聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖句で辿る聖書 66

出エジプト記
15章 2節(新共同訳)

 

主はわたしの力、わたしの歌
  主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
 わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。


 出エジプトにおいて、イスラエルは救いの神を知った。
 神は民に讃美と信仰をお与えになる。

 

聖句による黙想 16

ヘブライ人への手紙 3章 4節(新共同訳)

どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。

 

 万物の根源に神がおられる。
 現代では、神は存在せず、すべては科学の法則により、偶然に(たまたま)存在していると考える人もいるが、一方では偶然といいながら、もう一方で存在の意味を語ろうとする。それは大きな矛盾である。この世は矛盾に苦しんでいる。
 しかし聖書は、この世に向かって「万物の根源には神がおられる」と語りかける。

 

ハレルヤ

創世記 18:16〜33

2017年10月22日(日)主日礼拝 宇久井伝道所(14:00)
聖書箇所:創世記 18:16〜33(口語訳)

 

 アブラハムが、ソドムとゴモラを裁こうとされている神に、執り成し祈る場面です。

 神がソドムを裁き滅ぼされる御心であることを知ったアブラハムは、主の前に進み出て、執り成しを始めます。
 「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか。」
 主はお答えになります。「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう。」

 アブラハムは再度執り成します。「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか。」
 主はお答えになります。「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう。」

 アブラハムは重ねて執り成します。「もしそこに四十人いたら。」
 主はお答えになります。「その四十人のために、これをしないであろう。」

 アブラハムはまだ諦めずに執り成します。「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら。」
 主はお答えになります。「そこに三十人いたら、これをしないであろう。」

 アブラハムはさらに執り成します。「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら。」
 主はお答えになります。「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう。」

 アブラハムは最後にもう一度執り成します。「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら。」
 主はお答えになります。「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう。」

 主はアブラハムと語り終り、去って行かれました。アブラハムも自分の所に帰っていきました。アブラハムの執り成しは終わりました。
 しかし、ソドムは裁かれ滅ぼされました。正しい人は十人もいなかったということでしょうか。

 しかしわたしたちは知っています。アブラハムは十人までしか執り成しできませんでしたが、神はたった一人の正しい人イエス キリストの故に、すべての人の救いを用意してくださいました。キリストは、すべての人のために死を味わわれ(ヘブル 2:9)、すべての人を救う神の恵みとして現れてくださいました(テトス 2:11)。神がただ一人の正しい人を用意してくださいました。

 そしてキリストご自身が、わたしたちのために執り成し続けていてくださいます。イエスは十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ 23:34)キリストはご自分を十字架に付けている者のために執り成されました。またヘブル 7:25では、キリストは「いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」と言われています。ですから日本キリスト教会信仰の告白でも「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」と告白しているのです。

 そしてわたしたちは、主に倣って執り成し祈るのです。わたしたちは祈りに召されているのです。執り成しは、祈りの大切な要素であり、キリスト者の務めです。神ご自身が罪人を諦めずに、救いの御業をなしていてくださいます。「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(1テモテ 2:4)のです。すべての人が執り成される必要があるのです。そして、すべてのキリスト者は執り成し祈るのです。
 アブラハムも執り成しました。アブラハムの執り成しは、イエス キリストの執り成しを指し示しています。そして、新約の時代のわたしたちは、イエス キリストに倣い、キリストを証しするのです。

 わたしたちは、執り成しの祈りによって、神の救いの御業に仕えているのです。だから諦めずに祈ります。神が出会いを与え、祈りに覚えるべき人として与えてくださった人々のために祈ります。家族のために祈ります。友人のために祈ります。地域のため、国のため、世界のために祈ります。全地が,主を知る知識で満たされ,世界が讃美の歌声で覆われるように祈ります。神の愛と恵みを,すべての人が分かち合うことができるように祈ります。神の慰め、平安,そして喜びと希望が与えられるよう祈ります。

 時に「祈ることしかできない」と消極的否定的に言われることがあります。しかし、キリスト者の祈りはそいういうものではありません。
 アブラハムの執り成しは、そのときだけのものではなく、イエス キリストへとつながり成就する祈りです。イエスは母の胎に宿られ、十字架の後、陰府に降り宣べ伝えられました(1ペテロ 3:19)。命の誕生から陰府に至るまで、イエス キリストは救いをもたらしてくださいました。イエス キリストは、まさしく神の御心、「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(1テモテ 2:4)という思いを成就する救い主として生き抜いてくださいました。
 だからわたしたちが「キリストの御名によって」祈る祈り、キリストに託し、キリストに望みをおいて祈る執り成しは、決して空しくはならないのです。
 真実な救い主にあって祈れることは、幸いです。キリスト者は、その幸いな恵みに生きているのです。

 

ハレルヤ

ルカによる福音書 22:31〜34

2017年10月22日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:31〜34(口語訳)

 

 最後の晩餐の席で、イエスは自分を裏切る者がいることを明らかにされました。それを聞いて弟子たちは、自分たちのうち誰がそんなことをしようとしているのだろうと、互に論じ始めました。
 その議論は、次第に自分たちの中で誰が一番偉いだろうかという議論になっていきました。しかしそれは、主の御心とはかけ離れた議論になっていきました。

 イエスは、誰が裏切り者かを当てさせたくて話されたのではありません。イエスの前にいる一人ひとりが裏切る者であり、見捨てる者であり、知らないと言う者なのです。その自分たちの弱さも罪深さもイエスは知っていてなお招いていてくださり、十字架を負って罪を贖ってくださいました。それを忘れないで知るようにと、イエスは裏切る者の話をされたのです。だからきょうの箇所でも「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:32)と言っておられるのです。

 さてイエスは、きょうの箇所の直前の30節で「あなたがたは位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう」と言われました。弟子たちは、この言葉を聞いて喜んだことでしょう。しかし彼らは、そこに至るまでに試練を経験しなければなりませんでした。イエスは言われます。「見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。」
 これは旧約のヨブ記の最初の場面を思い起こします。「サタンは主に答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。・・今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』。主はサタンに言われた、『見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない』。」(1:9, 11, 12)
 サタンが神に願って試練を与えるのを許されるという事態について告げられています。使徒たちにも、サタンが「麦のようにふるいにかけることを願って許され」たのです。
 ふるいにかけるというのは、より分けることです。サタンがもたらす試練を超えられるか、自分の信仰がどんな信仰なのかが明らかにされます。そこである者は裏切り、ある者は逃げ去り、ある者はイエスを知らないと言うのです。その試練は、自分が思っているよりも自分の信仰は弱く小さいことを明らかにします。けれどイエスはそれを知っておられます。そして「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と言われます。わたしたちの弱さ、罪深さを知っておられる主は、わたしたちのために執り成し祈ってくださいます。ヘブル 7:25ではこう言われています。キリストは「いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」
 この救い主の執り成しの祈りがあるので、わたしたちは躓きから立ち直ることができるのです。主は言われます。「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」わたしたち罪人は必ず躓きます。躓かずにイエスに従い信仰の道を歩める者はいないのです。誰もがイエスの執り成しが必要であり、そして躓きから立ち直った信仰の友の力づけが必要なのです。

 しかしペテロは、イエスのこの言葉に納得できませんでした。「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です。」
 ペテロは認めてもらえていないと思ったのでしょう。ペテロは自分の思い、自分の信仰をイエスに分かってもらおうと、本気で真剣に訴えます。しかしペテロは自分自身を分かっていませんでした。ペテロだけが分からないのではありません。よく「自分のことは自分が一番分かっている」などと言いますが、人は自分の罪が分かりません。神と共に歩むことができないことに気づかなくては、罪は分かりません。ペテロと同じように、わたしたちも真剣にイエス キリストを信じ、イエス キリストと共に歩みたいと願っているからです。
 ペテロの場合、自分を守るためにイエスを「知らない」と切り捨ててしまう自分に気づかなくては、自分が罪人であることに気づけなかったのです。そしてイエスが十字架を負われたことが、自分自身を救うためであった、ということに気づけなかったのです。自分はイエスの最初からの弟子。すべてを捨ててイエスに従ってきた。他の弟子よりも側近くに仕えてきた。そういった誇りがペテロにはありました。ですが、自分を誇っている、自分を誇りたいと思っている、その罪がある限り自分の罪に気づくことはできません。イエスはペテロをご自分の使徒とするため、ペテロ自身の罪を理解するようにと導かれたのです。
 イエスは言われました。「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」

 ペテロはがっかりしたでしょう。「なぜ先生は分かってくださらないのだろう」と。しかし、わたしたちは知っています、イエスが言われるとおりだったことを。
 だから、わたしたちは理解しなくてはなりません。イエスはわたしたちを知っておられるということを。自分は自分の罪を分かっていないということを。イエスの弟子として仕えるために、自分の罪に気づくための試練があるということ、それに躓くということ、しかしイエスが信仰がなくならないように祈っていてくださるということ、そして立ち直ったとき、主にある兄弟姉妹を力づける務めが託されているということを。

 自分の罪を知ることは、気持ちのいいことではありません。この後、三度イエスを知らないと言ったペテロは、激しく泣きました(22:62)。しかし、イエスに従おうとするとき、悔い改め、立ち帰ろうとするとき、自分の罪を知ることを避けることはできません。イエスが救い主であってくださるのは、わたしたちを罪から救うからです(マタイ 1:21)それは神が定めたもうときに起こります。「すべてのわざには時がある」(伝道の書 3:1)と言われているとおりです。そして、そのときにはイエスが真実にわたしの救い主であってくださることを、さらに深く知ることになるでしょう。信仰深くあろうとして頑張っている自分、背伸びしている自分、信仰を装っている自分ではなく、イエスが本当の自分の救い主であってくださることを知るでしょう。本当の救い主と出会える人は、幸いです。
 神は本当の救い主をわたしたちにお与えくださいました。本当の救い主に出会うようにと、わたしたちを招き続けていてくださいます。

 

ハレルヤ

聖書通読のために 61

マタイによる福音書 7章 3~5節(新共同訳)

 

 「自分の目の中の丸太」とは、自分自身の罪のことである。神の御心とは違う、自分の善悪のことである。自分の善悪が基準であるとき、当然自分の目の中の丸太には気づかない。この丸太は、自分の善悪と一致しているのだから。
 神の前で「自分は正しい」とする者は、イエスが言われるとおり偽善者である。
 自分の目から丸太を取り除くとは、神の前で罪を認識し、悔い改めて神へと立ち帰ることである。自分に従うのではなく、神に従って歩み出そうとすることである。神の言葉である聖書から、神の御心を聞こうと真剣になることである。そのとき、兄弟に「共に神の御心を聞こう」と礼拝へと誘(いざな)い、祈り会(祈祷会)へと導くのである。これが「兄弟の目からおが屑を取り除く」ことである。
 裁きは、神がご自身の御心によってなされる。神の民は、共に神の御前へと立ち帰るために仕えるのである。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)