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聖書の言葉を聴きながら

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教理による黙想の手引き 06

教理

教理による黙想の手引き 第6回
日本キリスト教会発行 福音時報 2015年6月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「罪」

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

              (ローマの信徒への手紙 3章 23, 24節 新共同訳)

 

 ヨセフがマリアを離縁しようと考えていたとき、ヨセフの許に主の天使が現れました。主の使いは言います。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。・・マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ 1:20, 21)
 イエス・キリストは、わたしたちを罪から救うために世に来られました。

 罪という言葉には、違反、的外れという意味があります。違反とは、神の言葉に背くこと。的外れとは、神の御心とは、ずれて神とは違うところへ向かっていくことです。
 ですから、罪人は的外れな存在。善意も熱心も神の御心とすれ違います。ペトロも「サタン、引き下がれ」(マタイ 16:23)と叱責されました。罪人は神の御業を喜べない。神の御心を聞いて受け入れることができない。自分が願う仕方で、自分の望む幸せを与えてほしいのです。だから、神を信じることができない。神と共に歩めない。聖書は告げます。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ 3:10)「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(1ヨハネ 1:8)

 神が臨在してくださり、救いの神としてご自身を啓示してくださるところに神の栄光は現れます。神の栄光は、神ご自身の許にあります。罪は、神の許に立ち帰ることを、神の許に留まることを妨げます。だから「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」(ローマ 3:23)いるのです。

 わたしたちには、神の栄光が受けられなくなっている、その状態が分かりません。そもそも罪人には、罪が分かりません。なぜ神の言葉に従わなければならないのかが分からない。特に現代、個人の自由が主張される時代には分からない。神の言葉は、人間を不自由にするものだと思えるのです。罪人は、自分の善悪の基準で見えている、分かっていると思ってしまう。しかし「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハネ 9:41)のです。

 罪を知る、そして神を知るには、神の言葉と向かい合わなくてはなりません。だから神は語りかけてくださいます。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」(エレミヤ 7:23)神はわたしたちの幸いを願い、語り続けてくださいます。

 神を知るとき、人は自分が罪人であることを知ります。福音宣教のため世界を駆け巡ったパウロもこう告白しています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ 7:15, 17)「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ 7:24)「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(1テモテ 1:15)

 真実な神の恵みを受けたとき、初めて人は罪を認めることができます。神の恵みなくして罪を知るとき、人は絶望してしまいます。しかし、わたしたちには「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ 3:24)という揺るぎない恵みが与えられているのです。
 わたしたちは、大いなる神の恵み、イエス・キリストの救いの御業の中で、罪から救われた喜びに生きる者とされているのです。

ハレルヤ