聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 18:28〜37

2017年4月2日(日)主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書 18:28〜37(口語訳)

 

 きょうから復活節に向けてヨハネによる福音書から聞いていきます。
 18:1に「イエスは・・弟子たちと一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれた。そこには園があって、イエスは・・その中にはいられた」とあります。ここは、マタイとマルコではゲツセマネと言われている所です。
 「イエスを裏切ったユダは・・一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人たちの送った下役どもを引き連れ、たいまつやあかりや武器を持って、そこへやって」(2,3節)きました。そこでイエスは捕らえられました。イエスは大祭司のしゅうとアンナスの所へ(13節)、次いで大祭司カヤパの所へ(24節)連れて行かれました。そして夜明け頃(28節)、イエスはローマ総督ピラトの所へ連れてこられました。

 イエスを逮捕したエルサレムの指導者たちは「けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸に」は入りませんでした。彼らは、異教徒の家に入ると汚れると考えていました。ユダヤ人たちは、神の御前に出られる状態を「清い」、神の御前に出られない状態を「汚れている」と考えていました。これは大いなる皮肉です。ねたみから無実のイエスに罪を着せ、イエスを殺そうとしている者たちが、汚れることがないようにと、異教徒であるローマ総督の官邸には入らないようにしているのです。「おかしいだろう」と突っ込みたくなります。彼らには神の戒めである十戒の「偽証してはならない」も「殺してはならない」も関係なかったようです。

 ユダヤ人たちが官邸に入ってこないので、ピラトの方が出てきました。「あなたがたは、この人に対してどんな訴えを起すのか」彼らはピラトに答えます。「もしこの人が悪事をはたらかなかったなら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう」ピラトは言います。「あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい」ユダヤ人たちは答えます。「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。
 そうです。彼らはイエスを殺したいのです。自分たちが受けるべき人々の敬意を奪っていったイエスを殺したいのです。自分たちよりも神の御心を知っているイエスを殺したいのです。しかし、彼らが言うとおり今ユダヤローマ帝国が支配しており、ローマ総督の許可なくして人を死刑にすることはできません。しかも、ローマの法律で死刑にするには、ローマ帝国への反逆罪でなくてはなりません。
 だから、ピラトは再び官邸に入り、イエスを呼び出して尋ねます。「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。つまり、ユダヤ人の王を名乗って、ローマに対する反乱を引き起こす者かどうかを知ろうとしているのです。

 イエスはお答えになります。「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。イエスが誰なのか答えるのは、信仰の核心です。
 マルコによる福音書8章にはこう書かれています。イエスは・・弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」弟子たちは答えます。「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」そこでイエスは彼らにお尋ねになります。「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」ペテロが答えて言います。「あなたこそキリストです」(27〜29節)
 イエスは誰なのか、それはイエスの言葉を聞き、業を見て、イエスに向かって答えるべき信仰の問題です。ですから、キリスト者はイエスが誰であるかを告白をして洗礼を受けるのです。

 ピラトは答えます。「なぜ、わたしがそんなことを答えなければならない。わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは一体何をしたのか」
 イエスはお答えになります。「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」
 そこでピラトはイエスに尋ねます。「それでは、あなたは王なのだな」イエスは答えられます。「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」

 イエスは真理を証しするために世に来られた、と言われます。そしてこのヨハネによる福音書は、こういうイエスの言葉を記しています。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(14:6)イエスご自身が、神を知り、神へと立ち帰る真理なのです。罪から救われる真理なのです。そして神は、テモテの第一の手紙 2章4節でこう述べられます。「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」
 神はすべての人が救われることを望んでおられます。そして、そのために必要な真理を悟るために、ひとり子イエス キリストを救いに至る真理として世に遣わされました。
 イエス キリストは、罪の世を超えた神の国に生きる真理となってわたしたちのもとに来られたのです。
 そして、神が聖書を通して御旨を明らかにされ、イエス キリストが宣べ伝えられるとき、「あなたはイエス キリストを誰と言うか」という問いかけと救いへの招きが、そこにはあるのです。

 わたしたちが毎週告白する「日本キリスト教会信仰の告白」には、最後に「使徒信条」と呼ばれる信仰告白が含まれています。その中に、イエスは「ポンティオピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」とあります。ここでピラトの名は、神を知らないこの世を代表する名前として使われています。
 イエスは、神を知らず、神に従うことも知らないこの世の力の前で、自らを明らかにされました。ピラトは問います。「あなたは王なのだな」イエスはお答えになります。「わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」イエスは自分を十字架につける力ある者の前で、自らを明らかにされました。
 皆さんは、このイエスを誰だと言われますか。

 イエス キリストがわたしにとって誰なのか、イエスが世に来られ、十字架を負われたのは何のためだったのか、わたしたちは、イエス キリストの苦しみに思いを向けるこの受難節に、もう一度問いかけてみるのです。
 あなたにとってイエスキリストは誰ですか。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 43

思い巡らす meditation meditado
 神の思いに心を向けるために

 

マタイによる福音書 6:1〜4(新共同訳)

 自分のことを知っていてほしい、理解してほしい、評価してほしいという思いは、かなり根源的な思いだと思う。
 神はわたしを知っておられ、理解しておられ、大切に思い愛していてくださる。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」(イザヤ 43:4)と神は言われる。イエスは、自分を裏切る者を弟子とし、自分を見捨てて逃げ去る者を最後まで愛し抜かれた。「イエスは・・世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ 13:1)
 聖書は、神の御前に立ち、神があなたを知っておられ、神があなたを愛しておられることを知るように、そして神の報いを期待するようにと語りかけている。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

神学入門 16

神学 組織神学02

教理

 わたしが神学の中で一番興味があるのは、教理である。教理は聖書の要約である。

 わたしの信仰的一番の関心事は、わたしは本当に救われるのか、あるいは救われているのか、である。
 わたしの神学校の卒業論文のテーマは、16世紀のルター派と改革派の義認の教理の比較、であった。
 わたしは本当に義とされているのだろうか、救われているのだろうか。気が小さく、悲観的に物事を考えがちなわたしは、いつもそのことを気にしていた。
 聖書は救いについて、何と言っているのだろうか。このことと向き合って考えさせてくれるのが、教理であった。科目としては、教理史と信条学である。

 教理史の中では、ペラギウス論争、神人協力説が興味を引いた。信条学の中では、義認が大きなテーマとなった16世紀のプロテスタント信仰告白に興味を持った。

 わたしの好きなことは、信仰告白や教理問答(カテキズム)にある引証聖句を確かめることである。
 教理は、聖書の要約であるから、聖書がそう言っているかどうかが、最も重要なことである。

 教理は、その根拠である聖書から遊離し、教理だけで議論されるようになると、教条主義に陥ってしまうように思う。
 聖書との確かなつながりを保っているとき、教理は神の御心を知る大切なきっかけとなり、神と出会うチャンスとなる。
 わたしは著名な神学者書物よりも、教会で読まれ、学ばれ、教会員の信仰を育むために用いられてきた信条・信仰告白が好きである。


主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)

 

教理による黙想の手引き 24

教理による黙想の手引き 第24回
  (福音時報 2016年12月号掲載 一部修正 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」 これにて連載終了)

 

「終わりの日に備える」

「集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」
(ヘブル人への手紙 10章25節 口語訳)

 わたしが神学校に入学してから(1986年)「終末論的な生き方」という言葉を何度か聞きました。その言葉がどういう意味なのか聞く機会のないまま、その言葉を聞くことがなくなりました。「終末論」のブームが去ったのだろうか、と思いました。
 終末論というものは、よく分からないままでしたが、神学校時代に教えて頂いたルターが言ったと言われる「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私はリンゴの木を植えるだろう」という言葉が、終末と聞くと思い浮かぶようになりました。

 さて、日本キリスト教会信仰の告白(口語文)には、主から委託された教会の務めに終わりの日に備えることが挙げられています。
 キリストの十字架と復活を経た後に書かれた新約の中で、終わりの日という訳語(口語訳「終りの日」新共同訳「終わりの日」)が使われるのは、ヨハネによる福音書だけです。
 終わりの日と同じような意味で使われる言葉には「主の日」と「かの日」があります。

 ヨハネによる福音書6章(6:39, 40, 44, 54)では、イエスが自分に与えられた者を終わりの日に復活させることが述べられています。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう。」(ヨハネ 6:40)
 また12章48節では、終わりの日にイエスの言葉によって裁かれることが述べられています。「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(同 12:48)

 裁きについては、「かの日」という言葉で、コリント人への第一の手紙 3章13節、テモテへの第二の手紙 4章8節でも書かれています。特にテモテへの第二の手紙では、公平な審判者である主が、ご自身の民に義の冠を授けてくださることが記されています。

 この日がいつかは分かりません。「主の日」という言葉で、テサロニケ人への第一の手紙 5章2節やペテロの第二の手紙 3章10節で述べられています。「主の日は盗人が夜くるように来る。」(1テサロニケ 5:2)(参照 使徒 1:7, マルコ 13:32, マタイ 24:36)

 そして、この終わりの日に備えるということが、ヘブル人への手紙 10章25節で告げられています。「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブル 10:23~25)

 つまり、終わりの日に備えるということは、終わりの日の復活と審判、義の冠を仰ぎ望み、互いに御言葉に聞き、祈りを合わせ、賛美をもって励ましつつ、その日がきょうであってもいいように、主の御業に仕えて生きる、ということです。
 一言で言えば「主の希望に生きる」ということです。
 罪の世の出来事に一喜一憂するのではなく、主の真実を信じ、神の国の到来を望み見つつ、「御国がきますように」(マタイ 6:10)、「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」(1コリント 16:22)と祈りつつ歩むのです。(他の何ものでもなく)「主に」「望みを置いて」生きるのです。

 この希望にすべての人が与れるように、教会は、主の御名を告白しつつ、終わりの日まで福音を宣べ伝えていくのです。人の死に際しても、世の終わりに際しても、造り主であり救い主である真の神にあっては、命の道があり、決して揺らぐことのない希望があることを宣べ伝えていくのです。

ハレルヤ