聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 21:20〜24

2017年3月26日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 21:20〜24(口語訳)

 

 きょうの箇所は、5節から続くエルサレム神殿の破壊、ユダヤ滅亡についてのイエスの言葉です。
 この福音書を編纂したルカは、1:3に出てくるテオピロ閣下なる人物に福音書を献呈しています。ルカは、イエスの言葉が真実であることと、いかにローマ帝国が強大であっても、滅びゆくものであって、依り頼むことはできない、ということを伝えようとしています。
 紀元66年にユダヤ戦争が始まります。紀元70年にエルサレム神殿は破壊されます。そして紀元73年までユダヤ戦争は続きます。ユダヤという国は滅び、ユダヤ人は流浪の民となります。
 ルカはイエスのこの言葉を、おそらく直接ではなく、伝え聞いていたのだろうと思います。ルカはエルサレムに関するイエスの預言が真実であったことを確信し、テオピロに今はローマが滅びるなどと考えられなくても、ローマに依り頼み、ローマを誇りとするのではなく、神に依り頼むこと、そして神が遣わされたイエス キリストこそ、あなたを救い支えてくださる方であることを伝えるために、この部分を丁寧に書いたのだろうと思います。

 ここでイエスは「逃げよ」と言われます。罪の世の過ぎゆくもの、神の裁きを受けるものと一緒に滅ぶことのないように逃げよ、と言われます。
 それは「聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日」だからだと言われます。神の民であるユダヤ人の罪に対する裁きがなされることを表しています。神の民の務めは、神を神として生きることです。しかし、ユダヤ人は神の救いの業を拒絶し、イエス キリストを捨ててしまいました。
 ヨセフスという歴史家が『ユダヤ戦記』という書物を残しています。その『ユダヤ戦記』には、この戦争で110万人が殺され、97,000人が捕虜とされたとあります。
 「彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう」
 以来1900年、ユダヤ人は国を失ったまま流浪の民となりました。1948年にイスラエル国が建国されて「異邦人の時期」は満ちたのでしょうか。そうではない、と思います。なぜなら、悔い改めて、武力に頼らず神に依り頼んで生きるようにはなっていない。イエス キリストを神が遣わした救い主だと信じるに至っていないからです。

 イエスは「逃げよ」と言われました。逃げると言えば、創世記19章のソドムとゴモラが滅ぼされる場面を思い起こします。19:15から読んでみましょう。「夜が明けて、み使たちはロトを促して言った、彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。・・ロトがゾアルに着いた時、日は地の上にのぼった。主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。」(15〜17, 23〜26節)

 きょうの箇所とよく似ています。おそらくイエスは、ソドムとゴモラの出来事を踏まえて「逃げよ」「市内に入ってはいけない」「刑罰の日」だと言われたのだろうと思います。未来を予見して語るというよりも、聖書に記されていることが実現するという意味合いで語られたのだと思います。
 裁かれるものに心引かれてはなりません。ロトの妻のように裁きに巻き込まれてしまいます。エルサレムから離れなくてはなりません。ヨセフスが記すようにエルサレムと共に滅んでしまった人たちは大勢いたのです。そして、ローマが裁かれるときにはローマから離れなくてはなりません。ローマは当時の世界の最先端の文化、文明を誇る大帝国です。ローマが滅びるなどと誰も思いはしません。しかしルカがテオピロに福音書を献呈してから1900年余り、ローマはもはや歴史の彼方、遺跡において当時を忍ぶばかりです。

 それでは、わたしたちは過ぎ去り裁かれるこの世に依り頼まない信仰を持っているでしょうか。わたしたちが暮らす日本もまた今の時代の最先端、豊かな文化と文明のただ中で生きています。けれど、わたしたちはこの世が不動のものではない徴(しるし)を与えられています。70年前の戦争、20年前の阪神・淡路大震災(1995年)、6年前の東日本大震災原子力発電所の事故、昨年の熊本地震。わたしたちの国はとても豊かでありながら、実に不安定、不確かな存在です。この日本もまた、神の御業の中で過ぎ去り、裁かれる存在です。
 原子力発電所の事故では多くの人がふるさとを失いました。流浪の民となりました。誰も責任を取ってはくれません。ふるさとを返してはくれず、以前の生活を返してはくれません。もちろん失われた命を返してはくれません。3月11日が近づけば思いだし、過ぎれば忘れて別の事へと思いは向かいます。8月15日と同じです。「その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難が」あるというイエスの言葉どおりのことが起こるのを、わたしたちは見て知っているのです。

 わたしたちは、この目に見える世界で生きています。この世界にある様々なものを必要とし、様々なものに支えられて生きています。けれどわたしたちは、それらのものを創り、それらを備え与えてくださる神へと思いを向けなくてはなりません。わたしたち自身も、わたしたちの周りにあるものも、神が創り、治め導いておられます。そして神だけが永遠に真実なお方です。神が遣わしてくださった神よりの神イエス キリストだけが「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル 13:8)お方です。先週の礼拝の聖書の箇所で、「創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン」(ローマ 1:25)と言われていたとおりです。

 わたしたちは、命の源であり、世界の源である神を知り、神と共に生きる者です。神の救いの御業が一人ひとりの上に、世界に成されることを祈り、そのために仕えていく者たちです。
 ルカもまたテオピロの救いを願い、この福音書を読むすべての人の救いを願ってこの箇所を丁寧に記しました。
 どうか皆さんが神の裁きを逃れて、救いへと入られますように。聖書に記されている神に祝福されたすべての聖徒たちと同じように、神に導かれ、神に祝福されて救いの道を歩んでいかれますように。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 42

思い巡らす meditation meditado
 神の思いに心を向けるために

 

マタイによる福音書 5:48(新共同訳)

 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
 この言葉を聞いて、完全な者を目指そうとすると大抵律法主義に陥る。自分で完全の基準を考え、自己点検を始めるからである。
 律法主義から解放されるためには、自己点検を止め、他人との比較を止めること。キリストを仰ぎ、神に思いを向けることである。
 聖書はこう告げている。「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」(コロサイ 1:28)また「神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし」(1ペトロ 5:10)
 神ご自身が完全な者としてくださるので、神の御業に自分を委ねていく。すなわち、救い主キリストを信じ、キリストに結ばれて完全な者とされていくのである。
 イエスご自身はこう言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタイ 19:21)富(自分の所有しているもの)に依り頼むのではなく、イエスに依り頼み、イエスに従って生きる。
 パウロも「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ 3:13, 14)と語っている。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

神学入門 15

神学 組織神学01

組織神学とは?

 組織神学、英語ではsystematic theologyと言う。
 聖書の語っていることを体系的に(systematic)に論述しようとするのが、組織神学である。
 一般的には、組織神学は3分野あると言われる。第一に教義学。第二に弁証学。第三に倫理学である。
 
 けれど、私見を述べるならば、第一は、教義学だけではなく、教理史、信条学、教義学をセットにして学ぶとよいと思う。

 教理史は、教理の歴史を扱う。教理(英語 doctrine)とは、聖書の要約である。聖書は、辞典のような記述をしない。神がそのような記述を選ばれなかった。多くは物語の形であり、祈り・讃美である。その聖書が、神はどのようなお方だと言っているか、キリストを誰だと言っているかになどについて聖書を要約して語るのが、教理である。
 この教理は、信条、信仰告白としてまとめられた。わたしの理解では、古代のものを信条、宗教改革以後のものを信仰告白と呼んでいるように思う。

 信条学は、教理自身を扱う。それは、信条(英語 creed)、信仰告白(英語 confession)の内容自体を学ぶことによってなされる。教理問答(カテキズム 英語 catechism)も信条・信仰告白に含まれる。

 教義学(英語 Dogmatic theology)は、聖書の主張を、現代の状況の中での意味を踏まえ、現代の思想と対話もしつつ、主題別に論述する。教理史、信条学が過去に意識が向くのに対して、教義学は今現在に意識を向ける。その主題は、啓示、神、創造、罪、キリスト、教会、終末などなど。

 弁証学(英語 apologetics)は、キリスト教に対する批判、異端、他宗教、世俗化、無神論に対して、聖書の使信を語ろうとするものである。

 倫理学(英語 Christian ethics)は、キリスト者としてどう生きるのかを考える。殉教、自殺、中絶、戦争などの主題が扱われる。

 以上の科目によるアプローチによって、聖書の語っていることを体系的に(systematic)に論述しようとするのが、組織神学である。

主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)

 

教理による黙想の手引き 23

教理による黙想の手引き 第23回
日本キリスト教会発行 福音時報 2016年11月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「信徒の訓練」

「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。」
(ヘブル人への手紙 12章5節 口語訳)

 主から委託された教会の務めに信徒の訓練があります。
 上掲の聖句は、主ご自身の訓練を述べているのであって、教会がなす訓練ではありません。主ご自身の訓練は、主の導きによる人生そのものが訓練です。
 では、主から委託され教会がなす訓練とは何でしょうか。

 実際に教会でなされている訓練は、各会(壮年会、婦人会、青年会など)での学びと交わり。教会全体でなされる修養会。それぞれが賜物に応じて担う教会の役割(長老、執事、日曜学校教師、奏楽、受付等々)のように教会の活動を通して行われています。

 では、教会が行う信徒の訓練は、何を目指しているのでしょうか。
 それは、主に従い、救いの御業に仕えるキリストの弟子を育てることを目指しているのです(マタイ 28:19)。

 主に従うためには、主の御心、主の考え方を知らねばなりません。そのためには、神の言葉である聖書を学び、教理を学ばなくてはなりません。「主よ、お語りください。主よ、お示しください」と祈りつつ学ばねばなりません。

 救いの御業に仕えるためには、「主よ、お用いください」と自分自身を主に献げていかねばなりません。そのとき、自分は伝道は苦手だからと、伝道を脇に置くのではなく、主の宣教命令の御言葉に応えて、第一に伝道のために「主よ、お用いください」と祈っていきます。
 次に、多くの人が神に出会うことができるように、教会形成のために「主よ、お用いください」と祈ります。
 そして、神が創り祝福してくださった自分自身のすべてを「主よ、お用いください」と祈ります。家族に、友人・知人・隣人に、自分を通して、神の栄光が現されるように、わたしも「祝福の基(源)」(創世記 12:2)とされるように、「主よ、お用いください」と祈ります。

 つまり、御言葉を学びつつ、献身の祈りをささげつつ、実践していくのです。

 主ご自身の訓練は、御心により、一人ひとりに用意され、人生の導きとなっていきます。
 それに対して教会の訓練は、一人ひとりに合わせてなされるわけではありません。そうであっても、教会の訓練も主と共に生きるキリストの弟子の育成を目指しているので、主がその人をどのように導いておられるかを無視して行われてはなりません。主の「すべての訓練は・・後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル 12:11)からです。

 教会の訓練においては、主にあってその人を理解しようとすること、つまり、牧会が必要なのです。共に主の御前に立ち、共に主に従い仕えることを願い、主にある慰めと励ましを共有しつつなされるのです。主に従って共に歩み、主の恵みと平安に共に与る。それが教会の訓練なのです。

 学びと祈りと実践。そして、それを取り囲む牧会。その中で、信仰の目が開かれ、今も生きて働かれる主の御業を見るのです。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)と言われたキリストの臨在を見るのです。そして、神の国の到来と完成に向けて前進する神の御業に仕えて生きるのです。

ハレルヤ