといいでしょう。
 神学の学びを通して、神を喜ぶ信仰が増し加えられ、喜びと確信を持って福音を宣べ伝えていけますように。
 「わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」(ローマ 5:11 口語訳)

 

〈 神学の諸科目 〉
1 聖書学
 1-1 正典(聖書が神の言葉であるとはどういうことか)
 1-2 旧約学
  1-2-1 旧約入門(緒論)
  1-2-2 (イスラエル史)余裕と関心があれば学ぶ
  1-2-3 ヘブライ語
     (文字を見て発音し、辞書を引ける程度の基礎)
  1-2-4 旧約神学
  1-2-5 旧約釈義
 1-3 新約学
  1-3-1 新約入門(緒論)
  1-3-2 (新約時代史)余裕と関心があれば学ぶ
  1-3-3 ギリシャ
     (文字を見て発音し、辞書を引ける程度の基礎)
  1-3-4 新約神学
  1-3-5 新約釈義

2 組織神学
 2-1 教理史
 2-2 信条学(古代の基本信条は是非)
 2-3 教義学
 2-4 弁証学
   (キリスト教と異端また他宗教との違いを理解できる程度に)
 2-5 キリスト教倫理
   (離婚、自殺、性的少数者など直面するであろう問題への理解)

3 教会学
 3-1 教会学序論(教会とは何か)
 3-2 教会史
 3-3 教会法

4 任務学
 4-1 礼拝について
  4-1-1 礼拝の意味
  4-1-2 礼拝の構成要素、礼拝順序
  4–1-3 招詞、祝福(意味、どの聖句を用いるのか)
  4-1-4 祈り、讃美、献金
     (意味、どのように祈り、どの讃美歌を用いるか、
      どんな献金をし、献金額をどのように決めるか)
 4-2 牧師の務め
  4-2-1 説教
  4-2-2 聖礼典(洗礼、聖晩餐)
  4-2-3 牧会
 4-3 長老の務め
 4-4 執事の務め
 4–5 教会教育、訓練(具体的にどうするのか)
 4-6 伝道について(具体的にどうするのか)
 4-7 宣教の社会的課題
   (信教の自由、戦争、人権に対する理解)


主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)

 

ルカによる福音書 21:25〜28

2017年4月30日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 21:25〜28(口語訳)

 

 イエスは、21:5からエルサレムの滅亡について語ってこられました。
 25節からは、エルサレムの滅亡からキリストの再臨に至る話しをされます。

 27節でイエスは「人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」と言われます。これはキリストの再臨です。救いが完成する終わりの時に、再びキリストが天から来られる。これが再臨です。

 イエスはエルサレム滅亡からご自身の再臨までのことについて、こう言われました。「また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。」
 大地と世界が未来永劫変わらずに続いていくのではなく、終わりの日に向かって進んでいることを示すしるしがある、ということを言っておられます。

 聖書は、この終わりの日がいつなのかは、父なる神の御心の内にあって、知らされていない、と告げています。マルコ 13:32では「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(参照 マタイ 24:36)と言われています。
 これまで終わりの日は〇年〇月〇日だと主張してきたグループがいくつかあります。しかしお分かりのようにそれは一つも当たりませんでした。イエスご自身が「父だけが知っておられる」と言われているのに、なぜそれがわたしには分かったと言うようになるのか、わたしには分かりません。そして今もそういうことを言うグループがあります。そういう話をお聞きになった方もおられるかもしれません。惑わされないように気をつけなければなりません。

 イエスがこの言葉を語られてから今まで、いろいろな時代にいろいろなしるしがありました。現代でも大きな地震がいくつも起こり、津波による大きな被害もありました。また小惑星の衝突があるかもしれないと言われ、恐怖と不安を感じている人々もいます。聖書は、この目に見える世界は普遍ではなく、救いの完成、終わりの日に向かって導かれている、ということを教えています。

 念のためにもう一度言いますが、それがいつなのかは父なる神だけが知っておられ、知らされていないと、イエスははっきりおっしゃっています。(参照:1テサロニケ 5:2、2ペテロ 3:10、使徒 1:7、マルコ 13:32、マタイ 24:36)いつなのかは分からないけれども、そのときに備えて生きるようにと言われています。12:40でも「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」と言われています。目に見える世界は過ぎ去り、神の国が到来する時が来るのです。

 日本キリスト教会信仰の告白(口語文)には、主から委託された教会の務めに終わりの日に備えることが挙げられています。
 新約の中で、「終りの日」(新共同訳「終わりの日」)という言葉が使われるのは、ヨハネによる福音書だけです。また、終わりの日と同じような意味で使われる言葉には「主の日」と「かの日」があります。
 ヨハネによる福音書6章(6:39, 40, 44, 54)では、イエスがご自分の民を終わりの日に復活させることが述べられています。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ 6:40)。

 またヨハネ 12:48では、終わりの日にイエスの言葉によって裁かれることが述べられています。「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」。また、2テモテ 4:8では、公平な審判者である主が、ご自身の民に義の冠を授けてくださることが記されています。

 そして、この終わりの日に備えるということが、ヘブル人への手紙で教えられています。「約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブル 10:23~25)

 きょうの箇所では、終わりの日へと向かっているしるしが与えられたなら、「身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいている」という勧めがなされています。
 イエスがこの言葉を語られて以来、世界の到る所でしるしは何度も与えられています。そしてわたしたちは、終わりの日のキリストの再臨に備えて生きるように促されています。
 わたしたちの教会は(日本キリスト教会)信仰の告白で「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」と告白しています。この「主が来られるのを待ち望みます」というのが、イエスが言われた「身を起し頭をもたげ」るということです。

 いつまでも今の状況が続いていくのではありません。神の導きによって変化し、神の国の完成に向けて進み行くのです。それを「身を起し頭をもたげ」て「主が来られるのを待ち望」むのです。
 いつまでも今が続いたらいいのに、と言って、終わりが来ることから、目を背け、考えないようにするのではなく、「身を起し頭をもたげ」て、神の国の到来、主の再臨を待ち望んで生きる、そういう信仰を持って生きていくように、勧めがなされているのです。

 いつ来るのか分からないものに向かって備えるというのは、簡単にできることではありません。
 科学など文明の力を身につけてきたこの世は、都合の悪いことは考えずに、今を楽しむ。そしていつまでも若々しく、年を取る、死ぬなどということは考えないで、生きていく。そういうふうに自分にとって都合のいい願望だけを見つめるように勧めてきます。
 しかしそれは、聖書を通して神が語られることとは違います。わたしたちの誰もが知っているように、時は止まることがありません。わたしたち一人ひとりの人生も終わりの時に向かって進み続けます。けれど、その終わりの時がいつなのかは、神の御心の内にあることであって、わたしたちには知らされていません。いつかは分かりません。けれど、その終わりの日に備えて生きる。終わりの時に神の前に立つ。そういう備えをして、そのときを待ち望んで生きるようにと神は勧めておられます。

 救いが近づいています。主が再臨し、神の国が到来します。わたしたちは、神の国の祝宴に招かれています。主を囲んでの食事、代々の聖徒たちと共に主を囲んでの祝宴はどんなでしょうか。わたしたちは救いの完成を期待し、仰ぎ見て待ち望むのです。

 いろいろな欠けや弱さ、罪が現れてくるこの世界にわたしたちは生きていますが、神はそこからわたしたちを救い出し、罪を過ぎ去らせ、神の国へと導いていてくださいます。神の祝福を喜び、神と共に生きる永遠の命を喜ぶ救いの完成へと、今わたしたちを、世界を導いておられます。その神が告げ知らせてくださった救いの完成、イエス キリストが命をかけて成し遂げてくださった救いの完成を、仰ぎ見、待ち望むのです。

 そのために、礼拝、祈り会を通して互いに信仰を励まし合い、罪の世に惑わされずに、神の国、永遠の命に至る救いの道を、わたしたちの主イエス キリストと共に歩んでいくのです。

ハレルヤ