聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖書通読のために 42

思い巡らす meditation meditado
 神の思いに心を向けるために

 

マタイによる福音書 5:48(新共同訳)

 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
 この言葉を聞いて、完全な者を目指そうとすると大抵律法主義に陥る。自分で完全の基準を考え、自己点検を始めるからである。
 律法主義から解放されるためには、自己点検を止め、他人との比較を止めること。キリストを仰ぎ、神に思いを向けることである。
 聖書はこう告げている。「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」(コロサイ 1:28)また「神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし」(1ペトロ 5:10)
 神ご自身が完全な者としてくださるので、神の御業に自分を委ねていく。すなわち、救い主キリストを信じ、キリストに結ばれて完全な者とされていくのである。
 イエスご自身はこう言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタイ 19:21)富(自分の所有しているもの)に依り頼むのではなく、イエスに依り頼み、イエスに従って生きる。
 パウロも「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ 3:13, 14)と語っている。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

神学入門 15

神学 組織神学01

組織神学とは?

 組織神学、英語ではsystematic theologyと言う。
 聖書の語っていることを体系的に(systematic)に論述しようとするのが、組織神学である。
 一般的には、組織神学は3分野あると言われる。第一に教義学。第二に弁証学。第三に倫理学である。
 
 けれど、私見を述べるならば、第一は、教義学だけではなく、教理史、信条学、教義学をセットにして学ぶとよいと思う。

 教理史は、教理の歴史を扱う。教理(英語 doctrine)とは、聖書の要約である。聖書は、辞典のような記述をしない。神がそのような記述を選ばれなかった。多くは物語の形であり、祈り・讃美である。その聖書が、神はどのようなお方だと言っているか、キリストを誰だと言っているかになどについて聖書を要約して語るのが、教理である。
 この教理は、信条、信仰告白としてまとめられた。わたしの理解では、古代のものを信条、宗教改革以後のものを信仰告白と呼んでいるように思う。

 信条学は、教理自身を扱う。それは、信条(英語 creed)、信仰告白(英語 confession)の内容自体を学ぶことによってなされる。教理問答(カテキズム 英語 catechism)も信条・信仰告白に含まれる。

 教義学(英語 Dogmatic theology)は、聖書の主張を、現代の状況の中での意味を踏まえ、現代の思想と対話もしつつ、主題別に論述する。教理史、信条学が過去に意識が向くのに対して、教義学は今現在に意識を向ける。その主題は、啓示、神、創造、罪、キリスト、教会、終末などなど。

 弁証学(英語 apologetics)は、キリスト教に対する批判、異端、他宗教、世俗化、無神論に対して、聖書の使信を語ろうとするものである。

 倫理学(英語 Christian ethics)は、キリスト者としてどう生きるのかを考える。殉教、自殺、中絶、戦争などの主題が扱われる。

 以上の科目によるアプローチによって、聖書の語っていることを体系的に(systematic)に論述しようとするのが、組織神学である。

主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)

 

教理による黙想の手引き 23

教理による黙想の手引き 第23回
日本キリスト教会発行 福音時報 2016年11月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「信徒の訓練」

「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。」
(ヘブル人への手紙 12章5節 口語訳)

 主から委託された教会の務めに信徒の訓練があります。
 上掲の聖句は、主ご自身の訓練を述べているのであって、教会がなす訓練ではありません。主ご自身の訓練は、主の導きによる人生そのものが訓練です。
 では、主から委託され教会がなす訓練とは何でしょうか。

 実際に教会でなされている訓練は、各会(壮年会、婦人会、青年会など)での学びと交わり。教会全体でなされる修養会。それぞれが賜物に応じて担う教会の役割(長老、執事、日曜学校教師、奏楽、受付等々)のように教会の活動を通して行われています。

 では、教会が行う信徒の訓練は、何を目指しているのでしょうか。
 それは、主に従い、救いの御業に仕えるキリストの弟子を育てることを目指しているのです(マタイ 28:19)。

 主に従うためには、主の御心、主の考え方を知らねばなりません。そのためには、神の言葉である聖書を学び、教理を学ばなくてはなりません。「主よ、お語りください。主よ、お示しください」と祈りつつ学ばねばなりません。

 救いの御業に仕えるためには、「主よ、お用いください」と自分自身を主に献げていかねばなりません。そのとき、自分は伝道は苦手だからと、伝道を脇に置くのではなく、主の宣教命令の御言葉に応えて、第一に伝道のために「主よ、お用いください」と祈っていきます。
 次に、多くの人が神に出会うことができるように、教会形成のために「主よ、お用いください」と祈ります。
 そして、神が創り祝福してくださった自分自身のすべてを「主よ、お用いください」と祈ります。家族に、友人・知人・隣人に、自分を通して、神の栄光が現されるように、わたしも「祝福の基(源)」(創世記 12:2)とされるように、「主よ、お用いください」と祈ります。

 つまり、御言葉を学びつつ、献身の祈りをささげつつ、実践していくのです。

 主ご自身の訓練は、御心により、一人ひとりに用意され、人生の導きとなっていきます。
 それに対して教会の訓練は、一人ひとりに合わせてなされるわけではありません。そうであっても、教会の訓練も主と共に生きるキリストの弟子の育成を目指しているので、主がその人をどのように導いておられるかを無視して行われてはなりません。主の「すべての訓練は・・後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル 12:11)からです。

 教会の訓練においては、主にあってその人を理解しようとすること、つまり、牧会が必要なのです。共に主の御前に立ち、共に主に従い仕えることを願い、主にある慰めと励ましを共有しつつなされるのです。主に従って共に歩み、主の恵みと平安に共に与る。それが教会の訓練なのです。

 学びと祈りと実践。そして、それを取り囲む牧会。その中で、信仰の目が開かれ、今も生きて働かれる主の御業を見るのです。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)と言われたキリストの臨在を見るのです。そして、神の国の到来と完成に向けて前進する神の御業に仕えて生きるのです。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 41

思い巡らす meditation meditado
 神の思いに心を向けるために

 

マタイによる福音書 5:43〜47(新共同訳)

 「愛するとは、どういうことか」ということについて考えるきっかけとなった箇所。
 聖書における愛とは「共に生きようとする意思」だと考えるに至った。好き嫌いの感情ではない。神はわたしたち罪人を愛していてくださる。つまり、共に生きようと願っておられる。そのために救いの御業をなされる。それをヨハネ 3:16は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と言い表している。
 救いの御業の前進を祈るとき、敵や迫害する者が裁かれ、罪が滅ぼされ、義が立てられていくことを祈ることもある。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられ」(1テモテ 2:4)「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて」おられるのだから、すべての人は神に裁かれ、救われる必要がある。
 マザー・テレサの言葉に似ているが、愛の対義語は「無関係」だと思う。その人が滅んでもわたしには関係が無い、と言うとき、そこに愛はない。しかし、罪が裁かれ滅ぼされて、救いがなされることを祈るとき、そこに愛はある。
 夫婦、親子、友人、隣人、仲間、郷土、国、世界・・ 共に生きる関係のあるところには、神が与えてくださる愛が必要である。それを心に留めてわたしたちは祈っていくのである。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)