聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖句で辿る聖書 36

聖句で辿る聖書

創世記
40章 8節(新共同訳)

「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。


 解き明かしは神がなさる。

 

聖書通読のために 46

思い巡らす meditation meditado
 神の思いに心を向けるために

 

マタイによる福音書 6:9(新共同訳)

 主の祈りその2。
 「天におられるわたしたちの父よ」
 イエスは、神を父と呼ぶように示された。神とわたしたちとの関係は、父と子である。親子の関係は命のつながりである。わたしたちの命の源は、神である。わたしが存在している、生きている、その根源は神である。決して失われることのない絆である。
 神のひとり子であるイエス キリストが救い主となってくださったので、キリストにつながれ結ばれたわたしたちは、神の子とされた。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤ 3:26)
 わたしたちが何歳であろうと、すべての人に命の源である神がおられる。罪人であるわたしたちを愛し、救ってくださる父なる神がおられる。何という幸い。これは大きな慰めであり、希望である。

 近年、フェミニズムの影響で「父なる神」ではなく「親なる神」「父母なる神」と呼ぶ方が良いという意見を聞く。わたしは、聖書によって神を示され、イエス キリストを救い主であると信じている。聖書が神を父として示しており、主の祈りに導かれてわたしは神を父と呼んでいる。「主よ、あなたはわたしたちの父です」(イザヤ 63:16)

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

神学入門 20

神学 まとめ01

 この神学入門を書いたのは、伝道したいという思いを抱いている信徒の皆さん、伝道のために学びたいと考えている皆さんに、あるいは子どもたちに聖書の話をされる皆さんに、神学の全体像を知ることができるように、と願ってのことです。

 わたしは、聖書の話をして、父・子・聖霊なる神を証ししよう、宣べ伝えようとするとき、神学が必要だと考えています。

 それは、聖書を読むとき、読む人の解釈があり、聖書の話をするとき、語る人の解釈があるからです。
 その解釈が独りよがりの勝手な解釈とならないために神学をするのです。神の御心と全く違う理解に陥らないように神学をするのです。

 荒れ野の誘惑で悪魔は、聖書の言葉を使って誘惑しました(マタイ4:1-11, ルカ4:1-13)。神の言葉、神の戒めを教えていた律法学者やファリサイ派の人たちは、イエスから「偽善者」と言われました。
 「聖書にはこう書いてあります」といって聖書を引用しているから神の御心に適う正しいことを言っているわけではありません。かつてアメリカに奴隷制があった頃、奴隷制を支持する牧師たちは、聖書を根拠にして黒人が奴隷であることは神の御心だと語ったと聞きました。

 聖書を読めば神の御心が正しく理解できるほど、わたしたちは清くはないのです。わたしたちには、神を理解できない罪があるのです。イエスがご自身の十字架と復活を語られたとき、ペトロは理解できず受け入れられませんでした。イエスはペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8:33)ペトロはイエスに「あなたは、メシアです」と告白する者、イエスを信じる者です。それでも、神の御心を受け入れられない罪を抱えているのです。
 ですから、わたしたちは神の前に身を低くし、「主よ、御心をお示しください」と祈りつつ、神学をする必要があるのです。

 もちろん、神学が人を救うのではありません。イエス キリストが救い主であり、神が救ってくださるのです。神学は、神の言葉である聖書を理解し、神に従って歩むために仕えるものです。
 ですから、本来神学は牧師や神学者のためのものではありません。神学に関わるレベルは人によって違いますが、神学は全信徒、全教会のためのものです。父・子・聖霊なる神との交わりに生きるためのものであり、神との交わりを喜び讃えるためのものなのです。

 この神学入門は、神を伝えたい、福音を宣べ伝えたいと願っているキリスト者一人ひとりの手助けとなることを願って書いたものです。


主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)

 

聖句で辿る聖書 35

聖句で辿る聖書

創世記
39章 19〜21節(新共同訳)

主人は怒り、
ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。
しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、・・


 神が共にいてくださり、顧みていてくださるか疑わしい現実がある。しかし聖書は、主が共におられることをわたしたちに告げる。

 

聖句で辿る聖書 34

創世記
37章 11節(新共同訳)

兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。


 参照:ルカによる福音書 2:18,19
「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」
 神の導きを思って、心に留めること、思い巡らすこと、そして祈ることは大切だと思う。